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2017年6月

2017年6月28日 (水)

円解と加治田

芭蕉没後7年の1700(元禄13)年晩春、丈艸は亡き生母の卅七忌墓参のため犬山へ帰郷した後、美濃の関(惟然は旅のため不在)、加治田(光宗寺の円解)、蜂屋(梅本寺の如朴、魯九)、深田(兼松嘨風)のもとに立ち寄った。さらに名古屋にも出て露川と会っている。このころ魯九は丈艸の門下となり、翌元禄14年の夏に遁世して孤耕庵をむすんだと考えられる。丈艸と親交のあった加治田の円解(えんげ)和尚とはどのような人だったのだろうか。
  正月はどこまでわせた小松売
ひょっとしたらと思い、拾い読みしかしていなかった『古句を観る』(柴田宵曲)を捲ると、冒頭に円解の上掲の句があった。加治田は魯九の蜂屋の北隣にあたる。折から梅雨の中休み。早速訪ねることにした。

円解(円牙とも)は加治田の「光宗寺」七世で、市橋さんは魯九がこの人のもとで得度した可能性も示唆している。魯九とほとんど同年代の人であったと思われる。
現在の光宗寺は富加町加治田の集落にあるが、元禄のころにはそこから500㍍南東の寺洞の丘の上にあり、今は墓苑となっている。市橋さんの調査(S38)時、円解の骨は「よせ集めの五輪塔の下に眠っていた」とのこと。そもそも門徒寺に墓碑はないので、合葬墓のようなものだったのだろう。だが今回訪れたときには、それから半世紀以上も経っており、墓碑整理があったためか「五輪塔」は確認できなかった。墓苑中央に小さな広場があり、名号碑もあったので、おそらくこのあたりが旧寺の址であろうと想像した。
円解は1704(元禄17、3月宝永改元)年の師走に没している。まだ30歳に満たない早すぎる旅立ちだった。(丈艸はその2月に没している。)
円解辞世の句碑(下右)が光宗寺にある(市橋鐸 筆)。裏に「蕉門之俳士円解法師辞世」とある。
石の形が独特で、私には誰かが腰を屈め手を合わせている姿のようにも見えた。
  おんづめハかふでやあらふとゆき詠 (藪の花)
上五は「御詰」、座五は「雪詠(ゆきながめ)」。なお「藪の花」には、如朴、魯九、嘨風らが追悼句を寄せ、「此法師は よろづの道にいみじうかしこく はいかいは更なりしが 惜哉・・・」のことばも添えられている。
円解和尚のことをもっと知りたくなった。

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ところで、光宗寺のある岐阜県加茂郡富加町は、現存する日本最古の戸籍といわれる702年の「半布里(はにゅうり)戸籍」で知られている。江戸時代を通じ、この地域は大半が旗本領、幕府領であり、古くから交通、経済の要所でもあった。酒造業などによって豊かになった村人の中には、元禄期以降文芸活動に親しんだ者が多かった。

私は、中学校1年の秋から2年の終わりまで太田に住んでいたことがある。部活の試合などで友達と一緒に蜂屋や富加へもよく来たことがあった。今回この地域を久し振りぶりに見て当時と比べると、大きな工場が進出していることや道路が整備されているといった一部の変化はあるが、低い山に囲まれた田園の風景は、私の記憶そのままである。

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    ↑ 寺洞:光宗寺の旧址(推定)
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    ↑ 寺洞から現在の光宗寺(中央)付近を望む

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2017年6月24日 (土)

