2023年12月24日 (日)

タイトルバナー(3)

タイトルバナー3回目。
これらは翌2021年のブログに載せたものの再掲。
すべてに俳句を添えてあります。

2020年に家の建て替えをしました。
最初の4枚の「空蝉」はその年の7月下旬に我が家の門塀にしがみついていたものです。家の建て替えで、以前庭だった所がほぼ駐車場になり、樹木も大部分を処分したので、きっと地下に潜っていた蝉の幼虫たちはどこから地上に出ていいのかずいぶん迷ったすえ、門塀付近にわずかに残る土の部分から這い上がってきたのではないかと思います。
脱皮できたのは、親が産んでくれた木ではなく門塀でした。
で、こうした蝉は昨年にはいなかったのですが、実は今年2023年の夏に2匹も門塀で脱皮していました。たぶん来年以降もみられると思います。

クリックして拡大してください。
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2023年12月19日 (火)

タイトルバナー (2)

タイトルバナー2回目。
これは2年前の記事と同じ。

2020~21年にかけてのもの。5~8月の日常風景です。
6番目の通称「ロボット水門」は、岐阜公園の側にありますが、その原型は昭和初期に作られたものらしく、岐阜県近代化遺産のひとつになっているようです。

クリックして拡大してください。
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2023年12月18日 (月)

タイトルバナー (1)

2年ほど前、このブログのタイトルバナーとして使った写真をいくつかまとめて載せたことがありました。
このブログは自分の撮った写真のアルバムでもあると思っているので、とくにタイトルバナーはかなり時間を割いて編集しています。けれどスマホ版では残念ながらタイトルバナーは全く無視されます。できればタブレットかPCで。

そんなわけで、これまでのタイトルバナーを数回に分けて載せておきます。次回からは2年前にまとめて載せていたものも再掲しておきます。同じような記事や写真をもう一度載せることについて、少し迷いましたがどうかご容赦を。


今回は主に2021年のブログに載せたタイトルバナーです。

2003年から07年ぐらいまで八重山諸島に何度か行きました。幾つかの所用があったからで、観光目的ではなかったのですが、それでも時間の許す限り島々を見て回りました。8月だけでなく春や秋にも訪れたことがありました。当時撮った写真が眠ったままになっていたので、タイトルバナー用に編集し保存しておくことにしました。
とくに波照間島の北側にあるニシ浜は、波の音以外全く聞こえない世界なので、心がどんどん内へ内へと深いところへ降りてゆくような不思議な時間を経験しました。2枚目は地元の方らしいのですが、海を眺める父と子の姿を今も思い出します(2006年)。5枚目は波照間島の南側、有人の島としては日本最南端の場所になります。6~7枚目は石垣島です。

できればクリックして拡大してください。
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2023年11月 3日 (金)

震災遺構大川小学校

6日かけて、この10月中旬「みちのく」ひとり旅。
自家用車を使い、往復の走行距離 1900㎞ あまり。
それにしても2ペダルMTの車は、高速道路も山坂道も愛馬のごとくよく走ってくれた。

芭蕉さんの足跡を巡りながら山形県、宮城県そして岩手県まで足を伸ばしたが、目的のひとつに震災遺構の見学もあった。
とくに市町村単位では最も多くの犠牲者を出した石巻市(死者3187人、行方不明者415人)はどうしても訪れたかった。
女川港や震災遺構門脇小学校にも立ち寄ったが、ここでは石巻市震災遺構大川小学校を訪ねた時の印象だけを記す。

学校沿革やメッセージの記されたパネルはどれも心を打つ。
爽やかな秋空のこの日、遺構のなかをたくさんの赤とんぼが飛び回り、錆びた鉄筋や説明板に羽根を休め、あたかもガイド役のように「これを見て考えて欲しい」と訪問者たちに問いかけているかのようだった。
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行方不明者捜索の際に壊された教室の腰壁部分に残る鉄筋
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訪問した日の午前、遺構にいたひとは50名ぐらいであったかと思う。誰もが静かに遺構を巡っておられた。音といえば、10名ほどのグループに「語り部」のひとがゆっくり丁寧に話す声だけだった。
校庭に立ったとき、地震発生時から50分あまり学校に待機していた児童・教職員と避難してきた住民の方たちの姿や、やがて河川津波が襲ってくる方角にある三角地帯に向かって動き出した子どもたちの後ろ姿が、しぜんに目に浮かんできたのである。
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かつて同じような職場に身を置き、地域も校種も違うけれども、そしてすでにリタイアした身ではあるが、この場に立ってまず心のなかに湧き上がってきたのは、これまでに感じたことのない「悔恨」であり「憤り」であり、そして幾つもの「疑問」だった。
疑問のうち、現場を見なければわからなかったことの大半はこの日納得したけれども、最も大きな難しい問いは、やはり現場に立ったところで答えが出るはずもなかった。
「あの時もし自分がこの場にいたら、どう判断し行動しただろうか?」

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津波は校舎2階の天井に達していたことが確認されている。
すでに12年半の年月が経過し、遺構の劣化も懸念されるなか、ボランティアなどのひとたちによる保存・維持の努力が続けられているという。
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校舎南側にある裏山と擁壁。左奥に登り口がある。
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校舎南側の、その日もそしてその後も「議論」され続けた小高い裏山の、コンクリート擁壁の上に立ち、見学を終える直前にあらためて学校と付近の全景を眺めてみた。写真奥(北側)には河川津波が遡上してきた富士川・北上川が流れている。川と学校の間、そして写真右(東側)には住宅地などのひとびとの生活の場があったが、現在はハウス栽培施設になったり更地になっている。
この大川地区で亡くなった方は418名とのこと。
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津波到達箇所は、人の立っている擁壁の下にある矢印の掲示板あたり。Rrdsc01061_20231103025401

この裏山には、襲ってくる津波からかろうじて逃げることのできた児童4名・教職員1名、その他に住民・河北総合支所職員10数名が避難した。
この児童4名のうち2名について『大川小学校事故検証報告書』は次のように記す(87頁)。

校庭からの三次避難中、児童2名は、津波を目撃して来た道を戻り、正面にあたる山の斜面を登ろうとした。うち1名は、斜面を数メートル登ったところで振り返り、水が押し寄せてくるのを見てさらに登るべく再び斜面側を向いたところで、後ろから押し倒されるように津波にのまれて気を失った状態で半分ほど土に埋まった。もう1名は、津波に巻き込まれながらも水面に出ることができ、ちょうど流されて来た冷蔵庫に舟に乗るようにして入った。冷蔵庫が波に流されて山の斜面にたどりつき、斜面に降り立ったところ、付近に半分ほど土に埋まった状態の児童がいたため、負傷していたにもかかわらず、土を掘って助け出した。助けられる側の児童も、自力で土を押しのけて起き上がった。」

当時の全校児童数は108名、欠席や保護者に引き取られた児童を除いた77~78名が校庭にいたといわれる。
この事件は学校管理下で起きたこれまでの最大の犠牲者数を出した。犠牲となった児童は死亡70名、行方不明4名(2023年7月現在)、犠牲になった教職員数は校庭にいた11名中10名とされている(小さな命の意味を考える会/大川伝承の会編集発行の冊子「小さな命の意味を考える」第2集等による)。

