2023年9月 5日 (火)

夏の名残の薔薇🌹

Thomas
 Graham Thomas 1983  (花フェスタ記念公園 20200702)

なんとなく秋の気配を感じ、あの曲を聴きたくなった。
The Last Rose of Summer🌹
アイルランドの歌曲だけど、日本では「庭の千草」として知られている。

原曲の詩(Thomas Moore、1779~1852)を読んでいると切なく哀しく辛い気持ちになるが、とくに詩の結びを何度も読み返していると、不思議なことに心が前向きになる力を感じてくる。美しい言葉ゆえか、メロディーによるものか、うまく言葉には表せないが。

So soon may I follow,
When friendships decay,
And from Love's shining circle
The gems drop away!
When true hearts lie withered,
And fond ones are flown,
Oh! Who would inhabit
This bleak world alone?.

注:スマホの方は横位置にしてください
歌詞付きの映像があったので埋め込む。
歌:森野美咲(ウィーン在住)→★

| | コメント (0)

2023年9月 1日 (金)

那谷寺(なたでら)

空を見上げると、すでに高層にはねばりのない秋雲が流れている。夕刻日陰に入ると、肌に当たる風にもやや秋の涼しさを感じる。

『おくのほそ道』の芭蕉が金沢に着いたのはちょうど今頃、旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)であった。そして金沢から小松にいたるまでに「秋の風」をテーマとして四句掲げている。その三句目、四句目。

あかあかと日はつれなくも秋の風

しをらしき名や小松吹く萩薄

その小松を訪れたあと芭蕉は山中温泉にしばらく逗留するが(ここで曽良と別れる)、請われて再び小松へ戻っている。その戻り道で「那谷寺」に立ち寄ったのである。しかし『おくのほそ道』の記述は、小松から山中温泉への途上に「那谷寺」へ参拝したことになっている。

石山の石より白し秋の風  

那谷寺の開創は8世紀であり、元は「岩屋寺」といわれた。その後「那谷寺」と呼ばれるようになった経緯と寺内の奇石について芭蕉はこう記す。

花山の法皇、三十三所の巡礼遂げさせたまひて後、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付けたまふとや。那智・谷汲の二字を分かちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ゑ並べて、萱葺きの小堂、岩の上に造り掛けて、殊勝の土地なり。

芭蕉も見た奇岩霊石は今「奇石遊仙境」と名付けられている。
Kkdsc00463_20230831000001
Aadsc00442

境内にある芭蕉の句碑(左:1843年建立)と翁塚(右)。
Dsc00483_20230831164401

芭蕉が「萱葺きの小堂」と記した本殿(大悲閣)。16世紀に寺は荒廃したが、本堂は1642(寛永19)年に再建され、さらに1949年に解体修理されている。本尊は十一面千手観世音菩薩で、芭蕉の説明とは異なり花山法皇の時代以前から納められている。この階段左側が奇石に接している。
Lldsc00444_20230831164401

名勝の書院庭園・琉美園よりも、むしろ本堂へ続く参道沿いの杉並木と苔が今も印象に残る。暑い日ではあったが、苔の絨毯に差し込み揺れる木漏れ日と樹影の織りなす景象に、当日の参拝者で立ち止まらないひとは誰もいなかった。
できることなら季節ごとに訪れてみたいと思ったのである。
Jjjdsc00419
Uuc0433t01_20230831164301

〇写真:8月5日撮影
〇新版『おくのほそ道』潁原退蔵・尾形仂 訳注 角川ソフィア文庫

| | コメント (0)

2023年8月27日 (日)

再びの「雪の科学館」

今月初めに北陸の芭蕉ゆかりの地を巡ったことは先日記事にしたが、加賀市に立ち寄ったときどうしても再訪したいところがあった。それはこのブログをはじめたころに記した(→★)中谷宇吉郎の「雪の科学館」である。そのときの記事(2017年)は彼の『雪雑記』にあった体験と自分の幼少期に体験した雪の思い出を重ね合わせて書いたものだった。

はじめて「雪の科学館」を訪れてから約17年の歳月が過ぎた。2006年に写した携帯電話の写真をもういちど見てみる。
       Nakaya
               
そして下が今回同じような位置から撮ったもの。
手前にある大きく生長した樹木が年月の移り行きを語っている。
風景を眺めながら17年前の自分を振り返り、この間何事も無くこの木がここにあること、科学館が変わらない姿であることに安堵もし、そういえば、館の設計に携わった建築家磯崎新が昨年末に旅立ったことも思い起こしたのである。Lllkkkdsc00538
 「中谷宇吉郎 雪の科学館」20230806 石川県加賀市

| | コメント (0)

2023年8月15日 (火)

岐阜空襲のB29搭乗員

※この記事はもうひとつのブログ「海の陸兵」にも掲載しています。

岐阜空襲のことは、毎年とくにこの時期地元のメディアを中心によく記事にされている。

今年の幾つかの記事のなかで注目したのは、6年前の2017年に自分のブログ「海の陸兵」で記したことのあるB29搭乗員の手記を取り上げたものだった。
その記事は、8月8日の中日新聞朝刊のほかにWeb上でも見ることができる。
  〇東京新聞Web 2023年8月4日配信 無料記事 
  〇中日新聞Web    同年8月8日配信 

6年前このブログで記したのは、岐阜空襲などに従事した二人のB29搭乗員だったが、ひとりは今回の記事にもなった航法士 Rowland E. Ball氏であり、もうひとりは別のB29の機長であった Raymond B. Smisek氏 である。
 →カテゴリー「岐阜空襲」の特に(1)~(5)、坂下の空襲 参照

ボール氏やスミセク氏のことを知ったのは8年前の2015年のことであった。そのころ岐阜空襲に参加したB29搭乗員が何か書いていないかどうかを調べるため、退役米軍人の「戦友会」のサイトを片っ端から探していたのだが、ある日 B29の航法士だったボール氏の岐阜空襲体験手記を見つけたのである(※ 39th Bomb Group )。さらに岐阜空襲に参加したスミセク機長については、その子息がサイトを作っておられ、岐阜空襲から帰還後の写真なども見ることができた(→ 330th Bomb Group)。

とくにボール氏のことを調べてみると、実は以前から日本でもよく知られていた人物だったのである。

たとえば、甲府空襲の体験者であった元日本航空機長の諸星廣夫氏が空襲の実相をパイロットの視点で調べるなかで、甲府空襲にも従事したボール氏と交流しておられ、そのNHK番組でボール氏はインタビューにも応じている。諸星氏の体験は甲府市の「山梨平和ミュージアム」にも展示などがあり、甲府空襲についての著作もある。
また、ボール氏をインタビューしたビデオが「国立第二次世界大戦ミュージアム」(→The National WWII Museum New Orleans)のデジタルコレクションにあり、視聴することができる。この一時間にわたるインタビュービデオの終わりの方では、岐阜空襲時の体験も詳しく語られている(55:45~)
さらに当時偶然個人的に知った岐阜市在住のアメリカ人も、ボール氏とのあいだで日本への空襲について何度もメールで議論をしていたこともわかった。

今回の新聞記事では、ボール氏の遺族が新聞社に手記を提供(公開)したと記されているが、このブログでも取り上げたように同じ内容の彼の「岐阜空襲体験記」は上記の米軍退役軍人の戦友会サイトでずいぶん前にボール氏が記したものである(おそらく2001年にはサイトに公開されていたと思われる)。

また彼の手記は、今は記されていないが「岐阜空襲」の日本版Wikipediaにはボール氏の体験記のサイト名が参照元として一時期照会されていたようだし、英語版 Wikipedia の岐阜空襲についてのサイト(Bombing of Gifu in World War II)の末尾には、今現在も彼の手記は以下のような参照項目として掲載されている。
※Noteの3
Crew 3's Account of Gifu Mission. 39th Bomb Group Association. Accessed July 13, 2007. (in Japanese)

