2023年6月 4日 (日)

良寛の里

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 出雲崎:良寛堂(生家橘屋跡地)の良寛像 20230510

五月中旬三泊四日で良寛や貞心尼ゆかりの地をひとりで巡りました。
道の駅や史料館などに車を置き、歩きながら、ときには車載の折り畳みミニベロで動き回り、柏崎、出雲崎、寺泊、分水(国上山・五合庵)、与板そして遷化の地の和島など、良寛や貞心尼の足跡を辿りました。
事前にわかってはいましたが、寺社、公園などに良寛の詩碑や彼の像がとても多いことにあらためて驚きました。さらに良寛の遺墨を展示する記念館(史料館・美術館)が何か所もあり、まさに良寛の里と呼ぶにふさわしいところばかりでした。

以下、旅したなかで印象的だったことを幾つか。

四日間とも晴天に恵まれたことは幸いでした。現地に行ってはじめてわかったのは、出雲崎、与板、和島では各所を巡るのに自転車がとても役立ったことでした。道を尋ねることが何度もあったのですが、歩きよりなぜか自転車だと気軽にひとに声をかけることができて移動の手段としては最善だったと思います。
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 良寛堂:良寛像はこの堂の向こう側にある。

あるお寺さんで碑の写真を撮っていると、清掃中にもかかわらずお庫裏さんが良寛詩碑の解説資料をわざわざ探して持ってきていただいたり、今年は雪が少なかったのに春先の重い雪で裏山の桜の木が倒壊した話など、お寺を維持する苦労話なども聞くことができました。道中でお話しできたどの方もやさしい目をしておられたのが印象的で、ひょっとしたら良寛が接していた当時のひとびとの末裔の方もおられたのではないかとさえ思いました。また分水良寛史料館では館長さんから遺墨について直接貴重なお話を聞くことができ、よき思い出となりました。

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「鄕本空庵跡」近くの海岸から佐渡島遠望 20230512

海をゆっくり眺めるのはほんとうに何年ぶりかのことでした。でも晴れていても佐渡島はいつも見えるわけではありませんでした。ようやく旅の三日目に寺泊や近くの「鄕本空庵跡」に立ち寄ったときに初めて佐渡島の全貌を遠望できたのですが、山には名残の雪も見えていました。良寛もときおり母が生まれたこの島を眺めていたのでしょう。
その他に海や町並みを眺望できる心に残った場所は、出雲崎の石井神社と良寛記念館側の公園、寺泊の照明寺などでした。けれどもこの海や土地のこと、いや良寛のことをさらに知るためには、実は冬こそ訪れるべき季節かもしれない、そんな思いが頭を過りました。

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守門岳:与板の「楽山苑」から遠望 20230512

訪れたどの所からも北に弥彦山、東に残雪の守門岳が遠望できました。ほとんどの田はすでに田植えが済んでおり、米どころならではの広々とした田園風景が広がっていました。今回の旅の拠点(泊地)は長岡市でしたので、北越戊辰戦争の舞台となった場所に開設された「北越戊辰戦争伝承館」も訪れたのですが、戦禍に巻き込まれた村の様子、戦闘の全貌がわかりやすく展示されており、史料等を館に提供された地元の方の熱意も伝わってきました。

調べてみると良寛の遷化は1831年のことであり、明治維新までそう遠くない時代に彼は生きていたのです。ずいぶん昔の人だと思っていた良寛が急に自分の傍らに座っている気がしてきました。しかも晩年の良寛と深い交わりのあった貞心尼が亡くなったのは明治5年のことでした。Ggdsc08165
 閻魔堂(貞心尼草庵):長岡市福島町  20230509
 ブロンズ像は昨年(2022年)4月に建立されたという。

 

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2023年5月23日 (火)

旅心に誘われて

ひとり旅。四年ぶりの遠出。

先月は二泊三日で越後と北信濃へ、
さらに今月は三泊四日で再び越後の旅に出た。
自家用車で行くが、ミニベロを積み、小さな町も自由気ままに走る。
次は羽前、陸中へ。
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※上信越道から早朝の越後富士(妙高山 20230509)
雪解けがかなりすすんで、あの雪形の「跳ね馬」が・・・
跳ねるネコちゃん、いや耳の小さいウサちゃんかも(゚o゚;



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2023年4月24日 (月)

谷汲街道池野追分②

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(承前)
その追分に行ってみた。
上の写真が前回載せた約70年前の写真とほぼ同じ場所から写した現在の「池野追分」である。櫓は無くなっているが、今は民間のものとなった元派出所の建物の形状がそっくり残っている。たぶんもしこの建物が残っていなければ、父が撮った写真が池野追分であることに気がつくこともなかったかもしれない。電柱や右端の郵便ポストの位置もほぼ同じだ。そして新道沿いには今も多くの店が並んでいる。ちなみに自分の生家があった場所(今は駐車場)はこの追分を右(旧道)に進むと徒歩1分もかからないところにあった。
70年ぶりにこの地を訪ね、生家跡の駐車場を眺めながら、父が書き残してくれていた自分の誕生の日の様子を思い出していた。逆子であることに気づいた産婆さんが医者の立ち会いを求め、父が必死で自転車を駆って病院へ走ったこと、ひどい難産だったことなど。それは梅雨も終わりに近い7月初旬の日曜日夕刻のことだった。

ところで少しつけ足す。
西国三十三所巡りについて調べていたとき、『街道を歩く 西国三十三所』(加藤淳子著  創元社 2003年)を読み、谷汲街道のことに触れた箇所で、明治44年に柳田国男が揖斐の「池野」を通ったことが記されていた。そこに紹介された柳田の文はほぼ要約に近いものだったし、出典も記されていなかったので、最近調べてみたところ、それは『美濃越前往復 -明治四十四年-』だとがわかった。引用する。

「引きかへして根尾川の末を渡り、谷汲寺に詣づ。揖斐の町長及び署長に迎へられ、揖斐の町に行きて休息す。」
と記したあとさらにこう続けている。
「池野の珍しい町を過ぐ。二十年とか前までは原野の道の辻なりしが、追々に家增加して繁華の地となる。もと入會なりし為に、家々の標札軒竝に村を異にすること、越前吉崎よりも甚だし。卽ち家主の出た村に屬することになる也。」

追分の右の道が本来の谷汲街道(旧道)であり、左は新道であるが、明治中頃に新道周辺の開発が進んで多くの商人や人々が各地から集まり、この地域は急激に栄えていったのである。そのことを柳田は短い文章ではあるが的確に記述している。
なお元派出所前の今は無くなった櫓の土台側には、「左いび (ならびに)谷汲新道」の道標(明治27年)が綺麗な姿で立っていた。
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参考:
※池野市場の開発の様子ついては、以下の史料(文献と絵図)をネット上で見ることができる(岐阜県歴史資料館)。
〇「揖斐郡池田村大字池野市街成立書」(翻刻)→★
 (追分にあった元派出所の設立事情も記載)
〇絵図「市場開設前の池野村」→★
〇絵図「市場開設後の池野村」→★
※その他
〇『街道を歩く  西国三十三所』
  加藤淳子著 創元社 2003年
〇『定本柳田国男集 第3巻』
  筑摩書房 1963年
〇『揖斐郡志(全)』昭和61年復刻版
〇『池田町史(通史編)』昭和53年

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2023年4月17日 (月)

谷汲街道池野追分①

今までは親と頼みし笈摺を
脱ぎて納むる美濃の谷汲   
 御詠歌
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数年前、父のもっていた写真類を整理していたとき、自分が生まれたときに家族が2年ほど住んでいた官舎のネガフィルムを見つけた。ネガの付箋には昭和28年夏頃と記してあったが、生家といっても、物心がつく前に父の転勤で家族は飛騨高山へ移ってしまったから、家の記憶もないし、住所の揖斐郡「温知村」(昭和25~29年)という名称も今はもう使われていない。
ただしこちらの写真(↓)は父のアルバムに貼ってあり、見るたびに父は「お前が生まれた家のすぐ近くの写真だ」と話してくれたことがあった。けれども写真の正確な場所がどこなのかといったことはこれまで全く関心がなかったし、調べようという気もなかった。