答えの出ないあの難しい問いは今も胸のなかにあるし、これからもあり続けるだろうと思う。けれどもここへ来てあらためて肝に銘じたことは、危険に直面したとき躊躇せず素早く命を守る行動をせよ、というあまりにも当然すぎる命題だった。

遺構をあとにしながら駐車場へ向かうとき、むかし父の取ったある行動を思い出した。
小学生のころ、夏休みに母の実家にいたとき、昼間大きな地震があり、縁側で隣に座って涼んでいた父が、揺れと同時に間髪をいれずわたしの上に覆い被さってきたときの、まったく信じられないような素早い動きのことを。

★参照した主な資料

裁判→参照・ダウンロード先
 ★平成26年(ワ)301 国家賠償等請求事件
  平成28年10月26日 仙台地方裁判所
 ★平成28年(ネ)381 国家賠償請求控訴事件
  平成30年4月26日  仙台高等裁判所 仙台地方裁判所

〇大川小学校事故検証報告書 平成26年2月
 (→参照・ダウンロード先

〇「小さな命の意味を考える」 
  第2集 宮城県石巻市立大川小学校から未来へ
  2023年8月20日第6版(→参照・ダウンロード先

〇その他(下記の遺構の展示説明等)
 ・石巻市震災遺構門脇小学校
   震災遺構(本校舎)、展示館(特別教室)
   展示館(屋内運動場)
 ・石巻市震災遺構大川小学校と大川震災伝承館

 *石巻市震災遺構HP(→参照)  

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2023年9月 5日 (火)

夏の名残の薔薇🌹

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 Graham Thomas 1983  (花フェスタ記念公園 20200702)

なんとなく秋の気配を感じ、あの曲を聴きたくなった。
The Last Rose of Summer🌹
アイルランドの歌曲だけど、日本では「庭の千草」として知られている。

原曲の詩(Thomas Moore、1779~1852)を読んでいると切なく哀しく辛い気持ちになるが、とくに詩の結びを何度も読み返していると、不思議なことに心が前向きになる力を感じてくる。美しい言葉ゆえか、メロディーによるものか、うまく言葉には表せないが。

So soon may I follow,
When friendships decay,
And from Love's shining circle
The gems drop away!
When true hearts lie withered,
And fond ones are flown,
Oh! Who would inhabit
This bleak world alone?.

注:スマホの方は横位置にしてください
歌詞付きの映像があったので埋め込む。
歌:森野美咲(ウィーン在住)→★

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2023年9月 1日 (金)

那谷寺(なたでら)

空を見上げると、すでに高層にはねばりのない秋雲が流れている。夕刻日陰に入ると、肌に当たる風にもやや秋の涼しさを感じる。

『おくのほそ道』の芭蕉が金沢に着いたのはちょうど今頃、旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)であった。そして金沢から小松にいたるまでに「秋の風」をテーマとして四句掲げている。その三句目、四句目。

あかあかと日はつれなくも秋の風

しをらしき名や小松吹く萩薄

その小松を訪れたあと芭蕉は山中温泉にしばらく逗留するが(ここで曽良と別れる)、請われて再び小松へ戻っている。その戻り道で「那谷寺」に立ち寄ったのである。しかし『おくのほそ道』の記述は、小松から山中温泉への途上に「那谷寺」へ参拝したことになっている。

石山の石より白し秋の風  

那谷寺の開創は8世紀であり、元は「岩屋寺」といわれた。その後「那谷寺」と呼ばれるようになった経緯と寺内の奇石について芭蕉はこう記す。

花山の法皇、三十三所の巡礼遂げさせたまひて後、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付けたまふとや。那智・谷汲の二字を分かちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ゑ並べて、萱葺きの小堂、岩の上に造り掛けて、殊勝の土地なり。

芭蕉も見た奇岩霊石は今「奇石遊仙境」と名付けられている。
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境内にある芭蕉の句碑(左:1843年建立)と翁塚(右)。
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芭蕉が「萱葺きの小堂」と記した本殿(大悲閣)。16世紀に寺は荒廃したが、本堂は1642(寛永19)年に再建され、さらに1949年に解体修理されている。本尊は十一面千手観世音菩薩で、芭蕉の説明とは異なり花山法皇の時代以前から納められている。この階段左側が奇石に接している。
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名勝の書院庭園・琉美園よりも、むしろ本堂へ続く参道沿いの杉並木と苔が今も印象に残る。暑い日ではあったが、苔の絨毯に差し込み揺れる木漏れ日と樹影の織りなす景象に、当日の参拝者で立ち止まらないひとは誰もいなかった。
できることなら季節ごとに訪れてみたいと思ったのである。
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〇写真:8月5日撮影
〇新版『おくのほそ道』潁原退蔵・尾形仂 訳注 角川ソフィア文庫

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2023年8月27日 (日)

再びの「雪の科学館」

今月初めに北陸の芭蕉ゆかりの地を巡ったことは先日記事にしたが、加賀市に立ち寄ったときどうしても再訪したいところがあった。それはこのブログをはじめたころに記した(→★)中谷宇吉郎の「雪の科学館」である。そのときの記事(2017年)は彼の『雪雑記』にあった体験と自分の幼少期に体験した雪の思い出を重ね合わせて書いたものだった。

はじめて「雪の科学館」を訪れてから約17年の歳月が過ぎた。2006年に写した携帯電話の写真をもういちど見てみる。
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そして下が今回同じような位置から撮ったもの。
手前にある大きく生長した樹木が年月の移り行きを語っている。
風景を眺めながら17年前の自分を振り返り、この間何事も無くこの木がここにあること、科学館が変わらない姿であることに安堵もし、そういえば、館の設計に携わった建築家磯崎新が昨年末に旅立ったことも思い起こしたのである。Lllkkkdsc00538
 「中谷宇吉郎 雪の科学館」20230806 石川県加賀市

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2023年8月15日 (火)

岐阜空襲のB29搭乗員

※この記事はもうひとつのブログ「海の陸兵」にも掲載しています。

岐阜空襲のことは、毎年とくにこの時期地元のメディアを中心によく記事にされている。

今年の幾つかの記事のなかで注目したのは、6年前の2017年に自分のブログ「海の陸兵」で記したことのあるB29搭乗員の手記を取り上げたものだった。
その記事は、8月8日の中日新聞朝刊のほかにWeb上でも見ることができる。
  〇東京新聞Web 2023年8月4日配信 無料記事 
  〇中日新聞Web    同年8月8日配信 

6年前このブログで記したのは、岐阜空襲などに従事した二人のB29搭乗員だったが、ひとりは今回の記事にもなった航法士 Rowland E. Ball氏であり、もうひとりは別のB29の機長であった Raymond B. Smisek氏 である。
 →カテゴリー「岐阜空襲」の特に(1)~(5)、坂下の空襲 参照

ボール氏やスミセク氏のことを知ったのは8年前の2015年のことであった。そのころ岐阜空襲に参加したB29搭乗員が何か書いていないかどうかを調べるため、退役米軍人の「戦友会」のサイトを片っ端から探していたのだが、ある日 B29の航法士だったボール氏の岐阜空襲体験手記を見つけたのである(※ 39th Bomb Group )。さらに岐阜空襲に参加したスミセク機長については、その子息がサイトを作っておられ、岐阜空襲から帰還後の写真なども見ることができた(→ 330th Bomb Group)。