日本を空襲したB29などのパイロット自身が、当時の体験を語ったり文字にした例は少ないと思う。ボール氏とともにこのブログで取り上げたスミセク機長は戦争によって心に傷を受け、戦後は戦時のことをほとんど話さなかったし、戦友とも会わなかったと子息は書いている。
公刊された著作物について調べたことはないが、しかし退役軍人の戦友会サイトなどにはまだそうしたB29搭乗員の体験記が幾つもあるかもしれない。

それにしてもまだ調べてみたいことがある。
ボール氏のB29がトラブルのために岐阜上空で落としきれなかった焼夷弾はどこに落とされたかである。ブログにも記した[→坂下の空襲および岐阜空襲(4)]が、日本側の記録(坂下町史など)をもとに推理すると、現在の岐阜県中津川市坂下に落とされた焼夷弾(死者2名)の可能性があるものの、確証は得られていない。
岐阜上空から帰還するB29は恵那山の北側で南下する航程をとったはずだから・・・。

そしてもうひとつ。岐阜空襲時に迎撃を行った日本機の所属部隊のことである。陸軍飛行第五戦隊機だったのだろうか・・・。


| | コメント (0)

2023年8月11日 (金)

鶴仙渓

絶え絶えに温泉の古道や苔の花  大島蓼太  *温泉(ゆ)

先週のこと、『おくのほそ道』を辿ろうと思って小松市、加賀市、福井市を巡った。この春には新潟へも足を運んでいるので、ひとまず北陸の芭蕉の足跡は金沢市内を除いてほぼ辿ったことになる。
もちろん今回も気楽なひとり旅。
まずは山中温泉の「鶴仙渓」を歩いた印象記。

『おくのほそ道』の芭蕉は、金沢を経て小松に赴き、その後「山中の温泉(いでゆ)」に向った。「曾良随行日記」によれば七月廿七日から八月五日まで、芭蕉は山中温泉に九泊十日も滞在している(その後もう一度小松へ戻っている)。
杖を置いたのは「泉屋久米助」方。今は泉屋のあったことを示す碑(↓)があるだけだが、すぐ前には古くからの湯元である「菊の湯」が見える。むかしはここが総湯(共同浴場)であり、内湯はなかったとのこと。
「菊の湯」の名は芭蕉のこの句によるものらしく、芭蕉さんの力にあらためて感服するのみ。

山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ 

Kkdsc00716

この温泉地の東を流れる大聖寺川の渓流を芭蕉が散策したことは曽良の日記にも記されている。
温泉街の北の「黒谷橋」から河原に降り、遊歩道を南へ下がって「こおろぎ橋」まで歩いた。約1.3㎞。実は着いた日の夕方と翌日の早朝も散策したのだった。
渓流なので少しは涼しいだろうとの期待は見事に裏切られた。台風接近で北陸はここしばらく猛暑続き(昨日10日は小松が40℃を記録)。ただし苔マニアのひとにとっては、一日中歩いても飽きないだろうとは思った。素人ながら、苔の種類が豊富なのにはちょっと感動。もちろん青森の北入瀬や北八ヶ岳白駒池周辺の苔の森のような風景には及ばないけれども、温泉街から気軽に立ち寄ることができるし、その渓流美は変化に富んで趣があり好ましい。春や秋はひとでいっぱいかもしれない。

〇黒谷橋(大切な誰かと待ち合わせをしたい気分にさせる・・・(*'-')
Kkjdsc00732

〇遊歩道の始まり
 中央を登ると東山神社。右の芭蕉堂へ進むと渓流沿いの遊歩道。
 左に見えるランプはレトロカフェ「東山ボヌール」。
Kkhdsc00734

〇東山ボヌールさんで頂いた鶴仙渓の案内パンフ。
 左が「モジャモジャマップ」(苔など植物の情報マップ)
 右は「鶴仙渓ワンダーフォーゲル」(ガイドマップ)
Kkdsc01085

〇東山ボヌール →★HP
 レトロカフェ。元は旅館だったとか。
 この日は散策前に予約。「森のケーキ」でカフェ。2階席でよかった。
Kkdsc00737
Higashidsc00762

〇芭蕉堂(明治末の建立)
Kkkdsc00744

〇遊歩道
  苔、シダの種類が豊富で、こうした場所は珍しいとか。
Kksdsc00837
Kkodsc00773
Kkgdsc00791
Kkldsc00833

〇ゆるやかな流れや淵もあれば、急な瀬もあって変化を楽しめる。
Llpdsc00883Ll
Kkodsc00899
Jjjc0486t01
Kkldsc00889

〇あやとり橋(鉄橋)
Kkpdsc00907

〇川床が見える。
 山中温泉町出身の道場六三郎氏監修のロールケーキが出るとか。
Kikdsc00909

〇遊歩道から見上げた「こおろぎ橋」
 大昔、同名のTBSドラマでも有名になった。
Kkfdsc00872

〇こおろぎ橋(何度も付け替えられている総檜の美しい橋)
 でもわたくしとしましては、
 やはり黒谷橋の渋さに軍配を上げます\(^^ )
Kkidsc00864

忘れていたが、資料館「芭蕉の館」のことや句碑のことはまたいずれ。次回は「那谷寺」か。

 

| | コメント (0)

2023年6月28日 (水)

ミニベロ

Bmg_0699
岐阜県・笠松みなと公園(20230610)

いつものコース。自宅→「木曽川犬山緑地」→「木曽川サイクリングロード」→木曽川橋→岐阜県側の「笠松みなと公園」。
往復約50㎞(20230610)。年齢に合ったちょうどいい運動量。

フロントは2枚もいらないけれど、旅先で予想外の坂道が続いたときなどは助かることがある。
サドルバッグに入れてあるものでは、とくに携帯ポンプ(Topeak Roadie TT mini)が長さが17㎝足らずで邪魔にならず使い勝ってもよい。ときどき空気圧を変え、乗り味の違いを楽しむ。

| | コメント (0)

2023年6月14日 (水)

一茶の里

名月や乳房くはへて指さして    織本花嬌

名月をとつてくれろと泣子哉   小林一茶

この四月に上越(市振、親不知、上越市)、北信濃(信濃町、高山村、坂城町、上田市など)を訪れました。やはりひとり旅でしたが、前回記事五月の上越(出雲崎など)と違い、自家用車で広範囲を回りました。

今回はとくに一茶ゆかりの高山村を訪問した印象を記します。

先日藤井聡太さんが名人のタイトルをとった「藤井荘」(山田温泉)のある高山村は、実は小林一茶が北信濃の俳諧活動で重要な拠点にした所でした。その高山村に「一茶ゆかりの里 一茶館」があります。訪問した四月十二日はあいにくの空模様でしたが、入り口前にある満開のしだれ桜が風に揺れながら「どうぞどうぞ」と招き入れてくれました。
Jjkkk56dsc06841
一茶館(長野県上高井郡高山村高井) 20230412

もちろん一茶の故郷柏原(信濃町)には「一茶記念館」があり、遺蹟や多数の句碑もあって、前日に何か所か立ち寄りました。でもそれらよりこの高山村の「一茶館」は、今もなぜか強く心に残っているのです。
地元のひとたちが大切に受け継いできた一茶の遺墨や『父の終焉記』をはじめとする資料の数々、金林喜多呂の愛らしい木目込人形による一茶生涯の展示、現代に至るまでの一茶研究の流れなど、質の高い、それでいてわかりやすく親しみを感じる記念館でした。

家族や親族のことで何かと不運、苦労の多かった柏原の一茶でしたが、頻繁に通ったここ高山村では伸び伸びと俳諧活動に専念できたようにみえます。村の門人久保田春耕の援助もあり、彼の父の離れ屋を提供され活動の拠点にしたそうです。その茅葺きの離れ屋は本館近くに解体・修繕・移築されており、建築物としても見応えがあるものでした。居心地がよくて一茶館ではずいぶん長い時間を過ごしました。
予定時間を大幅にこえてしまったため次の訪問地は翌日に回すことになりました。