ところが最近になって「西国三十三所」満願の寺「谷汲山華厳寺」について調べていたところ、「谷汲巡礼街道」の資料やその街道に関する情報を載せたサイト上に、「谷汲街道池野追分」といわれる場所のことが記されていた。そしてその追分を撮った最近の写真をよく見ると、特徴的な中央の建物の形は、父が約70年前に写した下の写真と全く同じであることに驚いたのである。

写真を拡大してみると、道路を跨いでいる看板に「揖斐地区警察署温知警部補派出所」と記してあることがわかった。
正面の建物が派出所で、左が明治時代に整備された「谷汲新道」、右が本来の「谷汲道」である。なお「温知村」は昭和25年から29年まであった地名で、「温故知新」を校名に取り入れた地元の「温知小学校」に因んでいる。

この追分は今どうなっているのかこの目で一度確かめてみたいと思い、年が明けてから早速出かけたのである。ついでに自分の生家の場所はどこなのかも・・・。
(次回②へ)
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谷汲(巡礼)街道池野追分
(撮影:約70年前の昭和28年、あるいは29年頃の夏か)

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2023年4月 1日 (土)

寄残花恋

ここ数日、伊吹山に落ちるお天道様の動きを追う。
若葉がくれに散りとどまる花を惜しみつつ。
花に寄する恋、残れる花に寄する恋、
花といえば、やはり西行。

   寄花恋
花を見る心はよそに隔たりて身につきたるは君がおもかげ
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   寄残花恋
葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する
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〇写真 上:28/Mar.  下:31/Mar.
    Medium GND 0.9使用。
〇出典
『山家集』 新潮日本古典集成(第49回)
 校注:後藤重郎 昭和57年

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2023年3月29日 (水)

火とぼしころを

ひと恋し火とぼしころをさくらちる 加舎白雄

さて、きのうもきょうも空が焼けた。
10分足らずの出来事だった。
夕闇深まるなか、風は収まったけれど、
閑かに桜花は謝す。
そして遠く東に住むひとのことを想う。
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上 18:14   下 18:22   29/Mar./2023 
犬山成田山

加舎白雄は信州上田藩松平家の深川抱屋敷で上田藩士加舎家次男として出生。蕉風復興に力を注ぎ、蕪村とならび俳諧中興の祖の一人(1738~1791)。「ひと恋し・・・」の句碑を墨田区の白鬚神社で見たことがある。また信州上田城跡公園にも句碑があるらしい。

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2023年3月10日 (金)

落日犬山城

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        犬山成田山より(17:46 10/Mar./2023)

この季節になると日の入り時の犬山城を撮影するひとが増え、桜が咲くころまで続く。今日は撮影者の集まるところからは少々離れて写してみた。
半年後の9月ごろの夕陽も美しいが、秋の満月が犬山城へ沈む月の入りも趣がある。

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2023年3月 6日 (月)

呑水(5)

(承前)
承前といっても、「呑水」のことを記事にしたのは半年以上も前のこと。今さらという気もするが、中途半端は嫌なので書き足しておく。
振り返ると、『犬山市史』の「呑水」について書かれた林輝夫の文章のことから始め、彼が『艸ほこ』(呑水)の翻刻をしたことや美濃加茂の俳誌『自在』を主宰していた西田兼三との交流のことなど、幾つかの事柄(断片的事実)を繋ぎ合わせながら記事にしていたのだが、肝心の呑水そのひとについては(2)で墓碑や生涯などについて軽く触れただけだった。

まだあまり触れていなかった彼の句や『艸ほこ』、そして追悼集『蓮の実』のことについて最後に少し記しておく。

〇彼の句。
前に記したものを含め、あらためてそのいくつかを見る。

梅散るや浅黄布子の洗ひ時   「矢矧堤」

手のひらで雨をしる夜の水鶏哉 「菊の香」

朝経にまけじまけじと蝉の声  「砂川」

鬼松の影やはらりと夏の月   「東華集」

人気なき雨の匂いや梅山椒   「渡鳥集」

 辞世
蓮の実の十方にとんであそびけり

意味のよくとれない句も多いなかで、自分にとって比較的わかりやすい句だけを少し拾ってみたが、もちろん句を評することなど自分にはできない。ただし名古屋の情妙寺で碑になっている「手のひらで」の句は気に入っている。

〇彼のいくつかの文章を集めた『艸ほこ』。
林がその一部「蜂屋へ紀行」を翻刻した『艸ほこ』には、他に内津(今の春日井市内津)への旅(遠足)や丈草から届いた手紙などが記されている。しかし翻刻できるような力は自分にはないので、いったい何が書かれているのかは今のところほとんどわからない。

〇呑水の追悼集『蓮の実』。
国文学研究資料館からその写しを送ってもらった。「序」が楚竹、「封塚辞」は犬山妙感寺の日長、「跋」は犬山出身の馬州が書いている。
二つ目の日長の文章には、呑水の遺言として「骨は源頂山におさめ、生前の抜歯を一翁山に贈るべし」と記している。したがって以前の(2)にある碑の写真のように、かつて住持であった犬山の一翁山妙感寺には「歯塚」が建てられたのである(馬州の跋では、呑水の「朝起の癖」にまつわる思い出話が書いてあった)。なお作句者をみると、地元尾張だけでなく近江、飛騨、伊勢、さらには奥州や九州のひともいる。僧侶であり俳人でもあった呑水の人柄を慕うひとはずいぶん多かったのだろうと思う。

それにしても気になるのは、『艸ほこ』に収められている呑水宛ての丈草の手紙である。

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    呑水(遠光院日陽聖人)の歯塚背面 
     [犬山・一翁山妙感寺 2022年]

参考:
〇なぎの舎随筆Ⅰ
「尾北俳諧覚え書」市橋鐸 私家版 昭和45年
〇『蓮の実』 呑水追善 楚竹編 享保十四年
〇『矢矧堤』については
『新編岡崎市史 13近世学芸』の翻刻参照
〇他の参考図書は「呑水(2)」に記した。

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2023年1月 4日 (水)

烏瓜

くれなゐもかくてはさびし烏瓜 蓼太

さかりゆくひとは追はずよ烏瓜 鈴木しづ子
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                      犬山市高根洞 3/Jan./2023

きのう入鹿池から本宮山に登り、下るときは大縣神社へ出る道を選んだ。神社が近くなってきたころ、冬の木々や枯れ草ばかりの藪の奥にふと目を遣ると、「おい! 見てくれよ」とばかりに三つほどの実がぶらさがっていた。
持っているどの歳時記も「烏瓜」は晩秋の季語、そして「烏瓜の花」は晩夏の季語となっている。日没後に咲き朝には萎むというその花をこれまで実際に見たことがないので、今年の夏には是非どこかで。

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2022年11月11日 (金)

#スワイチ

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*岡谷市湊町の遊歩道から八ヶ岳方面を遠望。2022/11/10