とくにボール氏のことを調べてみると、実は以前から日本でもよく知られていた人物だったのである。

たとえば、甲府空襲の体験者であった元日本航空機長の諸星廣夫氏が空襲の実相をパイロットの視点で調べるなかで、甲府空襲にも従事したボール氏と交流しておられ、そのNHK番組でボール氏はインタビューにも応じている。諸星氏の体験は甲府市の「山梨平和ミュージアム」にも展示などがあり、甲府空襲についての著作もある。
また、ボール氏をインタビューしたビデオが「国立第二次世界大戦ミュージアム」(→The National WWII Museum New Orleans)のデジタルコレクションにあり、視聴することができる。この一時間にわたるインタビュービデオの終わりの方では、岐阜空襲時の体験も詳しく語られている(55:45~)
さらに当時偶然個人的に知った岐阜市在住のアメリカ人も、ボール氏とのあいだで日本への空襲について何度もメールで議論をしていたこともわかった。

今回の新聞記事では、ボール氏の遺族が新聞社に手記を提供(公開)したと記されているが、このブログでも取り上げたように同じ内容の彼の「岐阜空襲体験記」は上記の米軍退役軍人の戦友会サイトでずいぶん前にボール氏が記したものである(おそらく2001年にはサイトに公開されていたと思われる)。

また彼の手記は、今は記されていないが「岐阜空襲」の日本版Wikipediaにはボール氏の体験記のサイト名が参照元として一時期照会されていたようだし、英語版 Wikipedia の岐阜空襲についてのサイト(Bombing of Gifu in World War II)の末尾には、今現在も彼の手記は以下のような参照項目として掲載されている。
※Noteの3
Crew 3's Account of Gifu Mission. 39th Bomb Group Association. Accessed July 13, 2007. (in Japanese)

日本を空襲したB29などのパイロット自身が、当時の体験を語ったり文字にした例は少ないと思う。ボール氏とともにこのブログで取り上げたスミセク機長は戦争によって心に傷を受け、戦後は戦時のことをほとんど話さなかったし、戦友とも会わなかったと子息は書いている。
公刊された著作物について調べたことはないが、しかし退役軍人の戦友会サイトなどにはまだそうしたB29搭乗員の体験記が幾つもあるかもしれない。

それにしてもまだ調べてみたいことがある。
ボール氏のB29がトラブルのために岐阜上空で落としきれなかった焼夷弾はどこに落とされたかである。ブログにも記した[→坂下の空襲および岐阜空襲(4)]が、日本側の記録(坂下町史など)をもとに推理すると、現在の岐阜県中津川市坂下に落とされた焼夷弾(死者2名)の可能性があるものの、確証は得られていない。
岐阜上空から帰還するB29は恵那山の北側で南下する航程をとったはずだから・・・。

そしてもうひとつ。岐阜空襲時に迎撃を行った日本機の所属部隊のことである。陸軍飛行第五戦隊機だったのだろうか・・・。


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2023年8月11日 (金)

鶴仙渓

絶え絶えに温泉の古道や苔の花  大島蓼太  *温泉(ゆ)

先週のこと、『おくのほそ道』を辿ろうと思って小松市、加賀市、福井市を巡った。この春には新潟へも足を運んでいるので、ひとまず北陸の芭蕉の足跡は金沢市内を除いてほぼ辿ったことになる。
もちろん今回も気楽なひとり旅。
まずは山中温泉の「鶴仙渓」を歩いた印象記。

『おくのほそ道』の芭蕉は、金沢を経て小松に赴き、その後「山中の温泉(いでゆ)」に向った。「曾良随行日記」によれば七月廿七日から八月五日まで、芭蕉は山中温泉に九泊十日も滞在している(その後もう一度小松へ戻っている)。
杖を置いたのは「泉屋久米助」方。今は泉屋のあったことを示す碑(↓)があるだけだが、すぐ前には古くからの湯元である「菊の湯」が見える。むかしはここが総湯(共同浴場)であり、内湯はなかったとのこと。
「菊の湯」の名は芭蕉のこの句によるものらしく、芭蕉さんの力にあらためて感服するのみ。

山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ 

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この温泉地の東を流れる大聖寺川の渓流を芭蕉が散策したことは曽良の日記にも記されている。
温泉街の北の「黒谷橋」から河原に降り、遊歩道を南へ下がって「こおろぎ橋」まで歩いた。約1.3㎞。実は着いた日の夕方と翌日の早朝も散策したのだった。
渓流なので少しは涼しいだろうとの期待は見事に裏切られた。台風接近で北陸はここしばらく猛暑続き(昨日10日は小松が40℃を記録)。ただし苔マニアのひとにとっては、一日中歩いても飽きないだろうとは思った。素人ながら、苔の種類が豊富なのにはちょっと感動。もちろん青森の北入瀬や北八ヶ岳白駒池周辺の苔の森のような風景には及ばないけれども、温泉街から気軽に立ち寄ることができるし、その渓流美は変化に富んで趣があり好ましい。春や秋はひとでいっぱいかもしれない。

〇黒谷橋(大切な誰かと待ち合わせをしたい気分にさせる・・・(*'-')
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〇遊歩道の始まり
 中央を登ると東山神社。右の芭蕉堂へ進むと渓流沿いの遊歩道。
 左に見えるランプはレトロカフェ「東山ボヌール」。
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〇東山ボヌールさんで頂いた鶴仙渓の案内パンフ。
 左が「モジャモジャマップ」(苔など植物の情報マップ)
 右は「鶴仙渓ワンダーフォーゲル」(ガイドマップ)
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〇東山ボヌール →★HP
 レトロカフェ。元は旅館だったとか。
 この日は散策前に予約。「森のケーキ」でカフェ。2階席でよかった。
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〇芭蕉堂(明治末の建立)
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〇遊歩道
  苔、シダの種類が豊富で、こうした場所は珍しいとか。
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〇ゆるやかな流れや淵もあれば、急な瀬もあって変化を楽しめる。
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〇あやとり橋(鉄橋)
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〇川床が見える。
 山中温泉町出身の道場六三郎氏監修のロールケーキが出るとか。
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〇遊歩道から見上げた「こおろぎ橋」
 大昔、同名のTBSドラマでも有名になった。
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〇こおろぎ橋(何度も付け替えられている総檜の美しい橋)
 でもわたくしとしましては、
 やはり黒谷橋の渋さに軍配を上げます\(^^ )
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忘れていたが、資料館「芭蕉の館」のことや句碑のことはまたいずれ。次回は「那谷寺」か。

 

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2023年6月28日 (水)

ミニベロ

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岐阜県・笠松みなと公園(20230610)

いつものコース。自宅→「木曽川犬山緑地」→「木曽川サイクリングロード」→木曽川橋→岐阜県側の「笠松みなと公園」。
往復約50㎞(20230610)。年齢に合ったちょうどいい運動量。

フロントは2枚もいらないけれど、旅先で予想外の坂道が続いたときなどは助かることがある。
サドルバッグに入れてあるものでは、とくに携帯ポンプ(Topeak Roadie TT mini)が長さが17㎝足らずで邪魔にならず使い勝ってもよい。ときどき空気圧を変え、乗り味の違いを楽しむ。