ところで一茶が自身の俳圏拡大につとめたのは信州だけではありません。実は40歳を過ぎたあたりから本所深川に住みながら、江戸川・利根川周辺(流山、守谷、取手、成田、銚子など)や内房(富津、木更津など)へ巡回指導を行っています。
機会があれば、流山の「一茶双樹記念館」(秋元双樹屋敷)、冒頭句の織本花嬌(一茶憧れの女性俳人)が眠る富津の大乗寺などへも行ってみたいと思いました。


Iidsc06859_20230613141001
離れ屋(一茶館) 奥の小部屋の丸窓が印象的 20230412

Kkkdsc06623
信濃富士(黒姫山) 信濃町柏原「一茶記念館」前にて 20230411

| | コメント (0)

2023年6月 4日 (日)

良寛の里

Mmdsc08355
 出雲崎:良寛堂(生家橘屋跡地)の良寛像 20230510

五月中旬三泊四日で良寛や貞心尼ゆかりの地をひとりで巡りました。
道の駅や史料館などに車を置き、歩きながら、ときには車載の折り畳みミニベロで動き回り、柏崎、出雲崎、寺泊、分水(国上山・五合庵)、与板そして遷化の地の和島など、良寛や貞心尼の足跡を辿りました。
事前にわかってはいましたが、寺社、公園などに良寛の詩碑や彼の像がとても多いことにあらためて驚きました。さらに良寛の遺墨を展示する記念館(史料館・美術館)が何か所もあり、まさに良寛の里と呼ぶにふさわしいところばかりでした。

以下、旅したなかで印象的だったことを幾つか。

四日間とも晴天に恵まれたことは幸いでした。現地に行ってはじめてわかったのは、出雲崎、与板、和島では各所を巡るのに自転車がとても役立ったことでした。道を尋ねることが何度もあったのですが、歩きよりなぜか自転車だと気軽にひとに声をかけることができて移動の手段としては最善だったと思います。
Kkkdsc08343
 良寛堂:良寛像はこの堂の向こう側にある。

あるお寺さんで碑の写真を撮っていると、清掃中にもかかわらずお庫裏さんが良寛詩碑の解説資料をわざわざ探して持ってきていただいたり、今年は雪が少なかったのに春先の重い雪で裏山の桜の木が倒壊した話など、お寺を維持する苦労話なども聞くことができました。道中でお話しできたどの方もやさしい目をしておられたのが印象的で、ひょっとしたら良寛が接していた当時のひとびとの末裔の方もおられたのではないかとさえ思いました。また分水良寛史料館では館長さんから遺墨について直接貴重なお話を聞くことができ、よき思い出となりました。

Sadodsc08996_20230531135201
「鄕本空庵跡」近くの海岸から佐渡島遠望 20230512

海をゆっくり眺めるのはほんとうに何年ぶりかのことでした。でも晴れていても佐渡島はいつも見えるわけではありませんでした。ようやく旅の三日目に寺泊や近くの「鄕本空庵跡」に立ち寄ったときに初めて佐渡島の全貌を遠望できたのですが、山には名残の雪も見えていました。良寛もときおり母が生まれたこの島を眺めていたのでしょう。
その他に海や町並みを眺望できる心に残った場所は、出雲崎の石井神社と良寛記念館側の公園、寺泊の照明寺などでした。けれどもこの海や土地のこと、いや良寛のことをさらに知るためには、実は冬こそ訪れるべき季節かもしれない、そんな思いが頭を過りました。

Lldsc09253
守門岳:与板の「楽山苑」から遠望 20230512

訪れたどの所からも北に弥彦山、東に残雪の守門岳が遠望できました。ほとんどの田はすでに田植えが済んでおり、米どころならではの広々とした田園風景が広がっていました。今回の旅の拠点(泊地)は長岡市でしたので、北越戊辰戦争の舞台となった場所に開設された「北越戊辰戦争伝承館」も訪れたのですが、戦禍に巻き込まれた村の様子、戦闘の全貌がわかりやすく展示されており、史料等を館に提供された地元の方の熱意も伝わってきました。

調べてみると良寛の遷化は1831年のことであり、明治維新までそう遠くない時代に彼は生きていたのです。ずいぶん昔の人だと思っていた良寛が急に自分の傍らに座っている気がしてきました。しかも晩年の良寛と深い交わりのあった貞心尼が亡くなったのは明治5年のことでした。Ggdsc08165
 閻魔堂(貞心尼草庵):長岡市福島町  20230509
 ブロンズ像は昨年(2022年)4月に建立されたという。

 

| | コメント (0)

2023年5月23日 (火)

旅心に誘われて

ひとり旅。四年ぶりの遠出。

先月は二泊三日で越後と北信濃へ、
さらに今月は三泊四日で再び越後の旅に出た。
自家用車で行くが、ミニベロを積み、小さな町も自由気ままに走る。
次は羽前、陸中へ。
Tttdsc07959
※上信越道から早朝の越後富士(妙高山 20230509)
雪解けがかなりすすんで、あの雪形の「跳ね馬」が・・・
跳ねるネコちゃん、いや耳の小さいウサちゃんかも(゚o゚;



| | コメント (0)

2023年4月24日 (月)

谷汲街道池野追分②

Ddedsc03909_20230424221901

(承前)
その追分に行ってみた。
上の写真が前回載せた約70年前の写真とほぼ同じ場所から写した現在の「池野追分」である。櫓は無くなっているが、今は民間のものとなった元派出所の建物の形状がそっくり残っている。たぶんもしこの建物が残っていなければ、父が撮った写真が池野追分であることに気がつくこともなかったかもしれない。電柱や右端の郵便ポストの位置もほぼ同じだ。そして新道沿いには今も多くの店が並んでいる。ちなみに自分の生家があった場所(今は駐車場)はこの追分を右(旧道)に進むと徒歩1分もかからないところにあった。
70年ぶりにこの地を訪ね、生家跡の駐車場を眺めながら、父が書き残してくれていた自分の誕生の日の様子を思い出していた。逆子であることに気づいた産婆さんが医者の立ち会いを求め、父が必死で自転車を駆って病院へ走ったこと、ひどい難産だったことなど。それは梅雨も終わりに近い7月初旬の日曜日夕刻のことだった。

ところで少しつけ足す。
西国三十三所巡りについて調べていたとき、『街道を歩く 西国三十三所』(加藤淳子著  創元社 2003年)を読み、谷汲街道のことに触れた箇所で、明治44年に柳田国男が揖斐の「池野」を通ったことが記されていた。そこに紹介された柳田の文はほぼ要約に近いものだったし、出典も記されていなかったので、最近調べてみたところ、それは『美濃越前往復 -明治四十四年-』だとがわかった。引用する。

「引きかへして根尾川の末を渡り、谷汲寺に詣づ。揖斐の町長及び署長に迎へられ、揖斐の町に行きて休息す。」
と記したあとさらにこう続けている。
「池野の珍しい町を過ぐ。二十年とか前までは原野の道の辻なりしが、追々に家增加して繁華の地となる。もと入會なりし為に、家々の標札軒竝に村を異にすること、越前吉崎よりも甚だし。卽ち家主の出た村に屬することになる也。」