きのうひとりでミニベロに乗り諏訪湖を一周してみました。約16㎞。諏訪湖にはこれまで何度も来たことがありますが、自転車で一周するのは初めて。起伏がないので自分のような老いた身でも一気に2周ぐらいはできそうでした。
朝6時に自宅を出て中央道を約2時間半。おもえばこんなに遠出するなんて3年ぶり。深夜長野県には濃霧注意報が出ていて、伊那谷から諏訪湖までほとんど霧の中のドライブでした。
「石彫公園」に着いたのは9時頃、霧もようやく晴れて気温は4℃。でも風がなくて清々しい。園内には多くの彫刻があってしばし散策。左は最初わからなかったけれどリンゴですね。
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9時半出発。反時計回りで一周することにしました。
サイクリングロードはかなり充実していましたが、現在も整備中のところがあって何箇所か工事中でした。
「#スワイチ」認定証をもらうためには指定3箇所に立ち寄り写真撮影をする必要があります。自転車だけでなく歩いても走っても可です。
左は最初の指定地「諏訪湖間欠泉センター(諏訪市・湖畔公園)」。間欠泉は今年になってから出なくなっているようですが、今日は湯気が立ちのぼっていました。右は2番目の「富士山と諏訪湖の眺望ポイント(下諏訪町・みずべ公園)」。逆光でしかもまだ霧の影響もあって南西方面は霞んではいましたが、その輪郭はなんとか。このあたりのロードは整備中でした。
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日帰り予定なので立ち寄るとすれば公園だけと決めていました。
湖畔北側の「赤砂崎公園(下諏訪町)」の「丘の輪」では、数日に分けて歩いて諏訪湖一周をチャレンジしている旅行中の年配の方々と楽しいおしゃべりができました。

#ビワイチ3番目の指定箇所は「寒の土用丑の日」発祥の地記念碑(岡谷市・岡谷湖畔公園)。探すのにすこし苦労しましたが、天竜川起点の釜口水門すぐ近くにありました。ウナギは冬こそ旬だとか。
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水門からの眺望。風が弱く、湖面が秋空を映して美しい。
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釜口水門を離れ、湖の西側湖畔(岡谷市湊町)を走ります。ちょうど太陽の方角の関係で東側の山々が日に映えて美しい眺めが続き、枯れ葉舞うなかを歩いたり(冒頭写真)、満天星(ドウダンツツジ)が植えてある辺りではしばしば立ち止まりました。
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午後2時前には出発点の石彫公園に帰り、すぐJR上諏訪駅の観光案内所へ立ち寄って認定証と缶バッジをもらいました。
次はハマイチかビワイチ。ビワイチは一周約200㎞もあるので2年計画になるかも。

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2022年10月 6日 (木)

木曽川夕照

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きのう岐阜の実家へ掃除に行った帰りの夕方、曇り空だったのが一転して西の一部の空が晴れてきたので急いで成田山に寄りました。空の大半はまだ厚い雲に覆われていましたが、ひょっとして焼けるかもしれないと思ったのです。
15分ほどの短い時間でしたが、なにより夕照木曽川の川面が美しく、伊木山を挟んで上流も下流も茜色に染まった川の景色をこれまで見たことがなかった気がします。
城と伊吹山が近づいて見える大師堂付近の階段に移動した頃には、すでに雲が暗くなり始め、茜色の空は次第に鈴鹿山脈の方へと移っていきました。
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2022年10月 5日 (水)

明治村のキンモクセイ

木犀に人を思ひて徘徊す  尾崎放哉

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先日明治村住民登録(年間パスポート)更新のために入村。
前回の入村は真夏だったのですが、今はもうキンモクセイの季節(でも訪れたときはすでに花の終わり)でした。そんなわけで今回は明治村のキンモクセイ巡りをした結果をメモしておきます。

自分にとってもっとも印象的な明治村のキンモクセイは4丁目の「半田東湯」前(上掲写真)に立っています。でもおそらく誰もが目を向けるのは5丁目の「金沢監獄正門」脇(↓)にあるキンモクセイかもしれません。きょうもその側を通る大半のひとが立ち止まって見つめていました。
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明治村の他の地区よりも北口に近い5丁目にはキンモクセイが多く植えられているような気がしました。北口から「帝国ホテル中央玄関」へ到る道沿い、そして「金沢監獄中央看守所」周辺の庭(↓)などには特に多く見られます。
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なかでも「高田小熊写真館」前(↓)に並ぶ二本は印象的です。
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4丁目では上で紹介した「半田東湯」以外に「工部省品川硝子製造所」前にも植えられています。さらに4丁目の「休憩所」から3丁目に入る道沿いのガス灯付近(「台場鼻潮流信号機」近く)や「神戸山手西洋人住居」の周囲にも何本か植えられています。
1丁目では「西郷從道邸」西側庭の奥、「日本庭園」入口、そして「大井牛肉店」の裏などに見られます。

今回キンモクセイだけを探して村内を回りましたが、かなり多くの場所にあることは意外でした。キンモクセイが香る時期が短く、ふだんは木の存在すらほとんど気にかけていなかったからでしょうか。
他にも桜や椿など、村の植栽地図を明治村で作っていただけないかなと思ったりしました。建物だけでなく樹木も大切な展示物だと思いますので。

閉村時間が近づき、最後はキンモクセイ越しの帝国ホテル中央玄関に別れを告げて北口へと急行。
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*建物の位置関係は、明治村HPにある「村内地図(PDF)」参照。

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2022年9月25日 (日)

From 1880 to 2021

@NASAVizの映像資料から
とりわけこの約30年間の変化の凄まじさに驚く。

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2022年9月 9日 (金)

竹の春

サイクリング途上で、ふと見上げる「ゆきあひのそら」。
空に秋の気配はあれど、まだまだ残暑の日々。
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夏雲に盛夏の頃のちからはもうなくなっている。

しばらく走って竹林の前で水分補給。
思う、そういえば今日は重陽節供(句)の日。

菊の香にくらがり登る節句かな

元禄七年九月九日、芭蕉は暗峠を越えた。
今の暦でいえば10月27日だという。秋も深まりつつあるころだ。
そのひと月後には帰らぬひととなった。
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竹林:一宮市浅井町(木曽三川公園) サイクリング道にて 
   9/Sept./2022

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2022年9月 6日 (火)

鈴木文拙と鈴木裕三

(承前)
話の流れでいえば、次に市橋鐸麿(鐸)を扱うべきだが、彼についてはいつかまた触れる。
これまで『市史』に紹介されている鈴木家7人(市橋を除き6人)について、現在の墓碑の様子などを見てきたが、ひとまず今回で終わる。

鈴木家の分家について。
江戸時代のおわり、10代玄道(維馨)のあとに鈴木文察が分家を興している。文察も本家同様成瀬家の家医であった。鈴木文拙は文察の嫡男として文政7(1824)年に名古屋で生まれた。名は鐸。
地元での学問修業だけでなく上洛して蘭方や漢学を学んだ。1850年に名古屋に戻って文拙と名乗り家業を継ぎ、維新後は犬山(高見町)に帰って医業だけでなく教育にも力を入れ人々から慕われた。明治30(1898)年に78歳で没したが、その遺徳を偲び記念碑が明治37年に建てられている。

妙感寺にある墓(左写真)。碑銘は「沈蔵坊文拙俟庵醫(医)士」。
針綱神社に建てられた記念碑「鈴木文拙先生紀年之碑」(右写真)。
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文拙の嗣子として明治元(1868)年に名古屋に生まれたのが鈴木裕三である。海軍軍医として活躍し、舞鶴海軍病院長 兼 舞鶴鎮守府軍医長、呉海軍病院長 兼 呉鎮軍医長、さらに軍医総監、海軍軍医学校校長、海軍省医務局長など要職を歴任し、大正14(1925)年8月8日、54歳で没した。海軍軍医中将。
東京多磨霊園墓地に墓があるが、犬山に眠る父文拙の墓の横にも遺骨が葬られている(妙感寺・鈴木家累代之墓)。


鈴木寂翁から今回の鈴木文拙・鈴木裕三までの6回分
で参考にした文献

〇『犬山市史』別巻 文化財 民俗 昭和60年
〇『尾張国丹羽郡犬山鈴木家文書解題
 この解題は下記の文書(201~204頁)にある。
  国文学研究資料館 資料目録第92集 
  愛知県下諸家文書目録(その1)平成23年
  *国文学研究資料館データベースのURL→★
〇その他に人名辞典などを参照したが書名は省略する。  

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2022年9月 5日 (月)