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2023年6月14日 (水)

一茶の里

名月や乳房くはへて指さして    織本花嬌

名月をとつてくれろと泣子哉   小林一茶

この四月に上越(市振、親不知、上越市)、北信濃(信濃町、高山村、坂城町、上田市など)を訪れました。やはりひとり旅でしたが、前回記事五月の上越(出雲崎など)と違い、自家用車で広範囲を回りました。

今回はとくに一茶ゆかりの高山村を訪問した印象を記します。

先日藤井聡太さんが名人のタイトルをとった「藤井荘」(山田温泉)のある高山村は、実は小林一茶が北信濃の俳諧活動で重要な拠点にした所でした。その高山村に「一茶ゆかりの里 一茶館」があります。訪問した四月十二日はあいにくの空模様でしたが、入り口前にある満開のしだれ桜が風に揺れながら「どうぞどうぞ」と招き入れてくれました。
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一茶館(長野県上高井郡高山村高井) 20230412

もちろん一茶の故郷柏原(信濃町)には「一茶記念館」があり、遺蹟や多数の句碑もあって、前日に何か所か立ち寄りました。でもそれらよりこの高山村の「一茶館」は、今もなぜか強く心に残っているのです。
地元のひとたちが大切に受け継いできた一茶の遺墨や『父の終焉記』をはじめとする資料の数々、金林喜多呂の愛らしい木目込人形による一茶生涯の展示、現代に至るまでの一茶研究の流れなど、質の高い、それでいてわかりやすく親しみを感じる記念館でした。

家族や親族のことで何かと不運、苦労の多かった柏原の一茶でしたが、頻繁に通ったここ高山村では伸び伸びと俳諧活動に専念できたようにみえます。村の門人久保田春耕の援助もあり、彼の父の離れ屋を提供され活動の拠点にしたそうです。その茅葺きの離れ屋は本館近くに解体・修繕・移築されており、建築物としても見応えがあるものでした。居心地がよくて一茶館ではずいぶん長い時間を過ごしました。
予定時間を大幅にこえてしまったため次の訪問地は翌日に回すことになりました。

ところで一茶が自身の俳圏拡大につとめたのは信州だけではありません。実は40歳を過ぎたあたりから本所深川に住みながら、江戸川・利根川周辺(流山、守谷、取手、成田、銚子など)や内房(富津、木更津など)へ巡回指導を行っています。
機会があれば、流山の「一茶双樹記念館」(秋元双樹屋敷)、冒頭句の織本花嬌(一茶憧れの女性俳人)が眠る富津の大乗寺などへも行ってみたいと思いました。


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離れ屋(一茶館) 奥の小部屋の丸窓が印象的 20230412

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信濃富士(黒姫山) 信濃町柏原「一茶記念館」前にて 20230411

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2023年6月 4日 (日)

良寛の里

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 出雲崎:良寛堂(生家橘屋跡地)の良寛像 20230510

五月中旬三泊四日で良寛や貞心尼ゆかりの地をひとりで巡りました。
道の駅や史料館などに車を置き、歩きながら、ときには車載の折り畳みミニベロで動き回り、柏崎、出雲崎、寺泊、分水(国上山・五合庵)、与板そして遷化の地の和島など、良寛や貞心尼の足跡を辿りました。
事前にわかってはいましたが、寺社、公園などに良寛の詩碑や彼の像がとても多いことにあらためて驚きました。さらに良寛の遺墨を展示する記念館(史料館・美術館)が何か所もあり、まさに良寛の里と呼ぶにふさわしいところばかりでした。

以下、旅したなかで印象的だったことを幾つか。

四日間とも晴天に恵まれたことは幸いでした。現地に行ってはじめてわかったのは、出雲崎、与板、和島では各所を巡るのに自転車がとても役立ったことでした。道を尋ねることが何度もあったのですが、歩きよりなぜか自転車だと気軽にひとに声をかけることができて移動の手段としては最善だったと思います。
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 良寛堂:良寛像はこの堂の向こう側にある。

あるお寺さんで碑の写真を撮っていると、清掃中にもかかわらずお庫裏さんが良寛詩碑の解説資料をわざわざ探して持ってきていただいたり、今年は雪が少なかったのに春先の重い雪で裏山の桜の木が倒壊した話など、お寺を維持する苦労話なども聞くことができました。道中でお話しできたどの方もやさしい目をしておられたのが印象的で、ひょっとしたら良寛が接していた当時のひとびとの末裔の方もおられたのではないかとさえ思いました。また分水良寛史料館では館長さんから遺墨について直接貴重なお話を聞くことができ、よき思い出となりました。

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「鄕本空庵跡」近くの海岸から佐渡島遠望 20230512

海をゆっくり眺めるのはほんとうに何年ぶりかのことでした。でも晴れていても佐渡島はいつも見えるわけではありませんでした。ようやく旅の三日目に寺泊や近くの「鄕本空庵跡」に立ち寄ったときに初めて佐渡島の全貌を遠望できたのですが、山には名残の雪も見えていました。良寛もときおり母が生まれたこの島を眺めていたのでしょう。
その他に海や町並みを眺望できる心に残った場所は、出雲崎の石井神社と良寛記念館側の公園、寺泊の照明寺などでした。けれどもこの海や土地のこと、いや良寛のことをさらに知るためには、実は冬こそ訪れるべき季節かもしれない、そんな思いが頭を過りました。

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守門岳:与板の「楽山苑」から遠望 20230512

訪れたどの所からも北に弥彦山、東に残雪の守門岳が遠望できました。ほとんどの田はすでに田植えが済んでおり、米どころならではの広々とした田園風景が広がっていました。今回の旅の拠点(泊地)は長岡市でしたので、北越戊辰戦争の舞台となった場所に開設された「北越戊辰戦争伝承館」も訪れたのですが、戦禍に巻き込まれた村の様子、戦闘の全貌がわかりやすく展示されており、史料等を館に提供された地元の方の熱意も伝わってきました。

調べてみると良寛の遷化は1831年のことであり、明治維新までそう遠くない時代に彼は生きていたのです。ずいぶん昔の人だと思っていた良寛が急に自分の傍らに座っている気がしてきました。しかも晩年の良寛と深い交わりのあった貞心尼が亡くなったのは明治5年のことでした。Ggdsc08165
 閻魔堂(貞心尼草庵):長岡市福島町  20230509
 ブロンズ像は昨年(2022年)4月に建立されたという。

 

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2023年5月23日 (火)

旅心に誘われて

ひとり旅。四年ぶりの遠出。

先月は二泊三日で越後と北信濃へ、
さらに今月は三泊四日で再び越後の旅に出た。
自家用車で行くが、ミニベロを積み、小さな町も自由気ままに走る。
次は羽前、陸中へ。
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※上信越道から早朝の越後富士(妙高山 20230509)
雪解けがかなりすすんで、あの雪形の「跳ね馬」が・・・
跳ねるネコちゃん、いや耳の小さいウサちゃんかも(゚o゚;



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2023年4月24日 (月)

