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2017年7月

2017年7月29日 (土)

寺尾直龍 ①

P1000136gggggg_3寺尾直龍の墓碑が犬山の臨渓院にある。この寺は二代犬山城主成瀬正虎、つまり直龍の父の菩提寺であり、直龍も正虎から少し離れたところに眠っている。
法名は「正燈院殿 慈雲玄定居士」。この「慈雲」の文字に関わることについては次回に記す。

市橋さんは『尾藩知名人年譜抄(4)』で直龍の詳しい年譜をまとめている。ただし典拠とされた「成瀬家家譜」「寺尾直龍(公)年譜」「往跡略記」などについては今すぐ見ることができないので、「年譜抄」の一部は参考にしたものの、私なりに確認できる別の資料も加えながら、直龍について2回に分けて記してみたい。

◎直龍が寺尾家に入った背景
1650(慶長3)年、二代尾張藩主徳川義直逝去の際に、寺尾直政という重臣ら数名が殉死している。このとき三代藩主となった光友(光義)は寺尾家の断絶を避けるため、成瀬家から直龍を継嗣として寺尾家に入れたのである。
そもそも直政が殉死した背景には、主君に強い恩義を感じる出来事があった。江戸の屋敷で直政が佐々又左衛門と論争中に脇差しで傷を負わせるという事件である。非は切りつけた直政にあった。しかし又左衛門側は子を含め切腹となったにもかかわらず、直政に大した咎めはなかった。したがって直政はこの恩義によって殉死したといわれる。
直龍は直政の八千石を引き継ぎ、実父成瀬正虎からも新田二千石を譲り受け、一万石をもつ尾張藩有数の重臣となったのである。

◎直龍の政治
やがて直龍は、年寄役となって藩政に参与することになる。彼の性格や政治姿勢について、市橋さんは生一本で、他の老臣から煙たがられ、反発を受けたために若くして蟄居の身となったと記している
ただし彼の政治姿勢をみると、貧民に手厚い処置を施したり、新田開発に積極的であったり、減税などの温情ある政策を行い、ときには主君の好色、乱費を諫めてもいる。
だが何度も藩主に政策の提言を出そうとしても反対派の妨害にあい、さらに藩と役人の不正を糺す試みなども挫折している。
老獪な家臣、直政時代の旧臣下たちからすれば、世間知らずで融通の利かない一本調子の直龍に手を焼いていたということであろう。彼が精神的病(狂疾)によって蟄居させられたと記す者もあるが、むしろ彼の実直、清廉さが政治には向いておらず、その純粋な理想主義は濁世に溺れ挫折し、周囲に追い詰められて自ら身を引いたというのが事実に近いと思われる。
《ただし、この時期(17世紀中頃)の尾張藩の内情をみると、幕府による「キリシタン」への厳しい取締りに関して、成瀬正虎、寺尾直龍の2人とも信徒に同情的であったのではないかとの言い伝えもある。とりわけ直龍蟄居の理由としてキリシタン問題を指摘する文献もあり、市橋さんもその可能性を示唆している。このことは別に記したいと思う。》

◎蟄居
直龍が犬山に蟄居となったのは1675(延宝3)年、まだ30歳を過ぎたばかりのことである。犬山行きには、寺尾家の家臣はほとんど付き添っていないが、侍医の中村春庵(史邦)が同行していたという。彼は丈艸の将来を変えた人でもある。
結果的に林右衛門(丈艸)を含む内藤家が直龍の世話係として仕えることになり、余生は親族に委ねられたのである。
直龍はそれから約50年ほど後の1728(享保8)年に逝去しているから、その人生の大半は隠居生活だったことになる。

ここまで調べていて、ひとつ気になったことがある。
直龍が蟄居になる前年夏、「病香しからず 知多郡 大の浦に潮湯治」という記述があったことである。大の浦とは、鴨長明が訪れたといわれる知多の「大野浦」である。気疲れを癒やすための湯治だったのであろうが、「知多」という地名が気になり調べてみた。詳細は次回記すが、通説としての直龍像の理解では、彼を主君として仕えた丈艸のことも本当はわからないのではないかと思い、やや本筋を離れることを承知で直龍と知行地のあった知多の深い関わりについてもう少し考えてみたい。