鈴木敏也

(承前)
本光寺にある鈴木家本家の墓群に第14代鈴木敏也(1888-1945)の墓がある。戒名は「文香院梛居敏也大居士」。墓石の背面に弟の市橋鐸麿(鐸)が兄のために顕彰の碑文を書いている。

居士は尾張犬山の医家に生れて国文学に志し東京帝大に学び廣島高師同文理科大学教授となり近世文学の探究に生涯を捧ぐ 原爆投下の晩冬学長に就任せしも宿痾のため任地に逝く 主著を近世日本小説史二巻となす 
昭和丁酉之冬 家弟 市橋鐸撰併書

なお文中「学長に就任せしも」とあるが、原爆投下後しばらくの間は大学の機能が事実上停止しており、役職は学長事務取扱であった。
『市史』の敏也の項目には、医師となるべき運命を背負いつつも、教師や級友の力を借りて父親を説得し国文学科へすすんだことが記されている。3代寂翁以来の医家としての鈴木家の系譜は、敏也にも、そして弟の鐸麿にも引き継がれることはなかったのである。

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本光寺の鈴木家墓群にある鈴木敏也の墓。
昭和20年12月9日没。60歳。



 

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2022年9月 3日 (土)

鈴木玄道(豊)

(承前)
さて、このブログに取り上げる『市史』に記された鈴木家の7人は、系図上どこにいるのかを簡単に確認する。
没年による時代(世紀)区分でまとめる。

17世紀 初代一閑→2代一翁3代寂翁(玄察)
18世紀 4代卜仙→5代可節→6代玄道(直)
     →7代玄道(政方)8代玄道(博高/東蒙)
19世紀 9代玄道(恒久)→10代玄道(維馨)
     →11代玄道(凞)12代玄道(豊)
20世紀 13代光雄14代敏也→以下略

14代敏也の弟が丈草研究で知られる鐸麿(市橋鐸)であるが、医家としての鈴木家は3代から13代までであったという。
なお10代玄道(維馨)の子の代に分家した鈴木玄察、子の鈴木文拙、孫の鈴木裕三がいるが、この系譜はあとで詳しくみる。

『市史』に記された鈴木家の3人目は12代玄道(豊)である。
本町通りを城に向かって進むと旧福祉会館跡手前(交差点南西)に鈴木家の邸宅がある。庭(今は駐車場)の一隅には「鈴木玄道宅跡(本町)」と記された小さな立て看板があるが、
看板の説明はやや不親切であり、ここに記された玄道は12代玄道(豊)[没年明治11年]のことである。
若い頃は名古屋、江戸などへ遊学して医学、儒学、蘭学を学び、医業の傍ら村瀬太乙の前任となる敬道館教授も兼任した。明治になってからは一般の町人にも治療を施し、人望を集めたという。
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鈴木玄道宅跡とされている場所にある現在の邸宅。
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玄道(豊)の墓は夫婦墓として本光寺の鈴木家の墓群にある。
碑銘「紀水院韭(韮)郷日豊居士」。明治11年11月12日没55歳。
なお豊は妻に早く死別している。後妻を娶らず娘と二人暮らしであったが、養子を貰って家督を継がせた。
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また犬山城内には七周忌の秋に門下のひとたちによって記念碑が建てられた。この記念碑題字は成瀬家9代正肥(まさみつ)である。碑には彼の経歴や遺詩もあるが、漢文調の文章を解する力は自分にはない。ただし気になったのは文末に記された碑文の作者のことである。
鈴木鐸文拙謹撰 堀野宏良平肅書」とある。「鈴木鐸文拙」とは、分家2代目の鈴木文拙であり、その名はであった。彼のことも『市史』に詳しく紹介されている。
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次回は玄道(豊)の孫である鈴木敏也市橋鐸麿についてみる。


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2022年9月 1日 (木)

鈴木東蒙(2)

(承前)
さて本光寺にやって来たものの、寺は無住となっているようだ。それもかなり長い前からのようにみえる。犬山の、それも中心部にある寺のひとつがこうした状況になっていることに驚き、無常を説く『方丈記』の冒頭の件を思い起こす。ただしこの5月に訪れたときには、全てではないが、墓前の花がまだ新しいものは多かった。

寺の西側にある門から入ると「妙見堂」(成瀬家の家老千葉氏が建てたもの)がある。さらに進むと南面している一群の墓(↓写真)があって、そこに博高(東蒙)らの墓がある(さらに右奥(南側)へ入ってゆくと鈴木家本家の墓群がある)。
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上写真の左から3基目が博高の墓で、碑銘は「灌雪齋博高日徵居士」(天明4〈1784〉年4月14日没50歳)。その左隣は妻のものと思われる。もし『市史』の記述が正しいとすると、いつのことかは不明だが博高の墓は妙感寺から本光寺へ移されたということになる。鈴木家本家の墓群とは少し離れたところにあるところからすると、そう考えることもできるが、あくまで推測である。とにかく現在のところ彼の墓は妻の墓と同じ「本光寺」にある(2022年現在)。
なお博高の墓の右隣に碑銘「觀解院了菴日奘居士」の墓、その右隣には彼の妻のものと思われる墓がある。この「了菴」とは実は博高の父であり、鈴木家6代の玄道(直)のことである。父親の墓も子の博高と同じく、本家の墓群から離れたところにあるのは不思議である。ひょっとすると父親の墓も本来は妙感寺にあったのかもしれないなどと考えてしまう。『市史』に博高の妻の墓が本光寺にあることが「なぜか」と書いてあるが、たしかに謎は深まるばかりである。
鈴木家に関する『市史』の記述は末裔である市橋鐸さんが書いたものと思われる。自分の祖先の墓の所在についても承知していたはずであるから、博高の墓が妻と同様にもとから本光寺にあったとすれば、それを見逃すはずはないとおもうのだが・・・。
いずれにせよ、8代鈴木博高には、本来の墓(本光寺に現存)、そして友人・弟子が建てた墓(妙感寺の東蒙先生之墓)、このふたつの墓があることだけは確認できた。

ところで博高は父6代玄道「直」の三男であり、本来家督を継ぐ立場にはなかった。しかし8代を継いだ事情について『犬山市史』は次のように記している。

三男に生まれて長男が若死、その嗣子はいまだ生まれず、次兄が他家をおかしているため家を嗣ぎ、そのため年若くして、兄の嗣子に世を譲ったという数奇な運命を背負った。
『犬山市史』(別巻 民俗 文化財)321頁

少々意をつかめない部分もあるが、要約すれば、長男である兄の若死によって急遽鈴木家の跡継ぎになったものの、すぐ兄(長男?)の子に世を譲ることになったということだろう。いわばピンチヒッターとして鈴木家の断絶を救ったわけである。
『市史』には『先人詩抄』に収録されている彼の詩が紹介されているし、あるいは「妙感寺」の墓の碑銘などを見ると、詩人として活躍したことは窺い知れるものの、それ以外の彼の人生の詳細を知る術はない。

次回は『市史』に記された鈴木家7人のうち3人目にあたる第12代「鈴木玄道(豊)」についてみる。

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本光寺の8代玄道[鈴木博高(東蒙)]の墓。
碑銘は「灌雪齋博高日徵居士」
天明4(1784)年4月14日没 50歳
2022年5月23日撮影

 

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2022年8月31日 (水)

鈴木東蒙(1)

(承前)
さて、先聖寺を出て本町通りに入り「鈴木玄道宅跡」へ行く予定だったが、その前に寂翁の子孫たちの墓を見ておくことにした。

鈴木家代々の墓はほとんどが枝町の「本光寺」にあるのだが、実は鈴木家は、たぶん19世紀前半に分家ができて、その子孫が「妙感寺」に墓をもっているのである。ところが調べてみたところ、実はこれら両方の寺にそれぞれ墓をもっている鈴木家本家のひとがいるのである。それは8代玄道、侍医6世の鈴木博高即ち東蒙である。[ただしそもそも鈴木家の分家が立ったのは、博高の2代後のことであって、博高の代にはまだ妙感寺に分家の墓はなかったと考えられる。]