谷汲街道池野追分②

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(承前)
その追分に行ってみた。
上の写真が前回載せた約70年前の写真とほぼ同じ場所から写した現在の「池野追分」である。櫓は無くなっているが、今は民間のものとなった元派出所の建物の形状がそっくり残っている。たぶんもしこの建物が残っていなければ、父が撮った写真が池野追分であることに気がつくこともなかったかもしれない。電柱や右端の郵便ポストの位置もほぼ同じだ。そして新道沿いには今も多くの店が並んでいる。ちなみに自分の生家があった場所(今は駐車場)はこの追分を右(旧道)に進むと徒歩1分もかからないところにあった。
70年ぶりにこの地を訪ね、生家跡の駐車場を眺めながら、父が書き残してくれていた自分の誕生の日の様子を思い出していた。逆子であることに気づいた産婆さんが医者の立ち会いを求め、父が必死で自転車を駆って病院へ走ったこと、ひどい難産だったことなど。それは梅雨も終わりに近い7月初旬の日曜日夕刻のことだった。

ところで少しつけ足す。
西国三十三所巡りについて調べていたとき、『街道を歩く 西国三十三所』(加藤淳子著  創元社 2003年)を読み、谷汲街道のことに触れた箇所で、明治44年に柳田国男が揖斐の「池野」を通ったことが記されていた。そこに紹介された柳田の文はほぼ要約に近いものだったし、出典も記されていなかったので、最近調べてみたところ、それは『美濃越前往復 -明治四十四年-』だとがわかった。引用する。

「引きかへして根尾川の末を渡り、谷汲寺に詣づ。揖斐の町長及び署長に迎へられ、揖斐の町に行きて休息す。」
と記したあとさらにこう続けている。
「池野の珍しい町を過ぐ。二十年とか前までは原野の道の辻なりしが、追々に家增加して繁華の地となる。もと入會なりし為に、家々の標札軒竝に村を異にすること、越前吉崎よりも甚だし。卽ち家主の出た村に屬することになる也。」

追分の右の道が本来の谷汲街道(旧道)であり、左は新道であるが、明治中頃に新道周辺の開発が進んで多くの商人や人々が各地から集まり、この地域は急激に栄えていったのである。そのことを柳田は短い文章ではあるが的確に記述している。
なお元派出所前の今は無くなった櫓の土台側には、「左いび (ならびに)谷汲新道」の道標(明治27年)が綺麗な姿で立っていた。
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参考:
※池野市場の開発の様子ついては、以下の史料(文献と絵図)をネット上で見ることができる(岐阜県歴史資料館)。
〇「揖斐郡池田村大字池野市街成立書」(翻刻)→★
 (追分にあった元派出所の設立事情も記載)
〇絵図「市場開設前の池野村」→★
〇絵図「市場開設後の池野村」→★
※その他
〇『街道を歩く  西国三十三所』
  加藤淳子著 創元社 2003年
〇『定本柳田国男集 第3巻』
  筑摩書房 1963年
〇『揖斐郡志(全)』昭和61年復刻版
〇『池田町史(通史編)』昭和53年

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2023年4月17日 (月)

谷汲街道池野追分①

今までは親と頼みし笈摺を
脱ぎて納むる美濃の谷汲   
 御詠歌
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数年前、父のもっていた写真類を整理していたとき、自分が生まれたときに家族が2年ほど住んでいた官舎のネガフィルムを見つけた。ネガの付箋には昭和28年夏頃と記してあったが、生家といっても、物心がつく前に父の転勤で家族は飛騨高山へ移ってしまったから、家の記憶もないし、住所の揖斐郡「温知村」(昭和25~29年)という名称も今はもう使われていない。
ただしこちらの写真(↓)は父のアルバムに貼ってあり、見るたびに父は「お前が生まれた家のすぐ近くの写真だ」と話してくれたことがあった。けれども写真の正確な場所がどこなのかといったことはこれまで全く関心がなかったし、調べようという気もなかった。

ところが最近になって「西国三十三所」満願の寺「谷汲山華厳寺」について調べていたところ、「谷汲巡礼街道」の資料やその街道に関する情報を載せたサイト上に、「谷汲街道池野追分」といわれる場所のことが記されていた。そしてその追分を撮った最近の写真をよく見ると、特徴的な中央の建物の形は、父が約70年前に写した下の写真と全く同じであることに驚いたのである。

写真を拡大してみると、道路を跨いでいる看板に「揖斐地区警察署温知警部補派出所」と記してあることがわかった。
正面の建物が派出所で、左が明治時代に整備された「谷汲新道」、右が本来の「谷汲道」である。なお「温知村」は昭和25年から29年まであった地名で、「温故知新」を校名に取り入れた地元の「温知小学校」に因んでいる。

この追分は今どうなっているのかこの目で一度確かめてみたいと思い、年が明けてから早速出かけたのである。ついでに自分の生家の場所はどこなのかも・・・。
(次回②へ)
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谷汲(巡礼)街道池野追分
(撮影:約70年前の昭和28年、あるいは29年頃の夏か)

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2023年4月 1日 (土)

寄残花恋

ここ数日、伊吹山に落ちるお天道様の動きを追う。
若葉がくれに散りとどまる花を惜しみつつ。
花に寄する恋、残れる花に寄する恋、
花といえば、やはり西行。

   寄花恋
花を見る心はよそに隔たりて身につきたるは君がおもかげ
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   寄残花恋
葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する
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〇写真 上:28/Mar.  下:31/Mar.
    Medium GND 0.9使用。
〇出典
『山家集』 新潮日本古典集成(第49回)
 校注:後藤重郎 昭和57年

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2023年3月29日 (水)

火とぼしころを

ひと恋し火とぼしころをさくらちる 加舎白雄

さて、きのうもきょうも空が焼けた。
10分足らずの出来事だった。
夕闇深まるなか、風は収まったけれど、
閑かに桜花は謝す。
そして遠く東に住むひとのことを想う。
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上 18:14   下 18:22   29/Mar./2023 
犬山成田山

加舎白雄は信州上田藩松平家の深川抱屋敷で上田藩士加舎家次男として出生。蕉風復興に力を注ぎ、蕪村とならび俳諧中興の祖の一人(1738~1791)。「ひと恋し・・・」の句碑を墨田区の白鬚神社で見たことがある。また信州上田城跡公園にも句碑があるらしい。

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2023年3月10日 (金)

落日犬山城

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        犬山成田山より(17:46 10/Mar./2023)

この季節になると日の入り時の犬山城を撮影するひとが増え、桜が咲くころまで続く。今日は撮影者の集まるところからは少々離れて写してみた。
半年後の9月ごろの夕陽も美しいが、秋の満月が犬山城へ沈む月の入りも趣がある。

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2023年3月 6日 (月)

呑水(5)

(承前)
承前といっても、「呑水」のことを記事にしたのは半年以上も前のこと。今さらという気もするが、中途半端は嫌なので書き足しておく。
振り返ると、『犬山市史』の「呑水」について書かれた林輝夫の文章のことから始め、彼が『艸ほこ』(呑水)の翻刻をしたことや美濃加茂の俳誌『自在』を主宰していた西田兼三との交流のことなど、幾つかの事柄(断片的事実)を繋ぎ合わせながら記事にしていたのだが、肝心の呑水そのひとについては(2)で墓碑や生涯などについて軽く触れただけだった。