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2017年7月25日 (火)

松壽院のこと

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上の写真は名古屋市昭和区の養林寺である。ここに丈艸の伯母にあたる「松壽院」が眠っていると知り、数日前に出かけた。
この人は、丈艸が若いころに犬山で仕えることになる「寺尾直龍」の生母であり、丈艸や内藤家の運命を大きく変えた人であった。
下の図は『丈艸伝記考説』(市川鐸)などにある系図を簡略化して作り直したものである。
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内藤家は、もともと信州小諸城主依田康国に仕えていたらしいが、康国の跡を継いだ康勝に従って、仁右衛門・源左衛門の時代には、ともに越前に移っていたと思われる(康勝は越前松平家宗主の結城秀康の家臣となったため)。ところが、父源左衛門の姉である松壽院が何かの縁で犬山城主成瀬正虎の江戸屋敷にいたところ、正虎の寵愛を得、直龍が生まれたのである。
その後直龍の元服を機に、内藤家は平兵衛を越前に残し、成瀬家から異例の厚遇を得て召し抱えられることになり、越前から尾張犬山に移ってきたのである。
(成瀬氏は尾張藩家老ではあるが付家老として約三万五千石を領し、犬山城主として大きな勢力をもっており、実質は大名格である。しかし江戸期をとおして藩としては認められず、ようやく明治新政府になってから「犬山藩」として処遇された。)

しかし尾張に来てからの内藤家は、成瀬家の家臣団からは必ずしも歓迎されてはいなかったであろう。会社で言えば、いわば親族の七光りで突然採用され、なおかつ異例とも言える厚遇を受けた者を、古参の社員がよく思うはずはない。源左衛門は周囲に遠慮もし、静かに目立たず奉公する毎日だったのではないだろうか。
やがて直龍は、断絶の危機にあった寺尾家の養子となり、尾張藩の要職を務めることになる。その直龍の将来は内藤家にとって、そして丈艸にとってもさらに大きな転機をもたらすことになるが、それは次回以降に譲る。

名古屋市昭和区の住宅街、南から北にかけて少し小高くなったところに「養林寺」がある。寺の北側が墓地になっており、その西側に今は無縁となった墓石群が整然と並ぶ。彼女の墓は、他の墓に比べ、極めて大きく、しかも立派な五輪塔なのである。周りの無縁墓をあたかも従えるかのように彼女は中央に立ち、石段7つの上から威厳をもって墓全体を眺めているかのようにみえる。
碑銘は、「松壽院殿 法譽貞春 大襌定尼」と3行あり、その右と左には一部読めないが「寛文五□□□」、「八月□□□」とある。記録では「寛文五乙巳暦」 「八月廿七日」と刻されているらしい。1665(寛文5)年といえば、子の直龍はすでに年寄役として藩政に参画していたころである。丈艸はまだ3歳になったばかりであった。
彼女は内藤家にとって「救いの女神」だったと市橋さんは記している。彼女なしには内藤家の歴史は語ることはできず、丈艸の人生も別ものであったかもしれない。

*なお、同寺には幕末尾張の「青松葉事件」で処刑された
  榊原勘解由の墓石(追悼墓)も、最近建てられたもので
  あるが認めることができる。

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2017年7月20日 (木)

指の痛み

前回紹介した「丈草(艸)別れ乃岩」のある堤から対岸に目を移すと、間近に屹立する大きな岩山を認めることができる。戦国期には「鵜沼城」(宇留間城)があったとされ、「石頭山」ともいわれた城山である。
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この岩山を眺めていると、何やら物語のひとつも書きたくなるし、ここがあれこれ粉飾を交えて言い伝えられた丈艸遁世の舞台となったことも頷ける。なかなか出家が認められなかった丈艸は、この城山に登って拇(右手親指)を切断し、武士を捨てる口実としたというものである。そのとき城山で詠んだといわれる詩も伝わってはいる(『犬山里語記』など)が、それは『碧巌録』にある「俱胝指頭禅」という公案に基づいたものらしい。丈艸も若いころの参禅でこの公案を知ったことであろう。指と腕の違いはあるが、慧可の雪中断臂のことを連想させる。いずれにせよ指を切ったという確証はなく、後世の作り話と考えられる。
丈艸遁世の経緯は、今では去来の「丈艸ガ誄」(『幻の庵』)の記すところにほぼ落ち着くのかもしれないし、あれこれ勝手な想像をすべきではない。