鈴木博高(東蒙)は『市史』によれば侍医のかたわら松平君山(儒者、尾張藩士・書物奉行等)門下の詩人でもあったという。
博高の友人・門人たちが発起して建てたと思われる墓が「妙感寺」にある。碑銘は「東蒙先生之墓」(↓)とあり、碑の表以外の三面には岡田新川(儒者、尾張藩士)の記した長文の銘が刻され、その前半は前回見た侍医1世だった寂翁以後の鈴木家の系譜が記されている。建立年月は、博高の没した天明4年4月14日から半年後の10月と刻されており、建立者は鈴木恒久(9代玄道)と鈴木維馨(後の10代玄道)連名となっている(なお、『市史』には博高の没した日が4月15日とある)。

この墓は、「先生之墓」とされているから、別に本来の墓(親族が建てた墓)があるはずである。
『市史』には博高の「墓地は犬山丸山の妙感寺。なぜか妻女の墓は枝町の本光寺にある」と書かれている。つまりこの記述によれば、本来の墓も妙感寺にある、とも読めるのだが、どこを探しても博高のもうひとつの墓は妙感寺にはないのである。さらにこの「東蒙先生之墓」の銘にも「葬犬山城東妙感寺後山」と書かれていることからして、この「葬」られた墓が本来の墓のことを記しているとすれば、その墓は現在どこかへ移ってしまったと考えるしかないであろう。
そんなわけで、『市史』に「なぜか妻女の墓」があると記された本光寺へ行ってみることにしたのである。
(2)へ
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8代(侍医6世)鈴木博高(鈴木東蒙)の墓  2022/5/23
銘は「東蒙先生之墓」。なお墓の正面は犬山城の方角を向く
ように建っている。碑銘の没年月日は天明四年四月十四日。
妙感寺には、この墓の隣に鈴木家の分家の墓が幾つかある。

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2022年8月18日 (木)

鈴木寂翁と先聖寺

石釣てつぼみたる梅折しけり 玄察 『阿羅野』

2018年1月に丈草関連で「先聖寺」の記事(→①→②)を書いたが、約4年あまりを経ての、ある意味その補足のつもりで継ぎ足す。したがって前記事①や②で記したことは繰り返さない。

先聖寺について調べたとき、江戸期に書かれたものや市橋鐸さんの著作以外に『犬山市史 別巻』(民俗 文化財)も見てはいたが、あらためて先日図書館で読み直してみた。
その第二章には、寂翁のほかに鈴木家に関わる人物は鐸さんを含め6人が掲載されている。これからしばらくは彼らの掃苔の記事を書いてみたいと思う。この別巻が成ったのは昭和60年であるから、以来すでに37年の時間が過ぎており(昨年から新しい市史編纂の動きも始まっているみたいだが)、事実にそぐわない記述もあり、訂正すべき事項もあるように思う(とくに墓の異動等については次回以降に記す)。

この別巻の第二章「人物」に「鈴木寂翁」(297~298頁)の記述がある。彼が開いた天神庵のあった所に現在の「先聖寺」が移ってきたことは前にも触れたが、もともとこの寺は魚屋町の「熊野神社」の東あたりにあったのである。
鈴木寂翁は犬山城主成瀬家の侍医第一世である(鈴木家としては第三世、以後代々「玄察」や「玄道」と名乗る)。いうまでもなく彼は鈴木鐸麿(市橋鐸)さんの遠い先祖にあたる人物である。『市史』には彼の忠僕についての興味深い逸話が記してある。

この春に久しぶりに先聖寺へ行ってみた。前回の記事では写真を省略した「天満宮」(元は天神庵)が本堂の北側にある。
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天満宮の西側に墓地がある。下の写真は「開基塔」(珪化木?)だが、寂翁や丈草が慕った開基の玉堂和尚の墓ということになるのだろうか。
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鈴木寂翁の墓は、歴代住持のものと並んで建っている(碑銘が読み取りにくいのでモノクロにしてある)。
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碑銘は「天神庵開基寂翁為和尚塔」、没年は元禄9(1696)年2月13日。訪れたのは5月下旬だったが、まだ竹の秋が続いているのか墓地全体が竹落葉で覆われ、葉がさらに風に乗って次々と降り注ぐ午後のことであった。

市橋さんは寂翁(玄察)が、『阿羅野』(芭蕉七部集)にその名「玄察」として句が掲載されている人物のことだろうと述べており、『市史』にもそのことを記し、三句が紹介されている。ちなみに『貞門談林俳人大観』や『元禄時代俳人大観』などで調べてみると、「玄察」の名がある俳書は『阿羅野』以外にも数点あるようだが、それが寂翁と同一人物なのかどうか勿論俄にはわからない。

先聖寺を出た後、そのまま本町通りに入り、さらに北へ進んで城方面に向かった。たしか鈴木家の宅址があったはずだ。(次回へ)

参考:
『犬山市史 別巻』(民俗 文化財) 昭和60年
『人間丈艸』(既出) 
『犬山市資料 2』(既出)
『元禄時代俳人大観』
 雲英末雄 編  八木書店 1~3巻 2011~12年
『貞門談林俳人大観』
 今栄蔵 編  中央大学出版部 平成元年

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2022年8月15日 (月)

犬山の空襲(4)

(承前)
岐阜空襲や名古屋空襲などは以前に少し調べたことがあった。しかし自分が住んでいる場所からそう遠くないところにある身近な施設が、戦時中に米軍側の攻撃すべき対象としてリストアップされ、何度も攻撃を受けていたという事実は全く知らなかったのである。
もちろん大規模な施設ではないし、ここだけを攻撃目標にして空襲したわけではなかっただろうが、犬山変電所への第1回目の攻撃のあった1945年6月9日には、市民の体験談にあるように今の犬山市に該当する地域が機銃による攻撃を受け、けが人があったり火災も起きていた。

このちょうど1か月後の7月9日深夜から10日にかけて岐阜空襲があり、米軍機の焼夷弾は父の実家を焼失させた。そして当時郡上八幡で働いていた17歳の母(となるひと)はその空襲の夜、近所のどよめきに目が覚め宿舎の外へ飛び出した。「真っ赤に染まった南の空を眺めながら体が震えたんだよ」と母は幾度も話をしてくれたのだった。
きのう久しぶりに変電所の周囲を散歩しながら、そんな母の話を思い出していた。
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2022年8月13日 (土)

犬山の空襲(3)

(承前)
米軍の攻撃目標とされた犬山変電所は、木曽川水系で発電された電力を名古屋地区だけでなく、むしろ関西地区へ供給する重要な役割をもっており、その送電ラインは当時も現在も大阪の変電所(八尾など)へつながっている(なお八尾変電所のある八尾市は度々空襲を受けており、2013年には変電所で戦時中の不発弾が発見されている)。その意味で愛知県内の幾つかの電力施設のなかでも、犬山変電所は米軍にとって戦略上重要な場所のひとつであった。

犬山変電所への攻撃について知るため、USSBS(米国戦略爆撃調査団)の報告書の一部を眺めてみた。電力関係の専門用語が多く出てくるので正確に解釈できない箇所も多いが、概略は理解できる。
その資料は以下のAとBの二つである(どれも国会図書館のデジタル資料として簡単に閲覧できる)。

The Report for Damages  by Air Force at Inuyama Sub-station
 (October 1945 Inuyama Substation)
この資料は英文手書きで、用紙は「日本發送電株式會社」の文字が入っている。犬山変電所への4回の攻撃毎の損害状況、1942~1945年の電力供給推移のグラフ が記されている。米軍側が現地で聞き取りした際の一次資料であろう。 

USSBS THE ELECTRIC POWER INDUSTRY OF JAPAN
 (Plant Report)
 〈Erectric Power Division Dates of
 Survey 9 October--3 December 1945