追分の右の道が本来の谷汲街道(旧道)であり、左は新道であるが、明治中頃に新道周辺の開発が進んで多くの商人や人々が各地から集まり、この地域は急激に栄えていったのである。そのことを柳田は短い文章ではあるが的確に記述している。
なお元派出所前の今は無くなった櫓の土台側には、「左いび (ならびに)谷汲新道」の道標(明治27年)が綺麗な姿で立っていた。
   Kkodsc03946
参考:
※池野市場の開発の様子ついては、以下の史料(文献と絵図)をネット上で見ることができる(岐阜県歴史資料館)。
〇「揖斐郡池田村大字池野市街成立書」(翻刻)→★
 (追分にあった元派出所の設立事情も記載)
〇絵図「市場開設前の池野村」→★
〇絵図「市場開設後の池野村」→★
※その他
〇『街道を歩く  西国三十三所』
  加藤淳子著 創元社 2003年
〇『定本柳田国男集 第3巻』
  筑摩書房 1963年
〇『揖斐郡志(全)』昭和61年復刻版
〇『池田町史(通史編)』昭和53年

| | コメント (0)

2023年4月17日 (月)

谷汲街道池野追分①

今までは親と頼みし笈摺を
脱ぎて納むる美濃の谷汲   
 御詠歌
Dsc03403_20230417193501

数年前、父のもっていた写真類を整理していたとき、自分が生まれたときに家族が2年ほど住んでいた官舎のネガフィルムを見つけた。ネガの付箋には昭和28年夏頃と記してあったが、生家といっても、物心がつく前に父の転勤で家族は飛騨高山へ移ってしまったから、家の記憶もないし、住所の揖斐郡「温知村」(昭和25~29年)という名称も今はもう使われていない。
ただしこちらの写真(↓)は父のアルバムに貼ってあり、見るたびに父は「お前が生まれた家のすぐ近くの写真だ」と話してくれたことがあった。けれども写真の正確な場所がどこなのかといったことはこれまで全く関心がなかったし、調べようという気もなかった。

ところが最近になって「西国三十三所」満願の寺「谷汲山華厳寺」について調べていたところ、「谷汲巡礼街道」の資料やその街道に関する情報を載せたサイト上に、「谷汲街道池野追分」といわれる場所のことが記されていた。そしてその追分を撮った最近の写真をよく見ると、特徴的な中央の建物の形は、父が約70年前に写した下の写真と全く同じであることに驚いたのである。

写真を拡大してみると、道路を跨いでいる看板に「揖斐地区警察署温知警部補派出所」と記してあることがわかった。
正面の建物が派出所で、左が明治時代に整備された「谷汲新道」、右が本来の「谷汲道」である。なお「温知村」は昭和25年から29年まであった地名で、「温故知新」を校名に取り入れた地元の「温知小学校」に因んでいる。

この追分は今どうなっているのかこの目で一度確かめてみたいと思い、年が明けてから早速出かけたのである。ついでに自分の生家の場所はどこなのかも・・・。
(次回②へ)
640_20230211002601
谷汲(巡礼)街道池野追分
(撮影:約70年前の昭和28年、あるいは29年頃の夏か)

| | コメント (0)

2023年4月 1日 (土)

寄残花恋

ここ数日、伊吹山に落ちるお天道様の動きを追う。
若葉がくれに散りとどまる花を惜しみつつ。
花に寄する恋、残れる花に寄する恋、
花といえば、やはり西行。

   寄花恋
花を見る心はよそに隔たりて身につきたるは君がおもかげ
12_20230401134101

   寄残花恋
葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する
21

〇写真 上:28/Mar.  下:31/Mar.
    Medium GND 0.9使用。
〇出典
『山家集』 新潮日本古典集成(第49回)
 校注:後藤重郎 昭和57年

| | コメント (0)

2023年3月29日 (水)

火とぼしころを

ひと恋し火とぼしころをさくらちる 加舎白雄

さて、きのうもきょうも空が焼けた。
10分足らずの出来事だった。
夕闇深まるなか、風は収まったけれど、
閑かに桜花は謝す。
そして遠く東に住むひとのことを想う。
77dsc05929
89dsc05968
上 18:14   下 18:22   29/Mar./2023 
犬山成田山

加舎白雄は信州上田藩松平家の深川抱屋敷で上田藩士加舎家次男として出生。蕉風復興に力を注ぎ、蕪村とならび俳諧中興の祖の一人(1738~1791)。「ひと恋し・・・」の句碑を墨田区の白鬚神社で見たことがある。また信州上田城跡公園にも句碑があるらしい。

| | コメント (0)

2023年3月10日 (金)

落日犬山城

Photo_20230310194301
        犬山成田山より(17:46 10/Mar./2023)

この季節になると日の入り時の犬山城を撮影するひとが増え、桜が咲くころまで続く。今日は撮影者の集まるところからは少々離れて写してみた。
半年後の9月ごろの夕陽も美しいが、秋の満月が犬山城へ沈む月の入りも趣がある。

| | コメント (0)

2023年3月 6日 (月)

呑水(5)

(承前)
承前といっても、「呑水」のことを記事にしたのは半年以上も前のこと。今さらという気もするが、中途半端は嫌なので書き足しておく。
振り返ると、『犬山市史』の「呑水」について書かれた林輝夫の文章のことから始め、彼が『艸ほこ』(呑水)の翻刻をしたことや美濃加茂の俳誌『自在』を主宰していた西田兼三との交流のことなど、幾つかの事柄(断片的事実)を繋ぎ合わせながら記事にしていたのだが、肝心の呑水そのひとについては(2)で墓碑や生涯などについて軽く触れただけだった。

まだあまり触れていなかった彼の句や『艸ほこ』、そして追悼集『蓮の実』のことについて最後に少し記しておく。

〇彼の句。
前に記したものを含め、あらためてそのいくつかを見る。

梅散るや浅黄布子の洗ひ時   「矢矧堤」

手のひらで雨をしる夜の水鶏哉 「菊の香」

朝経にまけじまけじと蝉の声  「砂川」

鬼松の影やはらりと夏の月   「東華集」

人気なき雨の匂いや梅山椒   「渡鳥集」

 辞世
蓮の実の十方にとんであそびけり

意味のよくとれない句も多いなかで、自分にとって比較的わかりやすい句だけを少し拾ってみたが、もちろん句を評することなど自分にはできない。ただし名古屋の情妙寺で碑になっている「手のひらで」の句は気に入っている。

〇彼のいくつかの文章を集めた『艸ほこ』。
林がその一部「蜂屋へ紀行」を翻刻した『艸ほこ』には、他に内津(今の春日井市内津)への旅(遠足)や丈草から届いた手紙などが記されている。しかし翻刻できるような力は自分にはないので、いったい何が書かれているのかは今のところほとんどわからない。

〇呑水の追悼集『蓮の実』。
国文学研究資料館からその写しを送ってもらった。「序」が楚竹、「封塚辞」は犬山妙感寺の日長、「跋」は犬山出身の馬州が書いている。
二つ目の日長の文章には、呑水の遺言として「骨は源頂山におさめ、生前の抜歯を一翁山に贈るべし」と記している。したがって以前の(2)にある碑の写真のように、かつて住持であった犬山の一翁山妙感寺には「歯塚」が建てられたのである(馬州の跋では、呑水の「朝起の癖」にまつわる思い出話が書いてあった)。なお作句者をみると、地元尾張だけでなく近江、飛騨、伊勢、さらには奥州や九州のひともいる。僧侶であり俳人でもあった呑水の人柄を慕うひとはずいぶん多かったのだろうと思う。

それにしても気になるのは、『艸ほこ』に収められている呑水宛ての丈草の手紙である。

Dondsc09389
    呑水(遠光院日陽聖人)の歯塚背面 
     [犬山・一翁山妙感寺 2022年]

参考:
〇なぎの舎随筆Ⅰ
「尾北俳諧覚え書」市橋鐸 私家版 昭和45年
〇『蓮の実』 呑水追善 楚竹編 享保十四年
〇『矢矧堤』については
『新編岡崎市史 13近世学芸』の翻刻参照
〇他の参考図書は「呑水(2)」に記した。

| | コメント (0)

2023年1月 4日 (水)