常の物語には指の痛有りて刀の柄握るべくもあらねばかく法師には成侍ると也。或(人)の云へるは其弟に家禄讓り侍らんと兼て人しれず志ありて病には言寄せられけるとなむ

「指の痛」はリウマチかもしれないというのが市橋さんのひとつの推測であるが、何らかの持病を抱えていたらしく、晩年まで「火燵」が彼の庵の本尊であり、手放せない日々であったともいう(「守りゐる火燵を菴の本尊哉」)。


次回は、丈艸が仕えた寺尾直龍の母であり、内藤家の運命を大きく変えた伯母の眠る
名古屋市の「養林寺」を訪ねる。

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2017年7月12日 (水)

丈艸別れ乃岩

丈艸の門葉堀部魯九のこと、そして関連する岐阜・美濃の各地の俳人をこれまで見てきたが、これからは内藤丈艸について記す。
前にも書いたが、私は俳諧そのものはよく分からないし、句を嗜むこともしていない。ただし芭蕉をはじめとする江戸時代(とくに元禄期ごろ)の俳人たちには何故か心が引かれるが、その理由は自分でもうまく説明できないでいる。彼らに関心をもったのは、彼らの発句から受ける印象からなのか、それとも彼らの生き方なのか、あるいは丈艸が地元出身の人であり、魯九が生活していたのが美濃蜂屋だったからなのか、結句いずれも理由の候補ではあっても、どれかに絞ることはできない。彼らのことを書き記し足跡を追うことのなかで、ひょっとしたらその理由がもっとはっきりしてくるのかもしれない。

さて、これからしばらく丈艸について、年表風に記すことはせず、思いつくまま記してみたい。そしてできる限り丈艸所縁の今の風景を見てみたいと思う。

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◎「丈艸別れ乃岩

犬山と鵜沼の間を結ぶ木曽川の犬山橋。その上流犬山側50㍍ほどに鵜飼舟の乗り場がある。そこに「丈草(艸)別れ乃岩」と刻された約60㌢ほどの標柱を認めることが出来る。堤の法面に忘れられたように淋しく、かろうじて残っているかのような標柱は、1953(昭和28)年丈艸350年忌事業のひとつとして建てられたものという。ここにそれがあるということを予め知っていない人は、おそらく全く見向きもしないであろう。
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丈艸27歳、元禄元年八月遁世。
内藤家系譜には「病気にて御奉公相難勤奉存出去遁世仕候」と。
付け人一人とともに、この内田の渡しから彼は故郷の人たちに別れを告げて旅立ったという。その場面は、『尾張名所図会』にも「丈艸遯世して故郷を去る圖」として劇的に描かれている。彼が士分を捨て、継母の子に家督を譲って遁世した背景については次回記す。

*ニュース:今日の犬山は午後激しい雷雨に見まわれた。犬山城のシャチホコの片方が落雷で破損したとのこと。

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2017年7月 5日 (水)

魯九の晩年

さて、魯九については今回で終わりたい。
丈艸亡き後、魯九は露川に入門し、丈艸一周忌ごろには西国へ旅に出た。中国地方からさらに九州各地にまで脚を運び、長崎にも立ち寄った。この旅行記は『春の鹿』と伝えられている。
1710(宝永6)年には丈艸7回忌法要が魯九によって営まれ、名古屋の露川も蜂屋の孤耕庵を訪れたという。翌1711年、旧知の惟然が世を去っている。
1715(正徳5)年、蜂屋の北隣の加治田村で「菊合」が行われた。
場所は白華山清水寺(下写真)。その記念誌が『清水菊合扇の傳』として今に伝えられている。序文・編者は平井冬音で、跋文は魯九。菊花の名、評価の記録とともに、近在の人たちによる和歌、漢詩、発句などが収められ、付録として清水寺八景の図もある。文之字屋平井家の俳諧・漢詩をはじめとする文芸への情熱が結実したものであった。なお、この清水寺と京都の清水寺との深い因縁についてはここでは省く。
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      ↑ 白華山清水寺「二天門」 (2017年6月撮影)       
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       ↑ 『扇の傳』 
          「花開く加治田の文芸」(2006年展示パンフ)より