  Date of Publication:May 1947〉 
これは米軍の爆撃・攻撃が日本全国の火力および水力発電施設や変電所へ与えた損害などに関する最終的な報告書である。犬山変電所の状況(解説は131~132頁、表と写真は137~140頁)についてもA資料をもとに整理され、わかりやすくまとめられている。

犬山変電所への米軍機による攻撃は、両資料によると以下の4回(4日)であった。いずれも1945(昭和20)年6月から8月であり、7月30日には機銃だけでなく爆撃もあったという。

①6月9日午後12時56分:1機のP-51による機銃攻撃
②7月15日午後1時05分:2機のP-51による機銃攻撃
③7月30日午前7時35分:4機のP-51による爆弾投下と機銃攻撃
④8月14日午後12時53分:2機のP-51による機銃攻撃

①、②、④は、犬山変電所を攻撃した戦闘機の正式な報告・記録は無いとのことであるが、たとえばB-29の掩護機としての硫黄島のP-51が帰還航程で行った攻撃、あるいはP-51の戦隊のみで行った各務原や名古屋周辺への攻撃の一環だった可能性がある。ただし③については、日本側の現場職員からの聞き取りではP-51(陸軍機)と報告されたのだが、実はそうではなく海軍機(艦載機)だった可能性を示唆している。理由は当日名古屋周辺の4箇所に攻撃を行った海軍機の記録があったためである。
下は、B資料の140頁にある犬山変電所の写真である。木枠に砂を入れた「防爆壁」が変圧器等の周りに設置されており、変電所としても米軍の攻撃から施設を守るための対策をしていたことがわかる。
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これら二つの報告書には、機銃攻撃などによって施設にどのような損害があったのかが攻撃の日毎に詳しく調査されているが、すべてを記すのは煩雑になるので、一例として①の攻撃の被害だけをみる。この日は前々回(1)の記述にもあったように、現在の犬山市に該当する何箇所かの地域で銃撃による損害が出ていた日である。

①1945年6月9日午後12時56分攻撃。1機のP-51の機銃による損害。
〇1次被害:送電線2本の断線、東側変電所の壁・戸・窓に計15カ所の弾孔(壁の弾痕は22カ所)、変圧器1器損害、変流器1器に1弾孔
〇2次被害:変圧器1器(高電圧による短絡〈ショート〉)

これら被害の聞き取りをされた変電所職員は、攻撃のあった日毎に細かな被害状況を記録していたのであろうが、とくに弾痕や弾孔の数までもが記録されていたことに少々驚いたのである。
4回の攻撃全体をみると、施設の各箇所に毎回損害を与えてはいるが、変電所全体を壊滅的に破壊するほどのものはなかった。しかし4回目の8月14日の攻撃の結果、主変圧器を修理する必要が出たため、東側の変電所施設は機能停止となったという。
なお報告書では、機器や施設の損害は記録されているが、職員などの人的被害についてはとくに何も記されていない。
次回(4)は最終回。

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2022年8月 3日 (水)

犬山の空襲(2)

(承前)
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上は米軍の資料「空襲目標情報」(Target location sheet)にある犬山変電所の航空写真(大小2つのスケール)である(出典::Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 47, Security-Classified Joint Target Group Air Target Analyses, 1944-1945 = 米国戦略爆撃調査団文書 ; 空襲目標情報 123コマ目)。

現在の地図で確認する(拡大縮小可)。

空襲当時の施設名は、米軍資料では「日本發送電株式会社(1939-1951)犬山変電所」であったが、現在は「関西電力送配電株式会社犬山送電センター」である。なお地図を拡大するとわかるが、隣接して西側に「中部電力パワーグリッド羽黒変電所」が併設されている(長野・岐阜の木曽川本流の発電用水利権は長野県内の支流も含めすべて関西電力が持っている)。
さらに、敗戦後すぐではないが、1947年に米軍が撮影した犬山上空からの写真(トリミング加工したもの)も下に載せておく(拡大可)。現在と違い、とくに変電所近くの西側や北側には集落が無く、田園地帯が広がっていることがわかる。(写真は国土地理院航空写真:米軍撮影昭和22年10月13日 19471013USA-M550-1-78 をトリミング加工したもの。)

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次の写真には、変電所とともに右端後方に尾張富士が写っている。

Photoussbs-electric-power-industry-of-ja
この写真は敗戦後間もない頃(1945年末か)の犬山変電所であり、これを含む何枚かの写真は、「米国戦略爆撃調査団(USSBS)の報告書」のひとつ『Electric Power Industry of Japan』(1947年5月)に掲載されている。
このUSSBSの調査期間は1945年10月から12月であり、報告書は、日本の発電および電力供給施設について、戦争中に米軍による攻撃がどのような効果・損害をもたらしたかをまとめたものだった。
次回以降、上記報告書も含め幾つかの米軍資料をもとに、当時の犬山変電所への4回にわたる米軍攻撃の概略をみることにする。

なお下は現在の変電所の写真。撮影の高さは違うが、右端に尾張富士が写っているので上掲米軍写真と比較できる。
2022年8月3日撮影(犬山市立東小学校南の農道より)
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2022年8月 2日 (火)

犬山の空襲(1)

呑水の記事はしばらく中断。秋頃に再開。

毎年のことだが8月が近づくと、もうひとつのブログへのアクセス数が急に増え、コメントも幾つかいただくことがある。その大半は私の父の世代の孫にあたる方からであるが、戦地へ赴いた「祖父」について情報を探しておられる方が大半である。
また、幼い頃に祖父母から聞いた記憶のある空襲について記してくださる方も多い。私の父の実家を焼いた岐阜空襲(1945年7月9日)についても、以前記事にしたのでコメントも幾つかいただいたことがある。

ところで「空襲」に関していえば、名古屋、岐阜のように大規模なものは犬山にはなかったため、これまでほとんど関心はなかったが、最近になって少し調べてみようと思い立った。

まず『犬山市史』の通史編下を紐解いてみると、第1章の項目に「本土空襲」があり、1頁余りの記述の中に犬山への空襲(機銃掃射)について触れられていた。しかしその記述は『楽田村史』からの引用が大半であった(楽田村は現在の犬山市南部地域)。
そこで『楽田村史』を見ると、空襲に関する「日誌」(?)が20頁ほどあった。「Ⅴ 大東亜戦争米軍機空襲状況」の題目で、昭和17年7月4日から昭和20年9月2日までの空襲や出来事が日付入りで短く綴られている。〈しかしこの記録は誰(あるいは何か公的機関)が記録したものなのか出典がない。〉
この「空襲状況」のなかで犬山地域への空襲が初めて記録されたのは昭和20年6月9日のことであり、上記『犬山市史』の犬山への空襲もこの記録から引用されている。その6月9日の記述を下に引用する。

一、同年(昭和20年)6月9日午前11時半空襲警報あり 12時半頃より米機30名古屋へ侵入 熱田工場地帯爆弾投下消失 死者千余人あり 午後1時空襲警報あり2時小型機50機来襲犬山方面より東へ転向す 此時小型機各務原飛行場、犬山、五郎丸、羽黒等を機銃掃射す 内久保、久保一色等低空飛行スレスレ射撃内久保2戸、小林竹松、小島照一の2戸4棟をも炎焼、負傷者もあり『楽田村史』44頁

記述のとおり、この日はよく知られた名古屋の「熱田空襲」のあった日だった。このB-29による爆撃と関連するのかどうかは不明だが、小型戦闘機による機銃攻撃が犬山などにあったのである。文中下線部が現在の犬山市に含まれる地域であり、犬山市の南にある久保一色(現在の小牧市)への攻撃についても記されている。内久保地域への機銃掃射では建物が燃え、負傷者もあったことがわかる。

実は上記史資料のほかに犬山市への空襲について記された文献がある。
「学校史」以外のものでいえば、たとえば
〇犬山市役所総務部企画課発行
「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて」1995年
〇犬山市役所総務部企画課発行
「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」平成9年
などであるが、これらのうち、「平和を願って」の中に、上記引用の6月9日の空襲について記したものがある。内容は上記引用の内容とほぼ同じであるが、それ以外に、五郎丸地区にあった陸軍被服廠軍靴製造工場が米軍機の機銃掃射を受け、その工場に学徒動員中の犬山高等女学校(現犬山高等学校)生徒78名が危うく難を逃れた話が載っている。

さて、以上の日本側諸資料に記された1945年6月9日の犬山地域などへの空襲(米軍小型機による機銃掃射等)について考えてみると、はたして米軍側は闇雲に、いわば無計画に犬山市への攻撃を行ったのだろうかという疑問がわいたのである。
軍事的要衝攻撃の帰りついでに米軍機は偶々犬山に立ち寄った・・・その程度の攻撃だったのだろうか?