烏瓜

くれなゐもかくてはさびし烏瓜 蓼太

さかりゆくひとは追はずよ烏瓜 鈴木しづ子
Karasuuridsc03101
                      犬山市高根洞 3/Jan./2023

きのう入鹿池から本宮山に登り、下るときは大縣神社へ出る道を選んだ。神社が近くなってきたころ、冬の木々や枯れ草ばかりの藪の奥にふと目を遣ると、「おい! 見てくれよ」とばかりに三つほどの実がぶらさがっていた。
持っているどの歳時記も「烏瓜」は晩秋の季語、そして「烏瓜の花」は晩夏の季語となっている。日没後に咲き朝には萎むというその花をこれまで実際に見たことがないので、今年の夏には是非どこかで。

| | コメント (0)

2022年11月11日 (金)

#スワイチ

Lolimg_0450
*岡谷市湊町の遊歩道から八ヶ岳方面を遠望。2022/11/10

きのうひとりでミニベロに乗り諏訪湖を一周してみました。約16㎞。諏訪湖にはこれまで何度も来たことがありますが、自転車で一周するのは初めて。起伏がないので自分のような老いた身でも一気に2周ぐらいはできそうでした。
朝6時に自宅を出て中央道を約2時間半。おもえばこんなに遠出するなんて3年ぶり。深夜長野県には濃霧注意報が出ていて、伊那谷から諏訪湖までほとんど霧の中のドライブでした。
「石彫公園」に着いたのは9時頃、霧もようやく晴れて気温は4℃。でも風がなくて清々しい。園内には多くの彫刻があってしばし散策。左は最初わからなかったけれどリンゴですね。
22
9時半出発。反時計回りで一周することにしました。
サイクリングロードはかなり充実していましたが、現在も整備中のところがあって何箇所か工事中でした。
「#スワイチ」認定証をもらうためには指定3箇所に立ち寄り写真撮影をする必要があります。自転車だけでなく歩いても走っても可です。
左は最初の指定地「諏訪湖間欠泉センター(諏訪市・湖畔公園)」。間欠泉は今年になってから出なくなっているようですが、今日は湯気が立ちのぼっていました。右は2番目の「富士山と諏訪湖の眺望ポイント(下諏訪町・みずべ公園)」。逆光でしかもまだ霧の影響もあって南西方面は霞んではいましたが、その輪郭はなんとか。このあたりのロードは整備中でした。
33
日帰り予定なので立ち寄るとすれば公園だけと決めていました。
湖畔北側の「赤砂崎公園(下諏訪町)」の「丘の輪」では、数日に分けて歩いて諏訪湖一周をチャレンジしている旅行中の年配の方々と楽しいおしゃべりができました。

#ビワイチ3番目の指定箇所は「寒の土用丑の日」発祥の地記念碑(岡谷市・岡谷湖畔公園)。探すのにすこし苦労しましたが、天竜川起点の釜口水門すぐ近くにありました。ウナギは冬こそ旬だとか。
2er_20221112104401
水門からの眺望。風が弱く、湖面が秋空を映して美しい。
Oiup1030674
釜口水門を離れ、湖の西側湖畔(岡谷市湊町)を走ります。ちょうど太陽の方角の関係で東側の山々が日に映えて美しい眺めが続き、枯れ葉舞うなかを歩いたり(冒頭写真)、満天星(ドウダンツツジ)が植えてある辺りではしばしば立ち止まりました。
Okp1030702
Dep1030694
午後2時前には出発点の石彫公園に帰り、すぐJR上諏訪駅の観光案内所へ立ち寄って認定証と缶バッジをもらいました。
次はハマイチかビワイチ。ビワイチは一周約200㎞もあるので2年計画になるかも。

        5252img_0462

| | コメント (0)

2022年10月 6日 (木)

木曽川夕照

Photo_20221005211901
きのう岐阜の実家へ掃除に行った帰りの夕方、曇り空だったのが一転して西の一部の空が晴れてきたので急いで成田山に寄りました。空の大半はまだ厚い雲に覆われていましたが、ひょっとして焼けるかもしれないと思ったのです。
15分ほどの短い時間でしたが、なにより夕照木曽川の川面が美しく、伊木山を挟んで上流も下流も茜色に染まった川の景色をこれまで見たことがなかった気がします。
城と伊吹山が近づいて見える大師堂付近の階段に移動した頃には、すでに雲が暗くなり始め、茜色の空は次第に鈴鹿山脈の方へと移っていきました。
Dsc00991

| | コメント (0)

2022年10月 5日 (水)

明治村のキンモクセイ

木犀に人を思ひて徘徊す  尾崎放哉

Dsc00812
先日明治村住民登録(年間パスポート)更新のために入村。
前回の入村は真夏だったのですが、今はもうキンモクセイの季節(でも訪れたときはすでに花の終わり)でした。そんなわけで今回は明治村のキンモクセイ巡りをした結果をメモしておきます。

自分にとってもっとも印象的な明治村のキンモクセイは4丁目の「半田東湯」前(上掲写真)に立っています。でもおそらく誰もが目を向けるのは5丁目の「金沢監獄正門」脇(↓)にあるキンモクセイかもしれません。きょうもその側を通る大半のひとが立ち止まって見つめていました。
65dsc00792
明治村の他の地区よりも北口に近い5丁目にはキンモクセイが多く植えられているような気がしました。北口から「帝国ホテル中央玄関」へ到る道沿い、そして「金沢監獄中央看守所」周辺の庭(↓)などには特に多く見られます。
58dsc00916
なかでも「高田小熊写真館」前(↓)に並ぶ二本は印象的です。
54dsc00784

4丁目では上で紹介した「半田東湯」以外に「工部省品川硝子製造所」前にも植えられています。さらに4丁目の「休憩所」から3丁目に入る道沿いのガス灯付近(「台場鼻潮流信号機」近く)や「神戸山手西洋人住居」の周囲にも何本か植えられています。
1丁目では「西郷從道邸」西側庭の奥、「日本庭園」入口、そして「大井牛肉店」の裏などに見られます。

今回キンモクセイだけを探して村内を回りましたが、かなり多くの場所にあることは意外でした。キンモクセイが香る時期が短く、ふだんは木の存在すらほとんど気にかけていなかったからでしょうか。
他にも桜や椿など、村の植栽地図を明治村で作っていただけないかなと思ったりしました。建物だけでなく樹木も大切な展示物だと思いますので。

閉村時間が近づき、最後はキンモクセイ越しの帝国ホテル中央玄関に別れを告げて北口へと急行。
3469dsc00955

*建物の位置関係は、明治村HPにある「村内地図(PDF)」参照。

| | コメント (0)

2022年9月25日 (日)

From 1880 to 2021

@NASAVizの映像資料から
とりわけこの約30年間の変化の凄まじさに驚く。

| | コメント (0)

2022年9月 9日 (金)

竹の春

サイクリング途上で、ふと見上げる「ゆきあひのそら」。
空に秋の気配はあれど、まだまだ残暑の日々。
56img_0368
夏雲に盛夏の頃のちからはもうなくなっている。

しばらく走って竹林の前で水分補給。
思う、そういえば今日は重陽節供(句)の日。

菊の香にくらがり登る節句かな

元禄七年九月九日、芭蕉は暗峠を越えた。
今の暦でいえば10月27日だという。秋も深まりつつあるころだ。
そのひと月後には帰らぬひととなった。
Photo_20220912221501
竹林:一宮市浅井町(木曽三川公園) サイクリング道にて 
   9/Sept./2022

| | コメント (0)

2022年9月 6日 (火)

鈴木文拙と鈴木裕三

(承前)
話の流れでいえば、次に市橋鐸麿(鐸)を扱うべきだが、彼についてはいつかまた触れる。
これまで『市史』に紹介されている鈴木家7人(市橋を除き6人)について、現在の墓碑の様子などを見てきたが、ひとまず今回で終わる。