まだあまり触れていなかった彼の句や『艸ほこ』、そして追悼集『蓮の実』のことについて最後に少し記しておく。

〇彼の句。
前に記したものを含め、あらためてそのいくつかを見る。

梅散るや浅黄布子の洗ひ時   「矢矧堤」

手のひらで雨をしる夜の水鶏哉 「菊の香」

朝経にまけじまけじと蝉の声  「砂川」

鬼松の影やはらりと夏の月   「東華集」

人気なき雨の匂いや梅山椒   「渡鳥集」

 辞世
蓮の実の十方にとんであそびけり

意味のよくとれない句も多いなかで、自分にとって比較的わかりやすい句だけを少し拾ってみたが、もちろん句を評することなど自分にはできない。ただし名古屋の情妙寺で碑になっている「手のひらで」の句は気に入っている。

〇彼のいくつかの文章を集めた『艸ほこ』。
林がその一部「蜂屋へ紀行」を翻刻した『艸ほこ』には、他に内津(今の春日井市内津)への旅(遠足)や丈草から届いた手紙などが記されている。しかし翻刻できるような力は自分にはないので、いったい何が書かれているのかは今のところほとんどわからない。

〇呑水の追悼集『蓮の実』。
国文学研究資料館からその写しを送ってもらった。「序」が楚竹、「封塚辞」は犬山妙感寺の日長、「跋」は犬山出身の馬州が書いている。
二つ目の日長の文章には、呑水の遺言として「骨は源頂山におさめ、生前の抜歯を一翁山に贈るべし」と記している。したがって以前の(2)にある碑の写真のように、かつて住持であった犬山の一翁山妙感寺には「歯塚」が建てられたのである(馬州の跋では、呑水の「朝起の癖」にまつわる思い出話が書いてあった)。なお作句者をみると、地元尾張だけでなく近江、飛騨、伊勢、さらには奥州や九州のひともいる。僧侶であり俳人でもあった呑水の人柄を慕うひとはずいぶん多かったのだろうと思う。

それにしても気になるのは、『艸ほこ』に収められている呑水宛ての丈草の手紙である。

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    呑水(遠光院日陽聖人)の歯塚背面 
     [犬山・一翁山妙感寺 2022年]

参考:
〇なぎの舎随筆Ⅰ
「尾北俳諧覚え書」市橋鐸 私家版 昭和45年
〇『蓮の実』 呑水追善 楚竹編 享保十四年
〇『矢矧堤』については
『新編岡崎市史 13近世学芸』の翻刻参照
〇他の参考図書は「呑水(2)」に記した。

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2023年1月 4日 (水)

烏瓜

くれなゐもかくてはさびし烏瓜 蓼太

さかりゆくひとは追はずよ烏瓜 鈴木しづ子
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                      犬山市高根洞 3/Jan./2023

きのう入鹿池から本宮山に登り、下るときは大縣神社へ出る道を選んだ。神社が近くなってきたころ、冬の木々や枯れ草ばかりの藪の奥にふと目を遣ると、「おい! 見てくれよ」とばかりに三つほどの実がぶらさがっていた。
持っているどの歳時記も「烏瓜」は晩秋の季語、そして「烏瓜の花」は晩夏の季語となっている。日没後に咲き朝には萎むというその花をこれまで実際に見たことがないので、今年の夏には是非どこかで。

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2022年11月11日 (金)

#スワイチ

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*岡谷市湊町の遊歩道から八ヶ岳方面を遠望。2022/11/10

きのうひとりでミニベロに乗り諏訪湖を一周してみました。約16㎞。諏訪湖にはこれまで何度も来たことがありますが、自転車で一周するのは初めて。起伏がないので自分のような老いた身でも一気に2周ぐらいはできそうでした。
朝6時に自宅を出て中央道を約2時間半。おもえばこんなに遠出するなんて3年ぶり。深夜長野県には濃霧注意報が出ていて、伊那谷から諏訪湖までほとんど霧の中のドライブでした。
「石彫公園」に着いたのは9時頃、霧もようやく晴れて気温は4℃。でも風がなくて清々しい。園内には多くの彫刻があってしばし散策。左は最初わからなかったけれどリンゴですね。
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9時半出発。反時計回りで一周することにしました。
サイクリングロードはかなり充実していましたが、現在も整備中のところがあって何箇所か工事中でした。
「#スワイチ」認定証をもらうためには指定3箇所に立ち寄り写真撮影をする必要があります。自転車だけでなく歩いても走っても可です。
左は最初の指定地「諏訪湖間欠泉センター(諏訪市・湖畔公園)」。間欠泉は今年になってから出なくなっているようですが、今日は湯気が立ちのぼっていました。右は2番目の「富士山と諏訪湖の眺望ポイント(下諏訪町・みずべ公園)」。逆光でしかもまだ霧の影響もあって南西方面は霞んではいましたが、その輪郭はなんとか。このあたりのロードは整備中でした。
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日帰り予定なので立ち寄るとすれば公園だけと決めていました。
湖畔北側の「赤砂崎公園(下諏訪町)」の「丘の輪」では、数日に分けて歩いて諏訪湖一周をチャレンジしている旅行中の年配の方々と楽しいおしゃべりができました。

#ビワイチ3番目の指定箇所は「寒の土用丑の日」発祥の地記念碑(岡谷市・岡谷湖畔公園)。探すのにすこし苦労しましたが、天竜川起点の釜口水門すぐ近くにありました。ウナギは冬こそ旬だとか。
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水門からの眺望。風が弱く、湖面が秋空を映して美しい。
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釜口水門を離れ、湖の西側湖畔(岡谷市湊町)を走ります。ちょうど太陽の方角の関係で東側の山々が日に映えて美しい眺めが続き、枯れ葉舞うなかを歩いたり(冒頭写真)、満天星(ドウダンツツジ)が植えてある辺りではしばしば立ち止まりました。
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午後2時前には出発点の石彫公園に帰り、すぐJR上諏訪駅の観光案内所へ立ち寄って認定証と缶バッジをもらいました。
次はハマイチかビワイチ。ビワイチは一周約200㎞もあるので2年計画になるかも。

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2022年10月 6日 (木)

木曽川夕照

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きのう岐阜の実家へ掃除に行った帰りの夕方、曇り空だったのが一転して西の一部の空が晴れてきたので急いで成田山に寄りました。空の大半はまだ厚い雲に覆われていましたが、ひょっとして焼けるかもしれないと思ったのです。
15分ほどの短い時間でしたが、なにより夕照木曽川の川面が美しく、伊木山を挟んで上流も下流も茜色に染まった川の景色をこれまで見たことがなかった気がします。
城と伊吹山が近づいて見える大師堂付近の階段に移動した頃には、すでに雲が暗くなり始め、茜色の空は次第に鈴鹿山脈の方へと移っていきました。
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2022年10月 5日 (水)

明治村のキンモクセイ

木犀に人を思ひて徘徊す  尾崎放哉

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先日明治村住民登録(年間パスポート)更新のために入村。
前回の入村は真夏だったのですが、今はもうキンモクセイの季節(でも訪れたときはすでに花の終わり)でした。そんなわけで今回は明治村のキンモクセイ巡りをした結果をメモしておきます。