そんなことを考えながら、米軍側の資料を探してみることにしたのである。
すると、今住んでいる自宅からわずか1㎞離れた或る「施設」(それは今も稼働している)が米軍にとって重要な攻撃目標のひとつであり、実際に少なくとも4回の攻撃を受けており、あの6月9日はその最初の日だった・・・。
時折散歩するとき視野に入る見慣れたあの施設なのだ。(2)へ
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2022年7月14日 (木)

呑水(4補)

(承前)
前回紹介した美濃加茂市深田の「深田スポット公園」。
そこから上流に向けて、堤防沿いに「諷詠への径」と名付けられ、石版に刻まれた多くの句が並んでいるが、そのなかに呑水の句もある。この句は調べてみると、もともとは兼松嘨風編の『袋角集』にあり(字体もそこから取っている)、「ナゴヤ呑水」と記されていることから、彼が名古屋の情妙寺に移ってからの句と思われる。

白鷺の脛をかくさし涼み川  呑水 『袋角』

しかしよく見ると、下に添えられた読みを示すプレートに誤りがあった。
×脛をかくして 〇脛をかくさし(じ)

呑水のためにも、いつか訂正されることを願います。
撮影:2022/06/22
554p1030251

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2022年7月13日 (水)

呑水(4)

(承前)
林輝夫が美濃加茂市の俳誌「自在」に呑水の紀行文を翻刻掲載することになった経緯は、林の記したところによると概略以下の如くである。


林は平成6(1994)年秋に「艸ほこ」の存在を知り、翌平成7(1995)年1月に早大図書館に問い合わせたところ在庫していることを確認した。
貴重なしかも未発表の資料であることを関係者に話すが、関心を示すひとはいなかった
すでに交流のあった美濃加茂市の俳誌『自在』主宰の西田兼三氏を訪ねた際に話をすると、強い興味を示され、翻刻を手がけてほしいと言われ、同年4月14日に大学から西田主宰に送られてきたコピーを林が受け取り翻刻作業に入った。
しかしその2週間後の28日に残念ながら西田主宰は急逝したのである。

以上の経緯は「自在」の平成8(1996)年5月号に記されている。そこに林は、西田主宰の「生前の御厚意に感謝し取り敢えず一部だけを、謹んで一周忌の霊前に捧げます」と記した。『艸ほこ』に収められている幾つかの題名のある文章のうち「蜂屋(へ)紀行」についてのみ、その5月号と6月号に2回に分けて、原文のコピーとともに翻刻文章が掲載されたのであった。
以上のような経緯は、林が『犬山市史』(通史編 上)に呑水に関する原稿を執筆していたまさにその時期と重なっており、この経緯はどうしても、たとえ短い文であっても『市史』の原稿に加えておきたかったのである。それは西田への感謝であり、手向けでもあったと思う。

林輝夫と西田兼三との出会いと交流については西田の追悼句集(「自在」1995年6月号)に林が「先生とのおついきあい」と題する文章を書いている。
これによると、出会いのきっかけは兼松嘨風(元禄期の俳人:今の美濃加茂市深田在)のことであった。西田は地元の俳句結社「自在」を主宰するとともに、郷土(東美濃)のとりわけ元禄期俳人の嘨風、今の美濃加茂市蜂屋在の魯九らを研究していた。他方、丈草研究の一環で昭和初期からすでに元禄期の東美濃の俳人を調べていた市橋鐸のことを知っていた西田は、市橋の遺稿を弟子の林輝夫が受け継いでいることを聞かされ、ふたりの交流がさらに深まったという。

*****************************
美濃加茂市深田の木曽川堤防にある「深田スポット公園」には、平成5(1993)年に兼松嘨風の句碑などが建立されたが、西田はその事業の中心的存在であった。下の写真は美濃加茂市深田の木曽川右岸につくられた「深田スポット公園」。
ここに「兼松嘨風」を記念する句碑と顕彰碑が設けられた(1993年)。
嘨風の句碑は「山間の 雪の中ゆく 筏かな」
*なお関連する記事として★参照
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句碑のあるスポット公園から川沿いに上流方向に句が並ぶ「諷詠への径」。
芭蕉、丈草、嘨風、魯九、呑水などの句が石版に刻されている。
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写真:撮影 2022/06/21

参考:
『郷土蕉門の元禄俳人の足跡 兼松嘯風編』
  西田兼三  郷土元禄俳人顕彰会 1994年
『東美濃蕉門俳句の鑑賞』
  西田兼三  郷土元禄俳人顕彰会 1995年

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2022年7月 7日 (木)

呑水(3)

(承前)
再び『犬山市史 通史編 上』にあった例の一文のことに戻る。

「釈呑水」を説明する文章の最後は次のように締めくくられていた。

「・・・享保一四年(1729)没。追悼集に『蓮の実』がある。自筆原稿が早稲田大学図書館にあり、俳句結社『自在』によって活字化された。

文末の青文字部分は(1)でも述べたように、中途半端に付記された一文としか思えないのであるが、しかし言葉足らずの走り書きのようなものになったのには、何か訳があるにちがいないとも感じたのである。呑水の自筆原稿の存在や俳句結社「自在」のことについて、今どうしてもこの場を借りて記しておきたかった経緯、あるいはこれを記したときの筆者の心裡を知りたくなったのである。

そこでまず、筆者のいう早大図書館にある呑水の自筆原稿とはそもそも何なのかを確認した。
大学古典籍データベースを検索してみると、「艸ほこ 霊江斎呑水 稿」という名の文献が見つかった。印記は「小寺玉晁旧蔵」とある(小寺玉晃 1800-1878 は尾張藩の陪臣であったが、好事家、随筆家としても知られたひとであり、貴重な文献を蒐集したことでも知られる)。
ちなみに愛知県西尾市の「岩瀬文庫」に小寺の「愛知古今俳人百家撰」(1878)があり、呑水について以下のような記述がある(古典籍データベースの書誌情報を参照しただけで、この典籍を実見していない)。

(霊江斎呑水)源頂山情妙寺六世遠光院日陽和尚也翁門人ニテ翁没後宝永庚寅十月十二日十七周忌義仲寺ニ至リ追福ヲナシ荘厳ノ花ヲ咲ス其集ヲ不断桜ト号初犬山妙感寺ノ住職也元禄十七年ヨリ情妙寺江入院予呑水自筆ノ所々江紀行之記アリ艸ほこと云…

以上のことから、『市史』の筆者がいう呑水の「自筆原稿」とは、早大図書館にある小寺玉晃旧蔵の「艸ほこ」にまちがいない。

次に『市史』の「釈呑水」の執筆者のことである。
犬山市史『通史編 上』に呑水の項目があるのは、第二章第四節「城下町犬山の文芸」である。巻末に執筆者の分担が記してあり、第四節の執筆者は「林輝夫」とあった。彼は旧制小牧中学校時代の市橋鐸の教え子であり、市橋が学んだ同じ大学を卒業し愛知県の教員となったが郷土史家としても活躍した。ふたりは長く師弟としての交流があり、市橋の遺稿も彼が引き継いだという(その辺りの事情は前にも挙げた「文献」→★を参照)。