鈴木家の分家について。
江戸時代のおわり、10代玄道(維馨)のあとに鈴木文察が分家を興している。文察も本家同様成瀬家の家医であった。鈴木文拙は文察の嫡男として文政7(1824)年に名古屋で生まれた。名は鐸。
地元での学問修業だけでなく上洛して蘭方や漢学を学んだ。1850年に名古屋に戻って文拙と名乗り家業を継ぎ、維新後は犬山(高見町)に帰って医業だけでなく教育にも力を入れ人々から慕われた。明治30(1898)年に78歳で没したが、その遺徳を偲び記念碑が明治37年に建てられている。

妙感寺にある墓(左写真)。碑銘は「沈蔵坊文拙俟庵醫(医)士」。
針綱神社に建てられた記念碑「鈴木文拙先生紀年之碑」(右写真)。
Photo_20220904120601Dsc09565

文拙の嗣子として明治元(1868)年に名古屋に生まれたのが鈴木裕三である。海軍軍医として活躍し、舞鶴海軍病院長 兼 舞鶴鎮守府軍医長、呉海軍病院長 兼 呉鎮軍医長、さらに軍医総監、海軍軍医学校校長、海軍省医務局長など要職を歴任し、大正14(1925)年8月8日、54歳で没した。海軍軍医中将。
東京多磨霊園墓地に墓があるが、犬山に眠る父文拙の墓の横にも遺骨が葬られている(妙感寺・鈴木家累代之墓)。


鈴木寂翁から今回の鈴木文拙・鈴木裕三までの6回分
で参考にした文献

〇『犬山市史』別巻 文化財 民俗 昭和60年
〇『尾張国丹羽郡犬山鈴木家文書解題
 この解題は下記の文書(201~204頁)にある。
  国文学研究資料館 資料目録第92集 
  愛知県下諸家文書目録(その1)平成23年
  *国文学研究資料館データベースのURL→★
〇その他に人名辞典などを参照したが書名は省略する。  

| | コメント (0)

2022年9月 5日 (月)

鈴木敏也

(承前)
本光寺にある鈴木家本家の墓群に第14代鈴木敏也(1888-1945)の墓がある。戒名は「文香院梛居敏也大居士」。墓石の背面に弟の市橋鐸麿(鐸)が兄のために顕彰の碑文を書いている。

居士は尾張犬山の医家に生れて国文学に志し東京帝大に学び廣島高師同文理科大学教授となり近世文学の探究に生涯を捧ぐ 原爆投下の晩冬学長に就任せしも宿痾のため任地に逝く 主著を近世日本小説史二巻となす 
昭和丁酉之冬 家弟 市橋鐸撰併書

なお文中「学長に就任せしも」とあるが、原爆投下後しばらくの間は大学の機能が事実上停止しており、役職は学長事務取扱であった。
『市史』の敏也の項目には、医師となるべき運命を背負いつつも、教師や級友の力を借りて父親を説得し国文学科へすすんだことが記されている。3代寂翁以来の医家としての鈴木家の系譜は、敏也にも、そして弟の鐸麿にも引き継がれることはなかったのである。

14_20220525012501 Photo_20220525012501
本光寺の鈴木家墓群にある鈴木敏也の墓。
昭和20年12月9日没。60歳。



 

| | コメント (0)

2022年9月 3日 (土)

鈴木玄道(豊)

(承前)
さて、このブログに取り上げる『市史』に記された鈴木家の7人は、系図上どこにいるのかを簡単に確認する。
没年による時代(世紀)区分でまとめる。

17世紀 初代一閑→2代一翁3代寂翁(玄察)
18世紀 4代卜仙→5代可節→6代玄道(直)
     →7代玄道(政方)8代玄道(博高/東蒙)
19世紀 9代玄道(恒久)→10代玄道(維馨)
     →11代玄道(凞)12代玄道(豊)
20世紀 13代光雄14代敏也→以下略

14代敏也の弟が丈草研究で知られる鐸麿(市橋鐸)であるが、医家としての鈴木家は3代から13代までであったという。
なお10代玄道(維馨)の子の代に分家した鈴木玄察、子の鈴木文拙、孫の鈴木裕三がいるが、この系譜はあとで詳しくみる。

『市史』に記された鈴木家の3人目は12代玄道(豊)である。
本町通りを城に向かって進むと旧福祉会館跡手前(交差点南西)に鈴木家の邸宅がある。庭(今は駐車場)の一隅には「鈴木玄道宅跡(本町)」と記された小さな立て看板があるが、
看板の説明はやや不親切であり、ここに記された玄道は12代玄道(豊)[没年明治11年]のことである。
若い頃は名古屋、江戸などへ遊学して医学、儒学、蘭学を学び、医業の傍ら村瀬太乙の前任となる敬道館教授も兼任した。明治になってからは一般の町人にも治療を施し、人望を集めたという。
  Photo_20220902105001
鈴木玄道宅跡とされている場所にある現在の邸宅。
6_20220902105101

玄道(豊)の墓は夫婦墓として本光寺の鈴木家の墓群にある。
碑銘「紀水院韭(韮)郷日豊居士」。明治11年11月12日没55歳。
なお豊は妻に早く死別している。後妻を娶らず娘と二人暮らしであったが、養子を貰って家督を継がせた。
   Dsc09161_20220902154101
また犬山城内には七周忌の秋に門下のひとたちによって記念碑が建てられた。この記念碑題字は成瀬家9代正肥(まさみつ)である。碑には彼の経歴や遺詩もあるが、漢文調の文章を解する力は自分にはない。ただし気になったのは文末に記された碑文の作者のことである。
鈴木鐸文拙謹撰 堀野宏良平肅書」とある。「鈴木鐸文拙」とは、分家2代目の鈴木文拙であり、その名はであった。彼のことも『市史』に詳しく紹介されている。
Dsc04063_20220902111201

次回は玄道(豊)の孫である鈴木敏也市橋鐸麿についてみる。


| | コメント (0)

2022年9月 1日 (木)

鈴木東蒙(2)

(承前)
さて本光寺にやって来たものの、寺は無住となっているようだ。それもかなり長い前からのようにみえる。犬山の、それも中心部にある寺のひとつがこうした状況になっていることに驚き、無常を説く『方丈記』の冒頭の件を思い起こす。ただしこの5月に訪れたときには、全てではないが、墓前の花がまだ新しいものは多かった。

寺の西側にある門から入ると「妙見堂」(成瀬家の家老千葉氏が建てたもの)がある。さらに進むと南面している一群の墓(↓写真)があって、そこに博高(東蒙)らの墓がある(さらに右奥(南側)へ入ってゆくと鈴木家本家の墓群がある)。
Dsc09327
上写真の左から3基目が博高の墓で、碑銘は「灌雪齋博高日徵居士」(天明4〈1784〉年4月14日没50歳)。その左隣は妻のものと思われる。もし『市史』の記述が正しいとすると、いつのことかは不明だが博高の墓は妙感寺から本光寺へ移されたということになる。鈴木家本家の墓群とは少し離れたところにあるところからすると、そう考えることもできるが、あくまで推測である。とにかく現在のところ彼の墓は妻の墓と同じ「本光寺」にある(2022年現在)。
なお博高の墓の右隣に碑銘「觀解院了菴日奘居士」の墓、その右隣には彼の妻のものと思われる墓がある。この「了菴」とは実は博高の父であり、鈴木家6代の玄道(直)のことである。父親の墓も子の博高と同じく、本家の墓群から離れたところにあるのは不思議である。ひょっとすると父親の墓も本来は妙感寺にあったのかもしれないなどと考えてしまう。『市史』に博高の妻の墓が本光寺にあることが「なぜか」と書いてあるが、たしかに謎は深まるばかりである。
鈴木家に関する『市史』の記述は末裔である市橋鐸さんが書いたものと思われる。自分の祖先の墓の所在についても承知していたはずであるから、博高の墓が妻と同様にもとから本光寺にあったとすれば、それを見逃すはずはないとおもうのだが・・・。
いずれにせよ、8代鈴木博高には、本来の墓(本光寺に現存)、そして友人・弟子が建てた墓(妙感寺の東蒙先生之墓)、このふたつの墓があることだけは確認できた。

