魯九と蜂屋 ①
丈艸の足跡を辿る前に少々遠回りになるが、彼の唯一の門弟だった堀部魯九についてふれたい。彼は現在の美濃加茂市蜂屋町の人であった。最近蜂屋を訪ねたので数回に分けて記してみたい。
なお、市橋鐸さんの『丈艸聚影』(1931/33年)、『史邦と魯九』(1937年)、『丈艸徒然草(下)』(1976年)、『丈艸遺蹟巡礼』(1950年)、さらに蜂屋郷土史研究会の『蜂屋の歴史』(1978年)も参考にしているので、それらの読書ノートも兼ねている。
丈艸の故里犬山の北、木曽川を挟んで対岸に江戸時代の中山(仙)道「鵜沼宿」(各務原市鵜沼)がある。そこからさらに川沿いに北東へ辿ると太田宿、現在の美濃加茂市太田町につながる。
丈艸は遁世してから京や近江で暮らすが、犬山帰郷ついでに太田宿周辺にも立ち寄り、そこから北へ少し脚を伸ばし、彼の唯一の門人といわれた魯九のいる蜂屋村にも訪れている(明確に確認できるのは元禄13年のみという)。
魯九(?~1724)が生まれたところは、現在の下蜂屋地区である。裕福な庄屋を務めたこともある堀部家一女二男の次男に生まれた。名は佐七郎といった。生年月日は不明であり、遁世前に妻があったか否かも定かではない。ただし市橋さんは露川の『孤耕庵賦』の記述を引用して、どうも妻があったらしいと推理されている。
魯九は若い頃、太田宿近くの深田村で兼松嘨風(末尾に関連写真あり)からすでに俳諧を学んでいたらしいが、丈艸との出会いは、丈艸の犬山帰郷(元禄13年)の際であった。翌元禄14年夏には丈艸から例の「贈新道心辞」(新道心ニ贈ル辞)が出家した魯九に送られている。「出家は出家以後の出家をとぐべきよしすゝめはげましぬ」のあとには、丈艸のよく知られた句が添えられている。
蚊屋を出て又障子あり夏の月
現在の下蜂屋の下東公民館裏手には少しこんもりとした小高い丘がある(上)。地元では茶磨山(ちゃずりやま)、あるいは曇華山(どんけやま)という名で語り継がれている。伝承では、この公民館のあたりに「曇華山《某寺》」があったらしいが、古い時代のことでもあり詳しくはわからない。
魯九は出家後、実家にほど近いここに「孤耕庵」をむすんだという。実家は裕福であり、おそらくその援助もあって、庵での生活に不自由はほとんどなかったであろう。丈艸の「仏幻庵」での生活に比べれば、魯九ははるかに恵まれていたと思われる。
庵のあった丘の南半分は手が加えられておらず、木が生い茂って土地の形状は全く隠されている。昭和初期この蜂屋を調査した市橋さんの文献には「孤耕庵址」の写真があるが、当時は畑になっており、柿や桑、濶葉樹が少しあったらしい。付近の方のお話では、今も土地所有者はいるが、かなり長い間放置されたままらしい。
露川は『孤耕庵賦』で庵の様子を次のように記した。
≪美濃国蜂屋の里茶磨山の中段をならして 方三間の茅庵あり。三方は山林洗ふがごとくにして しげからず 花・紅葉・雪・時鳥の節を忘れず 花の木の便もよろし 紫門坤にひらけば 百田 もうろうとして 田かへし 田植 田苅 麥蒔すべて農業の折を見つくすなるべし。其中に一筋の往還 驛馬の鈴の音しばらくも止む事なければ 市店の通路もつたなからず 小草の靑き事 緞子といふ物を敷たるがごとく 寐よげに見ゆる若草山ともよむべし。以下略≫
曇華山付近から見る坤(南西)の風景(↑)は宅地が増えたこと以外、当時も今もほとんど変わっていないかもしれない。ここからの見晴らしは格別のものがあり、たしかに「農業の折を見つくす」ことは今もできる。
次回も魯九について記す。
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◎兼松嘨風
↑美濃加茂市深田の木曽川沿いから太田橋 中濃大橋方面を望む。
↑深田の木曽川沿岸にある「深田スポット公園」
このあたり、今は中山道が消えている箇所のため、旧街道を歩いて制覇しようという方がよく通る。手前の大きな石碑には、冬の木曽川を詠んだ嘨風の次の句が刻まれている。
山間の雪の中から筏かな (「國の華」第四巻 藪の花)
ただしこの句の情景は、深田からさらに五里ほど上流の当時木曽材木の縄場のあった八百津町錦織付近とみられる。
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