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2017年3月

2017年3月31日 (金)

日枝神社式年大祭の写真

20fff_2       昭和33年5月 飛騨山王宮 日枝神社 式年大祭

飛騨高山で暮らしたことがある。2歳から6歳までの5年間だった。
1955(昭和30)年から1960(昭和35)年のことになる。
父の仕事のために県内を転々と移り住んだが、5年間も滞在したのは高山だけである。私にとっての「記憶」は、高山から始まったともいえる。父も高山を「第2の故郷」だと語っていた。

父が撮った高山時代の写真(数は少ない)を、何回かに分けて紹介しようと思う。アルバムには無かった写真なので、私も初めて見る光景ばかりである。ネガを自宅でスキャンしたので画質は良くないが、6×6版に助けられた。
上の写真は、昭和33年5月に行われた日枝神社の式年大祭時のもの。小さな日傘をかざす和服の少女など多くの人たちで賑わっている。
左端に写っている幟。文字は「黄鶴臺(台)」(おうかくだい)ではないだろうか。気になったのでこれから調べてみたいと思っている。
下の写真は、「神楽台」。山車の列では先頭をつとめる。4歳の私もこの大祭に行ったのだろうが、ほとんど憶えていない。
例祭のときに行列に加わったような覚えはあるが、それよりも撞木でたたく鉦の音の記憶のほうが、懐かしく鮮明である。闘鶏楽「カンカコカン」。
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2017年3月18日 (土)

庭の「ダフネ」

Dsc01850rr庭の「ダフネ」にも春がそこまで来ている。

写真を整理していたら、1984年に行ったバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の写真が何枚か出てきた。ベルニーニの大天蓋も写っていた。そういえば、あのとき残念なことがあった。
隣のシスティーナ礼拝堂などのバチカン美術館が休館日で、翌日ボルゲーゼ美術館の前まで行ったが、これまた休館日。ずいぶん途方に暮れた思い出がある。日・月の予定が逆だったらと悔やまれたが、初歩的なミスだった。結局ベルニーニの「アポロとダフネ」に会うことはできなかった。

写真は庭にある月桂樹の花芽だが、昨年の秋からほとんど姿は変わっていない。私にとってこの芽の印象があまりにも強いので、花の姿を思い起こすのが難しいくらいである。きっと仕事が忙しくて、毎年花の咲いた木をよく見ていなかったからかもしれない。カメラを向けることもなかった。開花は早くても4月中旬ごろだと思う。

この月桂樹は、約30年ほど前、新築祝いに友人から苗をもらって植えたもの。ほとんど手入れをしていないけれども、それなりに元気に育っている。伸びすぎないように、2㍍ほどに毎年高さを抑えている。
剪定時に、切り取った小枝をそのまま乾燥させておいて、ときどき煮込み料理に葉を使ったりする。種類によって香りの強弱があるらしいので、市販のローリエと一度比べてみたい。

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2017年3月 9日 (木)

明治村 歩兵第6連隊兵舎

141119_1352272_2故郷岐阜や今住んでいる犬山について、何から書こうかと迷っていたが、自宅から近く、歩いて行ける「博物館 明治村」から始めることにした。

この建物は「歩兵第6連隊第10中隊兵舎」。もとは名古屋城内にあったものが移築された。その際約3分の2に縮小されている。下の写真も2年前の秋のものだが、撮影をしていたとき傍にいた年配の方々が、「親父は豊橋の歩兵第18連隊に入ったんだよなあ」などと懐かしく話しておられ、グアムやサイパンの生存者のご家族であろうかと思ったのである。

文化財として大きな価値があることは当然としても、この兵舎に私が特に関心をもつ理由は二つある。

ひとつは、父方の伯父が徴兵され、この第6連隊で初年兵教育を受けており、以前父から当時の伯父の苦労話を聞いたことがあったからだ。
1939(S14)年12月から翌年にかけてのことで、部隊はその4月に中国「広東」付近に派遣された。宣戦布告無き戦争が泥沼化していたころだ。伯父は印刷会社の事務員をしていたが、兵役を早めに終えてしまおうと考え、「通信兵」を志していたらしい。けれども徴兵前には実現できなかった。
徴兵前に彼が志願兵になろうとした理由は他にもあった。いわゆる「徴兵適齢」のことだ。1939年当時の兵役法では、前の年の12月1日からその年の11月30日までに満20歳に達した男子が徴兵適齢者とされていた。これを徴兵される側からみると、かつて同じ学校に通っていた同級生でも、誕生日の違いによって徴兵される年が前後することになる。
2年兵と新兵の差は、軍隊において天と地の開きがある。親しい友人や同級生が同じ隊内にいれば、安心感もあったかもしれないが、逆に学校時代に自分のライバルであったり、関係が思わしくなかった者が古年兵として同じ連隊に既にいたとすれば、人によっては耐えられない苦痛を被ることにもなる。伯父にとって、不幸にもその不安は現実のものとなってしまったのである。私の父も同じような不安はあったらしいが、別の理由から18歳で志願兵となり、中国の大同で初年兵教育を受けている(私の父のことはいずれ詳しく書いてみたい)。
もうひとつ関心をもつ理由は、戦後間もない頃、この建物が内部を改修して大学の仮校舎として使われていたということだ。でも私の生まれる前のことでもあり、僅かに縁を感じる程度のことである。

内部は移築時に作り直されているとはいえ、忠実に再現されて当時の兵舎内の雰囲気をよく伝えている。ここに来る度に、映画「真空地帯」(1952年)の一場面や、伯父の苦悩をどうしても思い出してしまう。もちろん父の軍隊時代のことも。
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2017年3月 5日 (日)

奈良県立図書情報館 戦争体験文庫

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昨日、奈良県立図書情報館を日帰りで訪れた。
今回も「戦争体験文庫」の文献探しが目的である。もう何度も来ているが、写真がなかったので撮ってみた。暖かい日だった。月末には向かいの佐保川の桜も咲き始めるだろう。

駐車場が周りよりずいぶん低いな、といつも思っていたので調べてみると、もともとは灌漑用ため池のあったところらしい。小・中学校、住宅地に囲まれ、東には佐保川が流れる。とても静かな環境にあり、この近くに引っ越したいくらいである。
移転してくる前の奈良県立図書館は今の奈良文化会館にあり、その前身は日露戦争後に開設された「奈良県立戦捷紀念図書館」(1909年開館)で、奈良公園(興福寺境内)にあったが、今は大和郡山市の郡山城内に移築されて城址会館となっている。

戦争体験文庫は、戦後50年を機に資料を集め、図書館内に設けられた。全国の公立図書館でこれだけの資料蒐集をしたのはこの文庫だけであろう。夥しい数の戦友会誌、全国の戦争体験者の手記や手作りの小冊子がある。父の所属していた船舶工兵連隊の戦友会誌も寄贈されている(戦捷紀念図書館時代にも、日露戦争の戦病死者の遺品などが展示されていたとのこと)。
ここにある彼らが遺したものをどう引き継ぐかは、その後ろ姿を見送った子や孫の世代に関わる。それは今の自分にとっても大切な課題になっているが、ここに足を運び、その資料を手にして著者と対話することだけでも大きな意味があると思っている。

ちなみに今回主に閲覧し、一部分を複写した文献。
○「戦前船舶 第102号」  戦前船舶研究会編集部 2000年
○「㋹の戦史」 陸軍水上特攻隊の記録(改訂・増補版) 平成19年(旧版昭和47年)

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