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2017年5月

2017年5月23日 (火)

「むすびの地」大垣 ②

元禄2年3月(陽暦5月)、芭蕉は「深川」の庵を引き払って曾良とともに奥州・北陸への旅に出た。友人や門弟が「千住」まで見送りにきていた。矢立の初めの句は、「行春や・・・」とし、約150日600里の旅を終え、むすびの地大垣の句では、「・・・行秋ぞ」と締め括った。
大垣到着時、多くの門弟や友人が集まり、その様子は「蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる」と記されている。
生涯を通じて、芭蕉は何度も大垣に立ち寄っている。美濃、さらに尾張(名古屋)には、門弟が多く、熱心な支援者もいた。約2週間ほど大垣で滞在した芭蕉は、「伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて」川を下っていった。

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『野ざらし紀行』の旅で友人の谷木因を訪れて以来、芭蕉は合わせて4回大垣に立ち寄っている。船町の木因宅跡に記念館が建ち、水門川の港跡には二人の像もある。伸びやかな桜の枝に若葉が眩しく、左側にある住吉燈台も枝が隠していた。Dsc02650e実はこの水門川は城の外堀である。度重なる水害や空襲の被害があったにもかかわらず、現在に至るまでよく保全されており、大垣駅東の愛宕神社から船町までの約2㌔余りの川岸には『おくのほそ道』で詠まれた句碑が据えられ、遊歩道は「ミニおくのほそ道」となっている。
美濃、尾張など、この地域の芭蕉所縁の地をさらに巡ってみたいと思っている。

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2017年5月20日 (土)

「むすびの地」大垣 ①

伊賀とともに芭蕉にとって大切な町であり、「おくのほそ道むすびの地」でもある大垣を先日訪ねた。実は、幼少期の5年を飛騨高山で暮らしたあと、私は小学校1年生の夏から4年生まで大垣に住んでいたので、懐かしい場所にも行ってみることにした。

芭蕉ゆかりの地を見る前に大垣城に立ち寄った。
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上は父が昭和37年9月に撮った夜景。ライトアップされることを知って撮影に行ったのだと思う。下は今回訪問時の撮影。でも比較すると、どこか違っている。
空襲で焼けたため天守は昭和34年に復元された。ところが郡上八幡城を参考にしたため元の姿と異なる点が多く、6年前の改修時に外観が変更された。たしかに父の撮った写真では、窓が今より大きく、破風の意匠も若干今とは異なっている。
ではなぜ郡上八幡城が参考にされたかというと、戦前に再建された郡上八幡城が焼失前の大垣城をモデルにしていたから、というのだからややこしい話である。
2枚の写真とも西側の広場からのものだが、父の写真ではすでに松の木が高く、他の写真も見るとアングル決めで悩んだように思われる。現在では2本の木が城を隠しており、残念な気がする。美しい城の姿全体をゆっくり眺めたい人は多いと思うのだが。

城を見たあと、遊び場でもあった新善光寺にも立ち寄った。その近くの暮らしていた家はもうなかったが、当時はずいぶん長く感じた通学路を行くと、悲しいくらいあっという間に東小学校に着いてしまった。
東西に長く延びた南舎の姿を見ると、半世紀以上前の木造時の面影を残しているのが嬉しく、やはり間違いなく東小学校なのだった。下左写真は、昭和36年の運動会。めったに学校には来なかった父が写していた(右から2人目が小2の私)。
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しばし昔を偲んだあと、「おくのほそ道むすびの地」へと向かった。

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2017年5月19日 (金)

伊賀上野と柘植へ ➂

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帰り道に柘植に立ち寄るため名阪国道で15㌔ほど東へ走った。
まず「萬壽寺」を訪れた。門の右側に弟子の卓袋の句碑(一聲はつげの在所へほととぎす)がある。説明板には「・・・この柘植を在所と詠んだところに芭蕉さんとの連りを見る」とある。
Photo本堂内に「桃青殿」があり、しぐれ忌には献句が奉納されるという。ただ寺内に人影はなく、本堂に入るのは無理と思い、芭蕉の墓碑のあるところに降りた。ちょうど墓碑の側の花壇を整えている檀家の方がおられ、少しお話を聞くことができた。近くの「芭蕉公園」には是非寄って欲しいとのこと。さらに「誕生宅阯碑」への道順も詳しく教えて頂いた。親しみを込めて「芭蕉さん」という話し方が印象的であった。おそらく公園の整備にも尽力されておられる方なのであろう。墓所には松尾家のものといわれる墓碑が4つ並んでおり、囲いのある墓碑は「芭蕉翁桃青庵主」と読める。
今思えば、あの方ともっとお話すればよかったと後悔している。芭蕉について「予習」が足らなかった。