その後魯九は再び旅に出ている。1726(享保11)年のことである。今度は「おくのほそ道」を翁とは逆順に辿るものであった。その間、鶴岡では草庵をむすび、翁卅三回忌、師丈艸の廿三回忌を行ったりもした。旅の記は『雪白河』として残された。
だが旅から帰ったあとの魯九には目立った活動はみられない。魯九にとってかけがえのない人であった梅本寺の如朴が1729(享保14)年に没し、さらには、おそらく魯九を陰で支え続けていてくれた本家の兄も1731(享保16)年に亡くなった。身の回りから親しい者が世を去り、元禄期蜂屋・加治田・深田の文芸隆盛を支えた人々も過去の人となってゆく。
1743(寛保3)年、魯九閉眼。生年不明のため没年齢はわからないが、私は60歳代後半ではなかったかと推測している。
なお蜂屋にある魯九の墓の隣には経塚があり、丈艸の一周忌ごろには望みを遂げたという。市橋さんが昭和初期調査したとき、その20年前までは塚付近の小石にはあきらかに経文の文字が読めるものがあったとのこと。ただし碑文からは魯九が建てたものかどうかは明確にわからないという。

◎魯九の句については、これまであまり触れなかった。そこで、
  柴田宵曲の『古句を観る』のなかで取り上げられている数句
   を最後に記す。なお魯九の句が見える俳書は、市橋さんに
   よると47、句数は241あるという(『孤耕庵魯九』より)。

 尺八の庵は遠しおぼろ月
 五月雨や夕陽しばらく雲のやれ
 さはさはと風の夕日や末若葉 
 若竹に晴たる月のしろさかな


偶然かもしれないが、月や夕刻の情景の句が載っている。
4句目の「しろさかな」について、宵曲は「実感に繋がる言葉は、
一見平凡のようで然らざるものがある」と述べている。

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2017年7月 4日 (火)

魯九 近江へ

再び魯九のことに戻る。

丈艸の晩年は「無名庵」でひたすら師の供養につとめる日々であったが、やがて「佛幻庵」に移り、1704(元禄17)年二月下旬帰らぬ人となった。その前年初冬、丈艸は魯九に便りを送った。自身の体調のこと、経塚を建てること、法華経千部が間もなく書き終わることなどを記していた。ところが年が明け三月になって魯九は名古屋の露川から丈艸の異変を知り、急いで旅支度をした。
だが龍ケ岡に辿り着いたのは三月も半ば。すでに師の姿は消え去り、初月忌も目の前であった。五七日の後に蜂屋へ戻った魯九は、悲しみに暮れつつも早速師の追悼句集を作ろうとして奔走したらしい。七七日の追善は孤耕庵で催し、追悼集準備のことも話し合われた。そして嘨風らの援助も受け、五月に完成したのが『幻乃庵』である。当時の印刷事情を考えると異例の速さだった。
鳥落人(惟然)がその序で「長等山の續き西の岡の佛幻庵も今まぼろしの庵とはなりけり」と記し、書名もこれに従ったと思われる。『幻乃庵』の詳細は、丈艸のことを記す際に触れる。

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↑龍ケ岡俳人墓地(丈艸の佛幻庵址):膳所駅南の国道1号線沿い。
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丈艸佛幻庵址碑」
左側面には、「昭和44年2月24日
建立 市橋鐸 書」とある。
佛幻庵の正確な場所は、今となっ
ては不明だが、この墓地の周辺に
あったと推定されている。
市橋さんによる墓地調査などの記
録は、いずれ丈艸について述べる
ときに詳しく触れる。



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↑蕉門俳人らの供養塔群。
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↑ 左:丈艸所縁の経塚  右:丈艸の墓碑


*上掲写真は2017年7月2日撮影。
 なお、この墓地には最近置かれた墓碑もあり、意外だった。
 昨年没した作家の伊藤桂一氏の碑もあった。戦記文学で知られ、
  私も好きな作家である。そういえば、惟然の「弁慶庵」(関市)にも
 彼の色紙が貼ってあり興味深かった。彼が「落柿舎」の運営に深く
 関わったこと、句集もあることなどを知ったのはつい最近であった。

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