ところで博高は父6代玄道「直」の三男であり、本来家督を継ぐ立場にはなかった。しかし8代を継いだ事情について『犬山市史』は次のように記している。

三男に生まれて長男が若死、その嗣子はいまだ生まれず、次兄が他家をおかしているため家を嗣ぎ、そのため年若くして、兄の嗣子に世を譲ったという数奇な運命を背負った。
『犬山市史』(別巻 民俗 文化財)321頁

少々意をつかめない部分もあるが、要約すれば、長男である兄の若死によって急遽鈴木家の跡継ぎになったものの、すぐ兄(長男?)の子に世を譲ることになったということだろう。いわばピンチヒッターとして鈴木家の断絶を救ったわけである。
『市史』には『先人詩抄』に収録されている彼の詩が紹介されているし、あるいは「妙感寺」の墓の碑銘などを見ると、詩人として活躍したことは窺い知れるものの、それ以外の彼の人生の詳細を知る術はない。

次回は『市史』に記された鈴木家7人のうち3人目にあたる第12代「鈴木玄道(豊)」についてみる。

8_20220526003301

本光寺の8代玄道[鈴木博高(東蒙)]の墓。
碑銘は「灌雪齋博高日徵居士」
天明4(1784)年4月14日没 50歳
2022年5月23日撮影

 

| | コメント (0)

2022年8月31日 (水)

鈴木東蒙(1)

(承前)
さて、先聖寺を出て本町通りに入り「鈴木玄道宅跡」へ行く予定だったが、その前に寂翁の子孫たちの墓を見ておくことにした。

鈴木家代々の墓はほとんどが枝町の「本光寺」にあるのだが、実は鈴木家は、たぶん19世紀前半に分家ができて、その子孫が「妙感寺」に墓をもっているのである。ところが調べてみたところ、実はこれら両方の寺にそれぞれ墓をもっている鈴木家本家のひとがいるのである。それは8代玄道、侍医6世の鈴木博高即ち東蒙である。[ただしそもそも鈴木家の分家が立ったのは、博高の2代後のことであって、博高の代にはまだ妙感寺に分家の墓はなかったと考えられる。]

鈴木博高(東蒙)は『市史』によれば侍医のかたわら松平君山(儒者、尾張藩士・書物奉行等)門下の詩人でもあったという。
博高の友人・門人たちが発起して建てたと思われる墓が「妙感寺」にある。碑銘は「東蒙先生之墓」(↓)とあり、碑の表以外の三面には岡田新川(儒者、尾張藩士)の記した長文の銘が刻され、その前半は前回見た侍医1世だった寂翁以後の鈴木家の系譜が記されている。建立年月は、博高の没した天明4年4月14日から半年後の10月と刻されており、建立者は鈴木恒久(9代玄道)と鈴木維馨(後の10代玄道)連名となっている(なお、『市史』には博高の没した日が4月15日とある)。

この墓は、「先生之墓」とされているから、別に本来の墓(親族が建てた墓)があるはずである。
『市史』には博高の「墓地は犬山丸山の妙感寺。なぜか妻女の墓は枝町の本光寺にある」と書かれている。つまりこの記述によれば、本来の墓も妙感寺にある、とも読めるのだが、どこを探しても博高のもうひとつの墓は妙感寺にはないのである。さらにこの「東蒙先生之墓」の銘にも「葬犬山城東妙感寺後山」と書かれていることからして、この「葬」られた墓が本来の墓のことを記しているとすれば、その墓は現在どこかへ移ってしまったと考えるしかないであろう。
そんなわけで、『市史』に「なぜか妻女の墓」があると記された本光寺へ行ってみることにしたのである。
(2)へ
8_20220526003302
8代(侍医6世)鈴木博高(鈴木東蒙)の墓  2022/5/23
銘は「東蒙先生之墓」。なお墓の正面は犬山城の方角を向く
ように建っている。碑銘の没年月日は天明四年四月十四日。
妙感寺には、この墓の隣に鈴木家の分家の墓が幾つかある。

| | コメント (0)

2022年8月18日 (木)

鈴木寂翁と先聖寺

石釣てつぼみたる梅折しけり 玄察 『阿羅野』

2018年1月に丈草関連で「先聖寺」の記事(→①→②)を書いたが、約4年あまりを経ての、ある意味その補足のつもりで継ぎ足す。したがって前記事①や②で記したことは繰り返さない。

先聖寺について調べたとき、江戸期に書かれたものや市橋鐸さんの著作以外に『犬山市史 別巻』(民俗 文化財)も見てはいたが、あらためて先日図書館で読み直してみた。
その第二章には、寂翁のほかに鈴木家に関わる人物は鐸さんを含め6人が掲載されている。これからしばらくは彼らの掃苔の記事を書いてみたいと思う。この別巻が成ったのは昭和60年であるから、以来すでに37年の時間が過ぎており(昨年から新しい市史編纂の動きも始まっているみたいだが)、事実にそぐわない記述もあり、訂正すべき事項もあるように思う(とくに墓の異動等については次回以降に記す)。

この別巻の第二章「人物」に「鈴木寂翁」(297~298頁)の記述がある。彼が開いた天神庵のあった所に現在の「先聖寺」が移ってきたことは前にも触れたが、もともとこの寺は魚屋町の「熊野神社」の東あたりにあったのである。
鈴木寂翁は犬山城主成瀬家の侍医第一世である(鈴木家としては第三世、以後代々「玄察」や「玄道」と名乗る)。いうまでもなく彼は鈴木鐸麿(市橋鐸)さんの遠い先祖にあたる人物である。『市史』には彼の忠僕についての興味深い逸話が記してある。

この春に久しぶりに先聖寺へ行ってみた。前回の記事では写真を省略した「天満宮」(元は天神庵)が本堂の北側にある。
Dsc09073
天満宮の西側に墓地がある。下の写真は「開基塔」(珪化木?)だが、寂翁や丈草が慕った開基の玉堂和尚の墓ということになるのだろうか。
Dsc09093
鈴木寂翁の墓は、歴代住持のものと並んで建っている(碑銘が読み取りにくいのでモノクロにしてある)。
   3_20220524234601
碑銘は「天神庵開基寂翁為和尚塔」、没年は元禄9(1696)年2月13日。訪れたのは5月下旬だったが、まだ竹の秋が続いているのか墓地全体が竹落葉で覆われ、葉がさらに風に乗って次々と降り注ぐ午後のことであった。

市橋さんは寂翁(玄察)が、『阿羅野』(芭蕉七部集)にその名「玄察」として句が掲載されている人物のことだろうと述べており、『市史』にもそのことを記し、三句が紹介されている。ちなみに『貞門談林俳人大観』や『元禄時代俳人大観』などで調べてみると、「玄察」の名がある俳書は『阿羅野』以外にも数点あるようだが、それが寂翁と同一人物なのかどうか勿論俄にはわからない。

先聖寺を出た後、そのまま本町通りに入り、さらに北へ進んで城方面に向かった。たしか鈴木家の宅址があったはずだ。(次回へ)

参考:
『犬山市史 別巻』(民俗 文化財) 昭和60年
『人間丈艸』(既出) 
『犬山市資料 2』(既出)
『元禄時代俳人大観』
 雲英末雄 編  八木書店 1~3巻 2011~12年
『貞門談林俳人大観』
 今栄蔵 編  中央大学出版部 平成元年

| | コメント (0)

2022年8月15日 (月)

犬山の空襲(4)

