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2017年2月

2017年2月19日 (日)

中谷宇吉郎「雪雑記」

Nakaya_2岐阜で暮らしていた幼いころ、学校が休みに入ると母の実家(郡上郡和良村:現郡上市)に行くことが多く、夏休みなど長いときには2週間近く滞在したこともあった。

小学校のまだ低学年だったときのある冬休みのこと。実家に着いたとたんに大雪になり、田畑も道もすぐ雪で隠されてしまった。夜も雪は降り続き、庭も雪で覆われていたが、用を足すにはいったん戸外に出なければならず、なんとも不便なことであった。だがその夜、外に出たとき夜空を仰ぐと、大きな雪片のひとつひとつが絶え間なくゆっくり空から舞い降りてくるのが面白くなり、やがて自分の身体が夜空に吸い込まれて昇ってゆくような不思議な感覚におそわれたのである。雪に濡れるのも寒さも忘れ、随分長い間夜空を見つめ続けていたようで、心配して呼びに来た祖母にひどく叱られたらしいのである。

忘れていたこの記憶を思い出し、こうして記すことができたのは、ある日押し入れの中にこの体験を記した絵日記を見つけたからだ。今はもう失われた郡上の実家のことや、大雪の日の不思議な体験が蘇ってきたが、それから程なくして、偶然「雪の科学館」を訪れる機会があった。

2006年の夏、石川県の加賀市を訪れたとき、「中谷宇吉郎 雪の科学館」に立ち寄ったことがあった。そこへ行こうと計画していたわけではなく、道すがら偶然立ち寄っただけであった。名前は知っていても、彼の書いたものを読んだことがなかったのだが、後日彼の文章のなかに次のような一節をみつけ、その人柄が一層身近に感じられたのである。

1937(昭和12)年に書かれたという『雪雑記』より。
「標高は千百米位に過ぎないが、北海道の奥地遠く人煙を離れた十勝岳の中腹では、風のない夜は全くの沈黙と暗黒の世界である。その闇の中を頭上だけ一部分懐中電灯の光で区切って、その中を何時までも舞い落ちて来る雪を仰いでいると、いつの間にか自分の身体が静かに空へ浮き上がって行くような錯覚が起きて来る。外に基準となるものが何も見えないのであるから、そんな錯覚の起きるのは不思議ではないが、しかしその感覚自身は実に珍しい今まで知らなかった経験であった。」

上の写真は、雪の科学館を訪れたときのもの。磯崎新設計の六角形の科学館の姿が遠くに見える。駐車場から思わずシャッターを切った携帯電話の写真だが、忘れ難い風景となった。いつかまた行ってみたいと思っている。

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2017年2月12日 (日)

暁のオリオン

※鈴木壽壽子さんに関する「冊子PDF」(四日市人権センター)のリンク先を新しいものに入れ替えました(2022年2月22日)

あのとき「暁(あけ)のサソリ」を撮ろう思ったのは、「暁のオリオン」のことが頭をよぎったからではないか、最近そう思い始めました。

まだ20代のはじめだった1975年ごろ、鈴木壽壽子さんの『星のふるさと』を読んだとき、そのなかにオリオンを詠んだ草田男の句を題材にした随想がありました。
 
 火の島は夏オリオンを暁の星

彼女は、草田男が旅行中の伊豆大島で見た風景を詠んだものだといいます。以来この句は、私にとっても忘れられないものになりました。おそらく1930年代後半の句でしょうか。同じ句集には、「戦記なれば殺の字多き冬日向」があります。すでに大陸では宣戦布告なき「戦争」が拡大していたころです。
南の海で洗われた真珠のように、夏の暁(あけ)の空に、冬のオリオンの星々が昇ってきます。彼女が暁のオリオンを見たいと思っても、しかし彼女の住む当時の四日市では、フレアスタックと汚れた大気が星々を隠していました。

≪陽が昇れば、すぐクマゼミがかきたてる暑さを、少しでもしのぎよいものにと、真冬の星の生まれる姿を、神様はそっと、夜明けの空に溶かしておいてくださった。≫
≪夏の夜明けのオリオンが、私も見たい。火の島でなくとも、見なれた屋根の上にでも。≫
 『星のふるさと』 「火の島」1971.8 (76-77頁) 鈴木壽壽子 誠文堂新光社 1975

 

火星大接近のあった1971年、鈴木さんは、家事の合間に火星表面を小さな望遠鏡で精密なスケッチをしたことで注目されたた方です。「星のふるさと」には海から昇る暁のオリオンと思われる写真が掲載されています。なお、彼女と天体観測への関わりについては、四日市の人権センターのサイトでも紹介され、冊子(PDF)も見ることができます。

暁のオリオンを見る機会は、残念ながら今まで一度もありませんでした。
いつか「比較明合成」とかいう機能を使って、海の見える場所で夏のオリオン出を撮ってみたい、いやいや、撮影なぞできなくてもいいので、夜明けのオリオンに出会うことさえできれば、きっと満足。

 

*『星のふるさと』は絶版。ところどころ残念な誤植があり、改訂・復刻が待たれます。

 

 

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2017年2月11日 (土)

暁のサソリ

  

   Photo_2
            「暁のサソリ」 click the picture to enlarge

 今日からブログを始めます。よろしくお願いします。

 タイトルバナー上の写真は、今から20年以上前に撮影したもの。上に全景を載せます。懐かしい銀塩写真。最近デジタル化したのですが、解像度は良くありません。今なら「比較明合成」とかで恐ろしく美しい星景写真を「創る」ことができますが・・・。
撮影データは残っておらず、たぶん1990年代中頃、日時は1月下旬の薄明時。レンズは左の樹木の歪み具合からすると28㍉?。Nikon FE を使った記憶があります。拡大すると多少は星々が見えると思います。平凡な写真ですが、忘れられない想い出があります。
 
 この日(多分土曜日)、東海・甲信越は月も無く晴天でした。夕飯後、中央道に入って諏訪湖方面に向かいました。途中、岡谷JCT手前で和田峠か八ヶ岳方面か迷っているうちに諏訪湖PAに来てしまいました。そのとき急に「暁のサソリ」だ、と思いつき、仮眠のあと小淵沢ICから八ヶ岳高原道路へ向かい、県道の山道を登りました。
  当時は重い機材(ε-160/EM-200など)を積んで「天体写真」に夢中でした。でも、仕事が忙しく、次第に手軽な「星景写真」に関心が移り、2001年獅子座流星群の圧倒的な光景を見てからは、写真を撮るためだけに遠征することはしなくなりました。肉眼ではとらえられない天体の姿を写すことは、たしかに楽しいことでしたが、むしろ肉眼で見る星々や風景に心引かれるようになりました。本当のことを言えば、趣味に費やすお金も、写真のセンスもなかったということでしょう。
 深夜にもかかわらず撮影場所に人がやってきました。その方は清里に住む方で、夜明けまでの1時間ばかり長話をした記憶があります。彼も以前は天体写真に夢中だったようですが、今は止めたとのこと。退職後は都内から清里に移り住み、ときどきこのあたりに来て、星や富士を眺めているとのことでした。時間のある今より、「仕事が忙しいときほど、趣味に熱中できた」、と言っていたことが今も印象に残っています。
あれこれ話していたために撮影に集中できず、構図やレンズ選びなどはいいかげんなものになりました。ただ、冬場なのでレンズに灰式懐炉を付けることだけは習慣として忘れていなかったようです。

 ところで、あのときなぜ「暁(あけ)のサソリ」だと思ったのか、最近そのことについて考えるようになりました(次回へ)。

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