自分にとってもっとも印象的な明治村のキンモクセイは4丁目の「半田東湯」前(上掲写真)に立っています。でもおそらく誰もが目を向けるのは5丁目の「金沢監獄正門」脇(↓)にあるキンモクセイかもしれません。きょうもその側を通る大半のひとが立ち止まって見つめていました。
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明治村の他の地区よりも北口に近い5丁目にはキンモクセイが多く植えられているような気がしました。北口から「帝国ホテル中央玄関」へ到る道沿い、そして「金沢監獄中央看守所」周辺の庭(↓)などには特に多く見られます。
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なかでも「高田小熊写真館」前(↓)に並ぶ二本は印象的です。
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4丁目では上で紹介した「半田東湯」以外に「工部省品川硝子製造所」前にも植えられています。さらに4丁目の「休憩所」から3丁目に入る道沿いのガス灯付近(「台場鼻潮流信号機」近く)や「神戸山手西洋人住居」の周囲にも何本か植えられています。
1丁目では「西郷從道邸」西側庭の奥、「日本庭園」入口、そして「大井牛肉店」の裏などに見られます。

今回キンモクセイだけを探して村内を回りましたが、かなり多くの場所にあることは意外でした。キンモクセイが香る時期が短く、ふだんは木の存在すらほとんど気にかけていなかったからでしょうか。
他にも桜や椿など、村の植栽地図を明治村で作っていただけないかなと思ったりしました。建物だけでなく樹木も大切な展示物だと思いますので。

閉村時間が近づき、最後はキンモクセイ越しの帝国ホテル中央玄関に別れを告げて北口へと急行。
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*建物の位置関係は、明治村HPにある「村内地図(PDF)」参照。

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2022年9月25日 (日)

From 1880 to 2021

@NASAVizの映像資料から
とりわけこの約30年間の変化の凄まじさに驚く。

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2022年9月 9日 (金)

竹の春

サイクリング途上で、ふと見上げる「ゆきあひのそら」。
空に秋の気配はあれど、まだまだ残暑の日々。
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夏雲に盛夏の頃のちからはもうなくなっている。

しばらく走って竹林の前で水分補給。
思う、そういえば今日は重陽節供(句)の日。

菊の香にくらがり登る節句かな

元禄七年九月九日、芭蕉は暗峠を越えた。
今の暦でいえば10月27日だという。秋も深まりつつあるころだ。
そのひと月後には帰らぬひととなった。
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竹林:一宮市浅井町(木曽三川公園) サイクリング道にて 
   9/Sept./2022

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2022年9月 6日 (火)

鈴木文拙と鈴木裕三

(承前)
話の流れでいえば、次に市橋鐸麿(鐸)を扱うべきだが、彼についてはいつかまた触れる。
これまで『市史』に紹介されている鈴木家7人(市橋を除き6人)について、現在の墓碑の様子などを見てきたが、ひとまず今回で終わる。

鈴木家の分家について。
江戸時代のおわり、10代玄道(維馨)のあとに鈴木文察が分家を興している。文察も本家同様成瀬家の家医であった。鈴木文拙は文察の嫡男として文政7(1824)年に名古屋で生まれた。名は鐸。
地元での学問修業だけでなく上洛して蘭方や漢学を学んだ。1850年に名古屋に戻って文拙と名乗り家業を継ぎ、維新後は犬山(高見町)に帰って医業だけでなく教育にも力を入れ人々から慕われた。明治30(1898)年に78歳で没したが、その遺徳を偲び記念碑が明治37年に建てられている。

妙感寺にある墓(左写真)。碑銘は「沈蔵坊文拙俟庵醫(医)士」。
針綱神社に建てられた記念碑「鈴木文拙先生紀年之碑」(右写真)。
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文拙の嗣子として明治元(1868)年に名古屋に生まれたのが鈴木裕三である。海軍軍医として活躍し、舞鶴海軍病院長 兼 舞鶴鎮守府軍医長、呉海軍病院長 兼 呉鎮軍医長、さらに軍医総監、海軍軍医学校校長、海軍省医務局長など要職を歴任し、大正14(1925)年8月8日、54歳で没した。海軍軍医中将。
東京多磨霊園墓地に墓があるが、犬山に眠る父文拙の墓の横にも遺骨が葬られている(妙感寺・鈴木家累代之墓)。


鈴木寂翁から今回の鈴木文拙・鈴木裕三までの6回分
で参考にした文献

〇『犬山市史』別巻 文化財 民俗 昭和60年
〇『尾張国丹羽郡犬山鈴木家文書解題
 この解題は下記の文書(201~204頁)にある。
  国文学研究資料館 資料目録第92集 
  愛知県下諸家文書目録(その1)平成23年
  *国文学研究資料館データベースのURL→★
〇その他に人名辞典などを参照したが書名は省略する。  

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2022年9月 5日 (月)

鈴木敏也

(承前)
本光寺にある鈴木家本家の墓群に第14代鈴木敏也(1888-1945)の墓がある。戒名は「文香院梛居敏也大居士」。墓石の背面に弟の市橋鐸麿(鐸)が兄のために顕彰の碑文を書いている。

居士は尾張犬山の医家に生れて国文学に志し東京帝大に学び廣島高師同文理科大学教授となり近世文学の探究に生涯を捧ぐ 原爆投下の晩冬学長に就任せしも宿痾のため任地に逝く 主著を近世日本小説史二巻となす 
昭和丁酉之冬 家弟 市橋鐸撰併書

なお文中「学長に就任せしも」とあるが、原爆投下後しばらくの間は大学の機能が事実上停止しており、役職は学長事務取扱であった。
『市史』の敏也の項目には、医師となるべき運命を背負いつつも、教師や級友の力を借りて父親を説得し国文学科へすすんだことが記されている。3代寂翁以来の医家としての鈴木家の系譜は、敏也にも、そして弟の鐸麿にも引き継がれることはなかったのである。

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本光寺の鈴木家墓群にある鈴木敏也の墓。
昭和20年12月9日没。60歳。



 

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2022年9月 3日 (土)

鈴木玄道(豊)

(承前)
さて、このブログに取り上げる『市史』に記された鈴木家の7人は、系図上どこにいるのかを簡単に確認する。
没年による時代(世紀)区分でまとめる。

17世紀 初代一閑→2代一翁3代寂翁(玄察)
18世紀 4代卜仙→5代可節→6代玄道(直)
     →7代玄道(政方)8代玄道(博高/東蒙)
19世紀 9代玄道(恒久)→10代玄道(維馨)
     →11代玄道(凞)12代玄道(豊)
20世紀 13代光雄14代敏也→以下略

14代敏也の弟が丈草研究で知られる鐸麿(市橋鐸)であるが、医家としての鈴木家は3代から13代までであったという。
なお10代玄道(維馨)の子の代に分家した鈴木玄察、子の鈴木文拙、孫の鈴木裕三がいるが、この系譜はあとで詳しくみる。