魯九と蜂屋 ②

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魯九の孤耕庵から西へ200㍍ほど行くと天神神社(↑)がある。
この神社のすぐ隣の北東側に今は失われた梅本寺があり、住職・俳僧の如朴とともに魯九は手習いの手伝いなどをしていたらしい。如朴は神社の宮司も兼ねていたと思われる。
蜂屋にはかなり以前から俳諧に親しむ人は多かったようで、そうした環境のなかに魯九は生まれ育っていたのである。梅本寺には名の知れた俳人が遠くからも訪れており、丈艸も先に述べた元禄13年にここを訪れているし、支考、露川、そしてあの惟然も立寄っている。
Dsc03270hhhh天神神社の入り口近くに真新しい句碑(左)を見つけた。魯九の句である。
 ちらちらと粉のうく柿や日の盛り
蜂屋の名は、「堂上蜂屋柿」で古くから知られている。大玉の渋柿を丹念に干してつくる。地元の瑞林寺仁済和尚が室町将軍に柿を献上して寺領を受けたり、関が原の戦いでは江国和尚らによって家康に献上され、やがて村への諸役免除が認められた。明治維新までの蜂屋の人々にとって、「柿百玉、米一俵」のことばに代表されるように、柿は自分たちの生活を守るための大きな手段でもあった。

魯九は庵にただ籠もっていたわけではなく、子どもも含め村人との交流はあったのだろうが、ときには近所に住む柴雪が、
  紙帳から田植を覗く庵主かな
と皮肉とも取れる句を詠んだり、彼自身にも、
  世に人にあちらむかれし寒さかな
の句があることからすると、村人から自由な身の世捨て人とみられても、彼自身は悲哀や淋しさをしばしば感じていたにちがいない。市橋さんは魯九について、「不生産的の人間で、生眞面目な生活ができなかった」のではないかと述べ、富裕な実家をもっていたために「氣随氣儘な生活」ができたのだろうとみている。

さて、魯九の孤耕庵から東へ500㍍ほど離れたところに「柿寺」の名をもつ瑞林寺(下写真)がある。
寺門を入って右側に昭和7年建碑の句碑があった。「蜂屋元禄俳人碑」である。丈艸研究者だった市橋さんによって碑名が書かれている。裏側には魯九や如朴など地元俳人の9句があり、それぞれの子孫の方、建碑協力者の名も刻されており、約300年余り前、この蜂屋の地で俳諧の文化が根付いていた証となっている。昭和初期に市橋さんが魯九と蜂屋を調査したことが建碑のきっかけになり、すでに忘れかけていた自分たちの祖先を思い起こし、顕彰することになったのである。

次回は円解のことを記す。

       瑞林寺参道          蜂屋元禄俳人碑
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2017年6月23日 (金)

魯九と蜂屋 ①

丈艸の足跡を辿る前に少々遠回りになるが、彼の唯一の門弟だった堀部魯九についてふれたい。彼は現在の美濃加茂市蜂屋町の人であった。最近蜂屋を訪ねたので数回に分けて記してみたい。
なお市橋鐸さんの『丈艸聚影』(1931/33年)、『史邦と魯九』(1937年)、『丈艸徒然草(下)』(1976年)、『丈艸遺蹟巡礼』(1950年)、さらに蜂屋郷土史研究会の『蜂屋の歴史』(1978年)も参考にしているので、それらの読書ノートも兼ねている。

丈艸の故里犬山の北、木曽川を挟んで対岸に江戸時代の中山(仙)道「鵜沼宿」(各務原市鵜沼)がある。そこからさらに川沿いに北東へ辿ると太田宿、現在の美濃加茂市太田町につながる。
丈艸は遁世してから京や近江で暮らすが、犬山帰郷ついでに太田宿周辺にも立ち寄り、そこから北へ少し脚を伸ばし、彼の唯一の門人といわれた魯九のいる蜂屋村にも訪れている(明確に確認できるのは元禄13年のみという)。

魯九(?~1724)が生まれたところは、現在の下蜂屋地区である。裕福な庄屋を務めたこともある堀部家一女二男の次男に生まれた。名は佐七郎といった。生年月日は不明であり、遁世前に妻があったか否かも定かではない。ただし市橋さんは露川の『孤耕庵賦』の記述を引用して、どうも妻があったらしいと推理されている。
魯九は若い頃、太田宿近くの深田村で兼松嘨風(末尾に関連写真あり)からすでに俳諧を学んでいたらしいが、丈艸との出会いは、丈艸の犬山帰郷(元禄13年)の際であった。翌元禄14年夏には丈艸から例の「贈新道心辞」(新道心ニ贈ル辞)が出家した魯九に送られている。「出家は出家以後の出家をとぐべきよしすゝめはげましぬ」のあとには、丈艸のよく知られた句が添えられている。
  蚊屋を出て又障子あり夏の月

