魯九と蜂屋 ②
魯九の孤耕庵から西へ200㍍ほど行くと天神神社(↑)がある。
この神社のすぐ隣の北東側に今は失われた梅本寺があり、住職・俳僧の如朴とともに魯九は手習いの手伝いなどをしていたらしい。如朴は神社の宮司も兼ねていたと思われる。
蜂屋にはかなり以前から俳諧に親しむ人は多かったようで、そうした環境のなかに魯九は生まれ育っていたのである。梅本寺には名の知れた俳人が遠くからも訪れており、丈艸も先に述べた元禄13年にここを訪れているし、支考、露川、そしてあの惟然も立寄っている。天神神社の入り口近くに真新しい句碑(左)を見つけた。魯九の句である。
ちらちらと粉のうく柿や日の盛り
蜂屋の名は、「堂上蜂屋柿」で古くから知られている。大玉の渋柿を丹念に干してつくる。地元の瑞林寺仁済和尚が室町将軍に柿を献上して寺領を受けたり、関が原の戦いでは江国和尚らによって家康に献上され、やがて村への諸役免除が認められた。明治維新までの蜂屋の人々にとって、「柿百玉、米一俵」のことばに代表されるように、柿は自分たちの生活を守るための大きな手段でもあった。
魯九は庵にただ籠もっていたわけではなく、子どもも含め村人との交流はあったのだろうが、ときには近所に住む柴雪が、
紙帳から田植を覗く庵主かな
と皮肉とも取れる句を詠んだり、彼自身にも、
世に人にあちらむかれし寒さかな
の句があることからすると、村人から自由な身の世捨て人とみられても、彼自身は悲哀や淋しさをしばしば感じていたにちがいない。市橋さんは魯九について、「不生産的の人間で、生眞面目な生活ができなかった」のではないかと述べ、富裕な実家をもっていたために「氣随氣儘な生活」ができたのだろうとみている。
さて、魯九の孤耕庵から東へ500㍍ほど離れたところに「柿寺」の名をもつ瑞林寺(下写真)がある。
寺門を入って右側に昭和7年建碑の句碑があった。「蜂屋元禄俳人碑」である。丈艸研究者だった市橋さんによって碑名が書かれている。裏側には魯九や如朴など地元俳人の9句があり、それぞれの子孫の方、建碑協力者の名も刻されており、約300年余り前、この蜂屋の地で俳諧の文化が根付いていた証となっている。昭和初期に市橋さんが魯九と蜂屋を調査したことが建碑のきっかけになり、すでに忘れかけていた自分たちの祖先を思い起こし、顕彰することになったのである。
次回は円解のことを記す。
瑞林寺参道 蜂屋元禄俳人碑
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