(承前)
岐阜空襲や名古屋空襲などは以前に少し調べたことがあった。しかし自分が住んでいる場所からそう遠くないところにある身近な施設が、戦時中に米軍側の攻撃すべき対象としてリストアップされ、何度も攻撃を受けていたという事実は全く知らなかったのである。
もちろん大規模な施設ではないし、ここだけを攻撃目標にして空襲したわけではなかっただろうが、犬山変電所への第1回目の攻撃のあった1945年6月9日には、市民の体験談にあるように今の犬山市に該当する地域が機銃による攻撃を受け、けが人があったり火災も起きていた。

このちょうど1か月後の7月9日深夜から10日にかけて岐阜空襲があり、米軍機の焼夷弾は父の実家を焼失させた。そして当時郡上八幡で働いていた17歳の母(となるひと)はその空襲の夜、近所のどよめきに目が覚め宿舎の外へ飛び出した。「真っ赤に染まった南の空を眺めながら体が震えたんだよ」と母は幾度も話をしてくれたのだった。
きのう久しぶりに変電所の周囲を散歩しながら、そんな母の話を思い出していた。
55dsc04439_20220815100101

| | コメント (0)

2022年8月13日 (土)

犬山の空襲(3)

(承前)
米軍の攻撃目標とされた犬山変電所は、木曽川水系で発電された電力を名古屋地区だけでなく、むしろ関西地区へ供給する重要な役割をもっており、その送電ラインは当時も現在も大阪の変電所(八尾など)へつながっている(なお八尾変電所のある八尾市は度々空襲を受けており、2013年には変電所で戦時中の不発弾が発見されている)。その意味で愛知県内の幾つかの電力施設のなかでも、犬山変電所は米軍にとって戦略上重要な場所のひとつであった。

犬山変電所への攻撃について知るため、USSBS(米国戦略爆撃調査団)の報告書の一部を眺めてみた。電力関係の専門用語が多く出てくるので正確に解釈できない箇所も多いが、概略は理解できる。
その資料は以下のAとBの二つである(どれも国会図書館のデジタル資料として簡単に閲覧できる)。

The Report for Damages  by Air Force at Inuyama Sub-station
 (October 1945 Inuyama Substation)
この資料は英文手書きで、用紙は「日本發送電株式會社」の文字が入っている。犬山変電所への4回の攻撃毎の損害状況、1942~1945年の電力供給推移のグラフ が記されている。米軍側が現地で聞き取りした際の一次資料であろう。 

USSBS THE ELECTRIC POWER INDUSTRY OF JAPAN
 (Plant Report)
 〈Erectric Power Division Dates of
 Survey 9 October--3 December 1945

  Date of Publication:May 1947〉 
これは米軍の爆撃・攻撃が日本全国の火力および水力発電施設や変電所へ与えた損害などに関する最終的な報告書である。犬山変電所の状況(解説は131~132頁、表と写真は137~140頁)についてもA資料をもとに整理され、わかりやすくまとめられている。

犬山変電所への米軍機による攻撃は、両資料によると以下の4回(4日)であった。いずれも1945(昭和20)年6月から8月であり、7月30日には機銃だけでなく爆撃もあったという。

①6月9日午後12時56分:1機のP-51による機銃攻撃
②7月15日午後1時05分:2機のP-51による機銃攻撃
③7月30日午前7時35分:4機のP-51による爆弾投下と機銃攻撃
④8月14日午後12時53分:2機のP-51による機銃攻撃

①、②、④は、犬山変電所を攻撃した戦闘機の正式な報告・記録は無いとのことであるが、たとえばB-29の掩護機としての硫黄島のP-51が帰還航程で行った攻撃、あるいはP-51の戦隊のみで行った各務原や名古屋周辺への攻撃の一環だった可能性がある。ただし③については、日本側の現場職員からの聞き取りではP-51(陸軍機)と報告されたのだが、実はそうではなく海軍機(艦載機)だった可能性を示唆している。理由は当日名古屋周辺の4箇所に攻撃を行った海軍機の記録があったためである。
下は、B資料の140頁にある犬山変電所の写真である。木枠に砂を入れた「防爆壁」が変圧器等の周りに設置されており、変電所としても米軍の攻撃から施設を守るための対策をしていたことがわかる。
Inuya1947-10-13usam550178
これら二つの報告書には、機銃攻撃などによって施設にどのような損害があったのかが攻撃の日毎に詳しく調査されているが、すべてを記すのは煩雑になるので、一例として①の攻撃の被害だけをみる。この日は前々回(1)の記述にもあったように、現在の犬山市に該当する何箇所かの地域で銃撃による損害が出ていた日である。

①1945年6月9日午後12時56分攻撃。1機のP-51の機銃による損害。
〇1次被害:送電線2本の断線、東側変電所の壁・戸・窓に計15カ所の弾孔(壁の弾痕は22カ所)、変圧器1器損害、変流器1器に1弾孔
〇2次被害:変圧器1器(高電圧による短絡〈ショート〉)

これら被害の聞き取りをされた変電所職員は、攻撃のあった日毎に細かな被害状況を記録していたのであろうが、とくに弾痕や弾孔の数までもが記録されていたことに少々驚いたのである。
4回の攻撃全体をみると、施設の各箇所に毎回損害を与えてはいるが、変電所全体を壊滅的に破壊するほどのものはなかった。しかし4回目の8月14日の攻撃の結果、主変圧器を修理する必要が出たため、東側の変電所施設は機能停止となったという。
なお報告書では、機器や施設の損害は記録されているが、職員などの人的被害についてはとくに何も記されていない。
次回(4)は最終回。

| | コメント (0)

2022年8月 3日 (水)

犬山の空襲(2)

(承前)
Photo_20221009234701
上は米軍の資料「空襲目標情報」(Target location sheet)にある犬山変電所の航空写真(大小2つのスケール)である(出典::Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 47, Security-Classified Joint Target Group Air Target Analyses, 1944-1945 = 米国戦略爆撃調査団文書 ; 空襲目標情報 123コマ目)。

現在の地図で確認する(拡大縮小可)。

空襲当時の施設名は、米軍資料では「日本發送電株式会社(1939-1951)犬山変電所」であったが、現在は「関西電力送配電株式会社犬山送電センター」である。なお地図を拡大するとわかるが、隣接して西側に「中部電力パワーグリッド羽黒変電所」が併設されている(長野・岐阜の木曽川本流の発電用水利権は長野県内の支流も含めすべて関西電力が持っている)。
さらに、敗戦後すぐではないが、1947年に米軍が撮影した犬山上空からの写真(トリミング加工したもの)も下に載せておく(拡大可)。現在と違い、とくに変電所近くの西側や北側には集落が無く、田園地帯が広がっていることがわかる。(写真は国土地理院航空写真:米軍撮影昭和22年10月13日 19471013USA-M550-1-78 をトリミング加工したもの。)

Substation1947-10-13usam550178

次の写真には、変電所とともに右端後方に尾張富士が写っている。

Photoussbs-electric-power-industry-of-ja
この写真は敗戦後間もない頃(1945年末か)の犬山変電所であり、これを含む何枚かの写真は、「米国戦略爆撃調査団(USSBS)の報告書」のひとつ『Electric Power Industry of Japan』(1947年5月)に掲載されている。
このUSSBSの調査期間は1945年10月から12月であり、報告書は、日本の発電および電力供給施設について、戦争中に米軍による攻撃がどのような効果・損害をもたらしたかをまとめたものだった。
次回以降、上記報告書も含め幾つかの米軍資料をもとに、当時の犬山変電所への4回にわたる米軍攻撃の概略をみることにする。

なお下は現在の変電所の写真。撮影の高さは違うが、右端に尾張富士が写っているので上掲米軍写真と比較できる。
2022年8月3日撮影(犬山市立東小学校南の農道より)
55p1030415

| | コメント (0)

«犬山の空襲(1)