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現在の下蜂屋の下東公民館裏手には少しこんもりとした小高い丘がある(上)。地元では茶磨山(ちゃずりやま)、あるいは曇華山(どんけやま)という名で語り継がれている。伝承では、この公民館のあたりに「曇華山《某寺》」があったらしいが、古い時代のことでもあり詳しくはわからない。
魯九は出家後、実家にほど近いここに「孤耕庵」をむすんだという。実家は裕福であり、おそらくその援助もあって、庵での生活に不自由はほとんどなかったであろう。丈艸の「仏幻庵」での生活に比べれば、魯九ははるかに恵まれていたと思われる。
庵のあった丘の南半分は手が加えられておらず、木が生い茂って土地の形状は全く隠されている。昭和初期この蜂屋を調査した市橋さんの文献には「孤耕庵址」の写真があるが、当時は畑になっており、柿や桑、濶葉樹が少しあったらしい。付近の方のお話では、今も土地所有者はいるが、かなり長い間放置されたままらしい。

露川は『孤耕庵賦』で庵の様子を次のように記した
美濃国蜂屋の里茶磨山の中段をならして 方三間の茅庵あり。三方は山林洗ふがごとくにして しげからず 花・紅葉・雪・時鳥の節を忘れず 花の木の便もよろし 紫門坤にひらけば 百田 もうろうとして 田かへし 田植 田苅 麥蒔すべて農業の折を見つくすなるべし。其中に一筋の往還 驛馬の鈴の音しばらくも止む事なければ 市店の通路もつたなからず 小草の靑き事 緞子といふ物を敷たるがごとく 寐よげに見ゆる若草山ともよむべし。以下略
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曇華山付近から見る坤(南西)の風景(↑)は宅地が増えたこと以外、当時も今もほとんど変わっていないかもしれない。ここからの見晴らしは格別のものがあり、たしかに「農業の折を見つくす」ことは今もできる。
次回も魯九について記す。


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◎兼松嘨風
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↑美濃加茂市深田の木曽川沿いから太田橋 中濃大橋方面を望む。
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↑深田の木曽川沿岸にある「深田スポット公園」
このあたり、今は中山道が消えている箇所のため、旧街道を歩いて制覇しようという方がよく通る。手前の大きな石碑には、冬の木曽川を詠んだ嘨風の次の句が刻まれている。
  山間の雪の中から筏かな (「國の華」第四巻 藪の花)
ただしこの句の情景は、深田からさらに五里ほど上流の当時木曽材木の縄場のあった八百津町錦織付近とみられる。 

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2017年6月10日 (土)

地元の蕉門の人々

芭蕉を訪ねて、伊賀上野、柘植、大垣と辿ってきた。
次は江戸「深川」さらに大津の「義仲寺」などにも行かなくては、と思いながらそれはまたの機会とし、これからは蕉門のなかで、とくに地元の犬山や岐阜に縁のある身近な俳人の足跡をみたくなった。とくに内藤丈草(犬山)、広瀬惟然(関)、各務支考(岐阜)など。

自分では、俳句を本格的に鑑賞したり嗜んだりするつもりは今のところはないけれど、300年以上前の地元の美濃や尾張でも俳諧を愉しむ人が増え、さらには全国的に人々の交流やネットワークがあったことは驚きでもあり興味深いことでもある。
手始めに丈草(丈艸)と惟然について少し調べ始めているが、肝心の俳諧のことよりも彼らの生き方そのものに興味が尽きない。これからしばらくは、彼らに縁のある場所を巡る小さな旅に出ようかと思う。

次回からは、犬山に生まれた「内藤丈草」について先ず記す。
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