円解と加治田
芭蕉没後7年の1700(元禄13)年晩春、丈艸は亡き生母の卅七忌墓参のため犬山へ帰郷した後、美濃の関(惟然は旅のため不在)、加治田(光宗寺の円解)、蜂屋(梅本寺の如朴、魯九)、深田(兼松嘨風)のもとに立ち寄った。さらに名古屋にも出て露川と会っている。このころ魯九は丈艸の門下となり、翌元禄14年の夏に遁世して孤耕庵をむすんだと考えられる。丈艸と親交のあった加治田の円解(えんげ)和尚とはどのような人だったのだろうか。
正月はどこまでわせた小松売
ひょっとしたらと思い、拾い読みしかしていなかった『古句を観る』(柴田宵曲)を捲ると、冒頭に円解の上掲の句があった。加治田は魯九の蜂屋の北隣にあたる。折から梅雨の中休み。早速訪ねることにした。
円解(円牙とも)は加治田の「光宗寺」七世で、市橋さんは魯九がこの人のもとで得度した可能性も示唆している。魯九とほとんど同年代の人であったと思われる。
現在の光宗寺は富加町加治田の集落にあるが、元禄のころにはそこから500㍍南東の寺洞の丘の上にあり、今は墓苑となっている。市橋さんの調査(S38)時、円解の骨は「よせ集めの五輪塔の下に眠っていた」とのこと。そもそも門徒寺に墓碑はないので、合葬墓のようなものだったのだろう。だが今回訪れたときには、それから半世紀以上も経っており、墓碑整理があったためか「五輪塔」は確認できなかった。墓苑中央に小さな広場があり、名号碑もあったので、おそらくこのあたりが旧寺の址であろうと想像した。
円解は1704(元禄17、3月宝永改元)年の師走に没している。まだ30歳に満たない早すぎる旅立ちだった。(丈艸はその2月に没している。)
円解辞世の句碑(下右)が光宗寺にある(市橋鐸 筆)。裏に「蕉門之俳士円解法師辞世」とある。
石の形が独特で、私には誰かが腰を屈め手を合わせている姿のようにも見えた。
おんづめハかふでやあらふとゆき詠 (藪の花)
上五は「御詰」、座五は「雪詠(ゆきながめ)」。なお「藪の花」には、如朴、魯九、嘨風らが追悼句を寄せ、「此法師は よろづの道にいみじうかしこく はいかいは更なりしが 惜哉・・・」のことばも添えられている。
円解和尚のことをもっと知りたくなった。
ところで、光宗寺のある岐阜県加茂郡富加町は、現存する日本最古の戸籍といわれる702年の「半布里(はにゅうり)戸籍」で知られている。江戸時代を通じ、この地域は大半が旗本領、幕府領であり、古くから交通、経済の要所でもあった。酒造業などによって豊かになった村人の中には、元禄期以降文芸活動に親しんだ者が多かった。
私は、中学校1年の秋から2年の終わりまで太田に住んでいたことがある。部活の試合などで友達と一緒に蜂屋や富加へもよく来たことがあった。今回この地域を久し振りぶりに見て当時と比べると、大きな工場が進出していることや道路が整備されているといった一部の変化はあるが、低い山に囲まれた田園の風景は、私の記憶そのままである。
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