寺から少し上がったところに「芭蕉公園」がある。ここは「福地城跡」。石垣に歴史を感じる。公園は明治中頃に翁200年忌を記念して整備され、「臍の句碑」、「生誕之地」碑などが建てられている。山躑躅がきれいだった。明治26年建碑の「臍の句碑建設記念碑」に、オオミズアオが翅を広げて休んでいるのに出くわしてびっくり。
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最後に「誕生宅阯碑」。道順が複雑で探すのに苦労したが、なんとか辿り着いた。宅地の一角が美しく整えられ、小さな碑を大切に守りたいという願いが伝わってくる。
萬壽寺で出会った御老人の「芭蕉さん」という言葉を思い出しながらこの阯碑を見ると、この地の人たちが長く翁を慕い続けてきたことがわかる。生誕の地は、午前中に見た上野赤坂の地が学問的には定説なのであろうが、私にはどちらであってもかまわないと思い始めた。いや、どちらも翁のふるさとなのだ。
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余談。柘植に来てからは全く財布に触れることがなかったし、上野よりも歩く時間が長かったので芭蕉について考えることが多かったように思う。
ひたすら歩いてこそ、彼のことが理解できるのかもしれない。

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2017年5月18日 (木)

伊賀上野と柘植へ ②

公園を出て東へ10分ほど歩くと生家の塀が見え、「芭蕉翁生誕之地」の碑と句碑(古里や臍のをに泣としのくれ)がある。生家の入り口は塀の角を左に曲がったところにある。
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裏庭に、『貝おほひ』を記した「釣月軒」、弟子が芭蕉のために建てた「無名庵」の跡もある。月日は不明だが1644年この地に生まれ、29歳で江戸へ旅立つまで住んでいた場所といわれる。ところが生誕の地については異説もある(もうひとつの柘植の生家阯はこの日の午後に訪れた)。

さらに車で南へ5分ほど走る。
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「蓑虫庵」。上野にあった芭蕉ゆかりの五庵(無名庵、西麓庵、東麓庵、瓢竹庵、蓑虫庵)のなかで、後世に再興された唯一の庵とされる。弟子の服部土芳が1688年に開き、現在のものは昭和初期に整備された。ここには、芭蕉堂、茶室、いくつかの句碑・塚や土芳の供養墓(碧梧桐揮毫)もある。庭の草木は初夏の爽やかな色に染まり清々しい。
庵の茅葺屋根に貝殻(アワビ)が乗っていた。烏除け、だろうか。
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蓑虫庵でゆっくりしたので、すでに午後なってしまった。
柘植方面へ向かうために、名阪国道へ入ることにした。

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2017年5月16日 (火)

伊賀上野と柘植へ ①

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先週末、伊賀市へ行った。最近になって、もっと芭蕉のことを知りたいと思うようになっていたので、まずは生誕の地を訪ねてみることにした。日帰りなので要所だけの訪問にとどめた。最初に上野公園、芭蕉翁生家、蓑虫庵へ。午後は帰り道に、柘植の芭蕉公園、萬壽寺、そしてもう一つの生家阯へ。

最初に訪れたのは上野公園の「芭蕉翁記念館」。池には蓮と杜若。蜻蛉が無数に飛び交っていた。杜若は一番花だろうか。館内では「芭蕉の生涯」の企画展。
人生50年を8期に分け、発句・俳文・手紙などの資料が要領よく展示されており、私のように芭蕉に詳しくない者にとっても短時間で理解の進む内容だった。
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続いて「俳聖殿」へ。芭蕉の旅姿を表しているという。
上から、笠、顔、衣・簑、脚・杖。芭蕉生誕300年を記念し建設された。完成したのは構想から2年後の1942(昭和17)年とのこと。かの伊東忠太の設計指導があったという。

なお公園を散策中、慰霊碑を2つ見た。ひとつは戊辰戦争の戦死者を祀った「彰忠碑」、その横には「慰霊塔」と母子像があり、「慰霊塔」の前で祈る地元の方と思われる男性を見かけた。
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次回は、「芭蕉翁誕生之地」、そして「蓑虫庵」について。

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