庭を整える前に
春の庭の草花観察は、今日でお終い。
連休中に庭を整えておこうと思う。その前に少し写真撮影。
月桂樹の花が開き始めた。調べたところ、この木は雄木らしい。
タンポポの実は旅立ち、カタバミが庭のあちこちで目立ち始めた。
春の庭の草花観察は、今日でお終い。
連休中に庭を整えておこうと思う。その前に少し写真撮影。
月桂樹の花が開き始めた。調べたところ、この木は雄木らしい。
タンポポの実は旅立ち、カタバミが庭のあちこちで目立ち始めた。
1970年5月のこと。高校の修学旅行(今は沖縄らしい)で大阪万博にも行ったが、私は混雑するパビリオンにはひとつも入らずに、ひたすら『太陽の塔』を見上げたり、日陰を探していただけであり、万博会場で写真を撮ったことすらもう忘れていた。ただ、表の顔よりも、塔の背面にあった「黒の太陽」のほうが強く印象に残っている。
下の写真は、そのとき撮ったもの。露出オーバーだったようで、ネガ(ハーフサイズ)を見ただけでは何が写っているか全く分からない。当時はプリントしないままになっていたらしい。傷だらけのフィルムを最近スキャンして強引に画像処理してみた。半世紀近い昔の風景は、すでに私の記憶からは消えているから、初めて出会う風景として新鮮でもあった。
左の2枚は大屋根から撮っている。腕から内部に出入りできるが、入った記憶はない。塔の内部には下から上まで多くの造形物が展示してあったそうだ。最近、塔の改修についてのニュースを見た記憶がある。できればいつか「胎内めぐり」をしてみたいものだ。
ところで今住んでいる犬山市にも「太陽の塔」がある。
『若い太陽の塔』。「日本モンキーパーク」にこの塔があることを知ってはいたものの、特別関心をもったことはなかった。約30年地元に住んでいながら、モンキーパークに行ったことはないし、この塔の全体像も直接見たことはない。ただこの塔には、設置されて以来ずいぶん悲哀に満ちた物語があったことは、何度も報道されて知っているし、「TARO 100祭」のサイトにも詳しい説明がある。岡本太郎が大阪万博前年の1969年につくった『若い太陽の塔』は、あの『太陽の塔』の原型ともいわれている。ちなみに英語では、Tower of the ever young sun と表記されているらしく、「若い太陽」がテーマだとわかる。
左の写真は、昨年たまたま道端で撮ったもの。林の中から突然姿を現したように見えた。市内の限られた場所からは遠くに塔を見ることはできるが、私の場合、たいていは南からしか見る機会はないので、東を向いている顔全体が視野に入ったのはこの時が初めてだった。私が見ているのではなく、見られていると感じる。太郎の大きく見開いた眼、何ものかを常に疾呼し続けるような語り口を思い出させる。
場所:犬山市犬山官林
日本モンキーパーク内
2011年、ほとんどゴミ同然
だったものをリニューアル。
父の遺したネガフィルムの中に、大雪の日に撮影された神社の写真があった。フィルムの状態は良くないし月日もわからないが、ネガ入れには昭和31年ごろとある。調べてみると、「飛驒一宮水無神社」だとわかった。右側に大杉が写っている。正面には肩に長いものを担いで歩いている人がいるが、それが何なのかはわからない。こんな雪の日に家族で神社に行くはずはないので、仕事中に撮ったのかもしれない。
最近知ったのだが、今年の5月3~6日、「飛驒一宮水無神社」の大祭が57年ぶりに行われるという(日枝神社の式年大祭については、以前に写真を載せた)。飛騨の各神社で行われる「大祭」の起源は、水無神社にあるらしく、HPにも詳細が記されている。
水無神社といえば、思い出すことがある。
晩年になって父が『夜明け前』を熱心に読んでいたことである。日頃小説の類いは手にしない父だったが、なぜかこの本だけは長い時間をかけて読んでいたようで、幕末・明治維新の細かな年表までつくったりしていた。国学や王政復古、明治維新への関心からだったのかもしれない。『夜明け前』の主人公青山半蔵は藤村の父正樹がモデルであり、彼は明治の初めに水無神社の宮司をしていたことがあって、小説にもそのことは記されており、神社には彼の歌碑もある。
昨日、2週間ぶりに岐阜の実家に行った。
母が10年前に名古屋の施設に行って以来、今は誰も住んでいない「空き屋」。