『市史』に記された鈴木家の3人目は12代玄道(豊)である。
本町通りを城に向かって進むと旧福祉会館跡手前(交差点南西)に鈴木家の邸宅がある。庭(今は駐車場)の一隅には「鈴木玄道宅跡(本町)」と記された小さな立て看板があるが、
看板の説明はやや不親切であり、ここに記された玄道は12代玄道(豊)[没年明治11年]のことである。
若い頃は名古屋、江戸などへ遊学して医学、儒学、蘭学を学び、医業の傍ら村瀬太乙の前任となる敬道館教授も兼任した。明治になってからは一般の町人にも治療を施し、人望を集めたという。
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鈴木玄道宅跡とされている場所にある現在の邸宅。
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玄道(豊)の墓は夫婦墓として本光寺の鈴木家の墓群にある。
碑銘「紀水院韭(韮)郷日豊居士」。明治11年11月12日没55歳。
なお豊は妻に早く死別している。後妻を娶らず娘と二人暮らしであったが、養子を貰って家督を継がせた。
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また犬山城内には七周忌の秋に門下のひとたちによって記念碑が建てられた。この記念碑題字は成瀬家9代正肥(まさみつ)である。碑には彼の経歴や遺詩もあるが、漢文調の文章を解する力は自分にはない。ただし気になったのは文末に記された碑文の作者のことである。
鈴木鐸文拙謹撰 堀野宏良平肅書」とある。「鈴木鐸文拙」とは、分家2代目の鈴木文拙であり、その名はであった。彼のことも『市史』に詳しく紹介されている。
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次回は玄道(豊)の孫である鈴木敏也市橋鐸麿についてみる。


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2022年9月 1日 (木)

鈴木東蒙(2)

(承前)
さて本光寺にやって来たものの、寺は無住となっているようだ。それもかなり長い前からのようにみえる。犬山の、それも中心部にある寺のひとつがこうした状況になっていることに驚き、無常を説く『方丈記』の冒頭の件を思い起こす。ただしこの5月に訪れたときには、全てではないが、墓前の花がまだ新しいものは多かった。

寺の西側にある門から入ると「妙見堂」(成瀬家の家老千葉氏が建てたもの)がある。さらに進むと南面している一群の墓(↓写真)があって、そこに博高(東蒙)らの墓がある(さらに右奥(南側)へ入ってゆくと鈴木家本家の墓群がある)。
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上写真の左から3基目が博高の墓で、碑銘は「灌雪齋博高日徵居士」(天明4〈1784〉年4月14日没50歳)。その左隣は妻のものと思われる。もし『市史』の記述が正しいとすると、いつのことかは不明だが博高の墓は妙感寺から本光寺へ移されたということになる。鈴木家本家の墓群とは少し離れたところにあるところからすると、そう考えることもできるが、あくまで推測である。とにかく現在のところ彼の墓は妻の墓と同じ「本光寺」にある(2022年現在)。
なお博高の墓の右隣に碑銘「觀解院了菴日奘居士」の墓、その右隣には彼の妻のものと思われる墓がある。この「了菴」とは実は博高の父であり、鈴木家6代の玄道(直)のことである。父親の墓も子の博高と同じく、本家の墓群から離れたところにあるのは不思議である。ひょっとすると父親の墓も本来は妙感寺にあったのかもしれないなどと考えてしまう。『市史』に博高の妻の墓が本光寺にあることが「なぜか」と書いてあるが、たしかに謎は深まるばかりである。
鈴木家に関する『市史』の記述は末裔である市橋鐸さんが書いたものと思われる。自分の祖先の墓の所在についても承知していたはずであるから、博高の墓が妻と同様にもとから本光寺にあったとすれば、それを見逃すはずはないとおもうのだが・・・。
いずれにせよ、8代鈴木博高には、本来の墓(本光寺に現存)、そして友人・弟子が建てた墓(妙感寺の東蒙先生之墓)、このふたつの墓があることだけは確認できた。

ところで博高は父6代玄道「直」の三男であり、本来家督を継ぐ立場にはなかった。しかし8代を継いだ事情について『犬山市史』は次のように記している。

三男に生まれて長男が若死、その嗣子はいまだ生まれず、次兄が他家をおかしているため家を嗣ぎ、そのため年若くして、兄の嗣子に世を譲ったという数奇な運命を背負った。
『犬山市史』(別巻 民俗 文化財)321頁

少々意をつかめない部分もあるが、要約すれば、長男である兄の若死によって急遽鈴木家の跡継ぎになったものの、すぐ兄(長男?)の子に世を譲ることになったということだろう。いわばピンチヒッターとして鈴木家の断絶を救ったわけである。
『市史』には『先人詩抄』に収録されている彼の詩が紹介されているし、あるいは「妙感寺」の墓の碑銘などを見ると、詩人として活躍したことは窺い知れるものの、それ以外の彼の人生の詳細を知る術はない。

次回は『市史』に記された鈴木家7人のうち3人目にあたる第12代「鈴木玄道(豊)」についてみる。

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本光寺の8代玄道[鈴木博高(東蒙)]の墓。
碑銘は「灌雪齋博高日徵居士」
天明4(1784)年4月14日没 50歳
2022年5月23日撮影

 

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2022年8月31日 (水)

鈴木東蒙(1)

(承前)
さて、先聖寺を出て本町通りに入り「鈴木玄道宅跡」へ行く予定だったが、その前に寂翁の子孫たちの墓を見ておくことにした。

鈴木家代々の墓はほとんどが枝町の「本光寺」にあるのだが、実は鈴木家は、たぶん19世紀前半に分家ができて、その子孫が「妙感寺」に墓をもっているのである。ところが調べてみたところ、実はこれら両方の寺にそれぞれ墓をもっている鈴木家本家のひとがいるのである。それは8代玄道、侍医6世の鈴木博高即ち東蒙である。[ただしそもそも鈴木家の分家が立ったのは、博高の2代後のことであって、博高の代にはまだ妙感寺に分家の墓はなかったと考えられる。]

鈴木博高(東蒙)は『市史』によれば侍医のかたわら松平君山(儒者、尾張藩士・書物奉行等)門下の詩人でもあったという。
博高の友人・門人たちが発起して建てたと思われる墓が「妙感寺」にある。碑銘は「東蒙先生之墓」(↓)とあり、碑の表以外の三面には岡田新川(儒者、尾張藩士)の記した長文の銘が刻され、その前半は前回見た侍医1世だった寂翁以後の鈴木家の系譜が記されている。建立年月は、博高の没した天明4年4月14日から半年後の10月と刻されており、建立者は鈴木恒久(9代玄道)と鈴木維馨(後の10代玄道)連名となっている(なお、『市史』には博高の没した日が4月15日とある)。

この墓は、「先生之墓」とされているから、別に本来の墓(親族が建てた墓)があるはずである。
『市史』には博高の「墓地は犬山丸山の妙感寺。なぜか妻女の墓は枝町の本光寺にある」と書かれている。つまりこの記述によれば、本来の墓も妙感寺にある、とも読めるのだが、どこを探しても博高のもうひとつの墓は妙感寺にはないのである。さらにこの「東蒙先生之墓」の銘にも「葬犬山城東妙感寺後山」と書かれていることからして、この「葬」られた墓が本来の墓のことを記しているとすれば、その墓は現在どこかへ移ってしまったと考えるしかないであろう。
そんなわけで、『市史』に「なぜか妻女の墓」があると記された本光寺へ行ってみることにしたのである。
(2)へ
8_20220526003302
8代(侍医6世)鈴木博高(鈴木東蒙)の墓  2022/5/23
銘は「東蒙先生之墓」。なお墓の正面は犬山城の方角を向く
ように建っている。碑銘の没年月日は天明四年四月十四日。
妙感寺には、この墓の隣に鈴木家の分家の墓が幾つかある。

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