さて次に俳句結社『自在』について調べてみた。
『自在』は岐阜県美濃加茂市の俳句結社であり、林が「『自在』で活字化された」と書いているのだから、この俳誌に呑水の「自筆原稿」の翻刻を見つけることができるはずだ。そこで俳誌が揃えてある美濃加茂市の図書館へ行き、翻刻の記事を探すことにした。
あの一文が書かれたのは『市史通史編 上』の出版年である平成9(1997)年より後ではないはずだが、いつ「活字化」されたのかはわからないので、ひとまず1993年からの各号を順番に紐解いていった。見ていくと、その「自在」という名の俳誌に林輝夫は頻繁に文章を寄稿していたことがわかった。俳誌の代表者である西田兼三(侑三)のこと、あるいはそもそも犬山の林輝夫がなぜ美濃加茂市の俳誌に寄稿していたのかも興味深いが、そうしたことは次回また触れることにする。

調べてゆくと「自在」平成8(1996)年の5月号と6月号に二回に分けて以下の翻刻が掲載されていた。

 蜂屋紀行 犬山住 呑水稿  林輝夫翻刻

これでようやく「市史」の謎のような一文の意味を読み取ることができた。つまり林は、市史執筆と同時期に見つけた呑水の「艸ほこ」を翻刻したのだが、そのことをどうしても市史のなかに書き添えておきたかったのである。おそらく師であった市橋鐸も知らなかった呑水の文書を見出し翻刻できたことの喜びのようなものを、あの遠慮がちな一文は表しているような気がするのである。

次回は、そもそもこの翻刻が「自在」に掲載されることになった経緯を辿ってみたい。

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平和公園「情妙寺墓地」(名古屋市東区平和公園1丁目)
写真の最も奥に歴代住持に並んで呑水の墓もある(2022/06/04撮影)。

参考:
『艸ほこ』 霊江斎呑水 稿  
  早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」参照
『愛知古今俳人百家撰』 
  愛知県西尾市岩瀬文庫「古典籍データベース」書誌情報参照
『自在』 
  岐阜県美濃加茂市俳句結社「自在」俳誌 1993年以降参照



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2022年7月 1日 (金)

呑水(2)

(承前)
『市史』の一文を謎解きするのは次回にして、肝心の「呑水」についてひとまず簡単にメモし、彼の墓碑や句碑が現在どうなっているかを写真記録として載せておく(参考文献は下記)。

寛文元(1661)年犬山の生まれ。露川門の俳僧。俳名呑水。
丈草の竹馬の友といわれる所以は、丈草の追悼集『幻の庵』に寄せた呑水の句の前書きに「竹馬の戯れのみ思ひて」あるいは「故郷の親友の志に」とあるからで、丈草自身が呑水を幼馴染みと記した文献は無いという。
11歳で仏門に入り、のち犬山の一翁山妙感寺四世となり13年在住。
さらに名古屋の源頂山情妙寺六世として16年在住。
享保14(1729)年十月四日入寂。
僧名は「日陽」、諡号は「遠光院日陽上人(聖人)」
平和公園情妙寺の墓碑左面に「霊江斎(齋?)呑水墓」とある。

辞世句「蓮の実の十方に飛んで遊びけり」(平和公園 情妙寺墓碑背面)
句 碑「手のひらに雨としる夜の水雞哉」(名古屋市東区 情妙寺)

下は墓碑や句碑の写真(拡大可)
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左:墓碑(平和公園内の情妙寺墓所 2022年6月4日撮影)
  正面「六世遠光院日陽聖人」
  左面「霊江斎(齋?)呑水墓」、右面に没年月日
  背面「蓮の実の・・・」の句があるが風化で一部分しか読めない。
右:句碑(名古屋市東区筒井町 源頂山 情妙寺 2022年6月1日撮影)
  「手のひらに雨としる夜の水雞哉 霊江斎(齋?)呑水」

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歯塚:『市史』では「歯塚」と記すが、その正確な意味は知らない。
(犬山市犬山山寺 一翁山 妙感寺 2022年5月29日、6月21日撮影)
左:正面「師範 遠光院日陽聖人」
  その右に「一翁山四世」左に「源頂山六世」 
右:背面「誹名 号 呑水」及び没年月日

参考(発行元などは省略):
『犬山市史』別巻「文化財 民俗」昭和60年
『犬山市史』通史編上 平成9年
『犬山市資料』第二集 昭和60年
『俳人丈艸』市橋鐸 昭和5年
『丈艸伝記考説』市橋鐸  昭和39年
『中京俳人考説』文化財叢書第71号 昭和52年
 *なおこの叢書の呑水没年(享保15年)は誤記か。
『尾張俳壇攷』服部直子 2006年

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2022年6月19日 (日)

呑水(1)

昨年の広報で犬山市が新しい『市史』の編纂準備を始めたらしいことを知ったが、その編纂基本方針を読むと、通史と資料の2巻だけを刊行し、残念ながら旧版の全面改訂ではないことがわかった。主に平成時代の新たなデータなどを追加するということなのだろう。
そんなことを気にしながら、先日図書館で市史『別巻「文化財・民俗」』(昭和60年)や『通史編上巻』(平成9年)をあらためて読んでいた。
丈草に関わる或る人物のことが最近気になっていたからだ。

その人物は蕉門の俳僧「呑水」(1661~1729)。丈草の竹馬の友といわれているひとである。
彼のことは、別巻「四 文芸家」の320-21頁と通史編上巻の576頁に「釈呑水」として説明されている。これらの説明には約12年の時間が空いているが、墓の写真の有無以外にそれぞれの内容に大きな違いはないものの、通史編上巻の説明には、今回読んだときに少し意味の取りきれない一文が末尾に付けてあった。以前読んだときには全く気にならなかったのに、である。

自筆原稿が早稲田大学図書館にあり、俳句結社『自在』によって活字化された。

自分には、市史の筆者の独り言のように思え、なぜか奇異な感じのする一文であった。そもそも俳句結社『自在』がどこの町にあるのかがすぐわからないし、呑水の「自筆原稿」とだけで内容の概要説明も全くないのである。「活字化された」(翻刻ということだろう)と書いているが、それがいつのことなのかもわからない。あたかも原稿の字数制限を気にしながら締め切り間際に唐突に追加された走り書きのようにさえみえる。
がしかしそれでいて、呑水の「自筆原稿」の存在や、それが「活字化された」ことが最近の筆者自身に関わる何か一大事だったのかもしれない、などと思ったりもしたのである。

呑水のことを知る前に、どこか気になるこの市史の一文についてまずは「謎解き」してみようと思い立ち、手始めに俳句結社『自在』のことを調べてみようとしたが、この一文を書いた筆者のことも次第に気になってきたのである。

写真:一翁山妙感寺(犬山市犬山山寺)2022年6月撮影
妙感寺四世の呑水、榎本馬州の墓碑、馬州の句碑などがある。
寺の背後は妙感寺古墳。
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2022年5月 4日 (水)

内藤記念くすり博物館

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時折この博物館の前を通る機会があり、そのたびに気にはなっていたけれど、中に入ったことはなかった。
今日の午後、要件を済ませた帰りに、もう閉館間近だったが初めて立ち寄ることができた。

いわゆる「企業博物館」の中でも極めて評価の高い博物館である。医薬品メーカーの「エーザイ」川島工園(各務原市)の中に1971年開館して以来すでに半世紀になる。概観は白川郷の合掌造りをモチーフにしている。

館内だけでなく、西側の薬用植物園を歩いていると時間を忘れてしまう。季節毎、いや月に1度は訪れてみたくなる。
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イヌバラ:果実はローズヒップ 
4/May/2022 内藤記念くすり博物館薬草園
*内藤記念くすり博物館 HP

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