家の裏手はすぐ斜面になっているので、春から秋にかけて草取りをしないと大変なことになる。
除草剤を撒けばいいのに、とよく言われることもあるが、できない。夏場に数回背の高い「雑草」を刈り取るぐらいで、あとは何もしない。父が育てた花や木もあるが、草花の大半は、知らない土地から風や鳥が運んできたものである。所構わず乱雑に咲いている様子を見ると、自分の机の上と同じじゃないか、と思ったりする。
昨日の実家の春の様子を初めて写した。この時期、最も種類が多い。
タンポポ ハナニラ+α
ムスカリ ユキヤナギ
シバザクラ? ツルニチニチソウ
暖かくなってきた。
庭に栽培している花はこれといってないので、春になると「雑草」といわれるものが自然に生い茂る。でも注意して見れば、可憐な花を咲かせ庭を彩ってくれる。
庭の「雑草」が幾種類あるのか今まで数えたことはなかったけれど、これからは写真を撮りながら記録し、お付き合いを始めてみたい。
写真は今日の「ハコベ」。3月から咲いている。毎年同じ場所に地面を這うように生い茂っている。雄しべが2本から3本なのでミドリハコベだろう。すでに垂れ下がり、種の準備を始めているものもある。
カメラを向けたとき、そよ風が収まるのを待っていたら、小さく揺れながら、「やっと気付いてくれましたね」、と囁く声が聞こえた。
家族が高山に来たのは1955(昭和30)年の10月である。
この年の12月末、高山別院(照蓮寺)の本堂が全焼した。父の回想によると、その日の夜は寺の近くで忘年会があり、火事のことを知って、すぐ駆けつけたそうだ。小雪降る中、火勢は増し、やがて太い火柱が上がると本堂が一気に焼けてしまったという。近所の人々が集まり、焼け落ちた本堂に向かって手を合わせていたそうだ。
火事と言えば、翌年の夏には、高山高校、斐太高校の二校が連続放火によって同じ日に焼失している。これも父にとっては強く記憶にあるとのことだった。
さて、写真は宮川の鍛冶橋東にある安川交番(当時は派出所?)の前を写したもの。前回紹介した二十四日市の写真と同じフィルムにあるので、おそらく1956(昭和31)年1月24日だと思われる。初めて見るネガである。
最初の写真では、交番前で傘をさし、何かを通行人に訴えている人がいる。幟などには、「高山別院本堂再建募金」「本堂再建托鉢」の文字が見える。もし、写真が昭和31年撮影で間違いなければ、焼失から1か月後の募金活動の様子だと思われる。右端には公衆電話ボックスがある。
この写真は安川交番を正面から撮っている。屋根から長いつららが伸びている。現在の交番は周りの景観に配慮した姿に変わっており、屋根は大きくなっているが、どことなく当時の面影を引き継いでいるようにも見える。
(現在の安川交番はこちらを、高山別院の火事の様子はここ をご覧ください。なお、火事の様子を写した写真には、「カメラの大井」の看板が見えます。奇しくも上の写真のネガ入れは、鍛冶橋詰のカメラの大井のものでした。最初の写真の電柱にも大井の文字が。)
毎年1月24日には、高山で「二十四日市」が開かれる。
明治の初めに始まったという。農家の冬の収入を助ける市だったのだが、今は観光客にも人気だそうだ。高山の冬の風物詩として続いている。
「小屋名しょうけ」や「宮笠」、「有道しゃくし」などは今も売られているらしい。「しょうけ」は米や豆などを洗ったあと、片口から釜に移すときに便利だ。当時はどの家庭にもあったが、今は見ることはなくなった。「有道しゃくし」は白洲正子が杓子の王様と褒め称え、有名になった。
父が遺したネガの中に「二十四日市」の様子を写したものが2枚あった。前回のものと同じく、初めて見る写真である。
昭和31年の写真だと思う。二十四日市の日は雪が降ると昔からいわれているらしい。小雪降る中、男性が路上に広げた「小屋名しょうけ」などのザルを売っているところだ。左写真の左下のザルには口があるのがわかる。建物には「ツチノ商店」の看板も見える。場所は本町通りか安川通りかわからないが、右の写真からは、かなり幅の広い通りのように見える。
こんな雪の日の夜、家族で足繁く通った映画館からの帰りに、竹製のスキー板を買ってもらった。通りを滑りながら家に帰ったときのことは、昨夜の出来事のように蘇る。