指の痛み
前回紹介した「丈草(艸)別れ乃岩」のある堤から対岸に目を移すと、間近に屹立する大きな岩山を認めることができる。戦国期には「鵜沼城」(宇留間城)があったとされ、「石頭山」ともいわれた城山である。
この岩山を眺めていると、何やら物語のひとつも書きたくなるし、ここがあれこれ粉飾を交えて言い伝えられた丈艸遁世の舞台となったことも頷ける。なかなか出家が認められなかった丈艸は、この城山に登って拇(右手親指)を切断し、武士を捨てる口実としたというものである。そのとき城山で詠んだといわれる詩も伝わってはいる(『犬山里語記』など)が、それは『碧巌録』にある「俱胝指頭禅」という公案に基づいたものらしい。丈艸も若いころの参禅でこの公案を知ったことであろう。指と腕の違いはあるが、慧可の雪中断臂のことを連想させる。いずれにせよ指を切ったという確証はなく、後世の作り話と考えられる。
丈艸遁世の経緯は、今では去来の「丈艸ガ誄」(『幻の庵』)の記すところにほぼ落ち着くのかもしれないし、あれこれ勝手な想像をすべきではない。
≪常の物語には指の痛有りて刀の柄握るべくもあらねばかく法師には成侍ると也。或(人)の云へるは其弟に家禄讓り侍らんと兼て人しれず志ありて病には言寄せられけるとなむ。≫
「指の痛」はリウマチかもしれないというのが市橋さんのひとつの推測であるが、何らかの持病を抱えていたらしく、晩年まで「火燵」が彼の庵の本尊であり、手放せない日々であったともいう(「守りゐる火燵を菴の本尊哉」)。
次回は、丈艸が仕えた寺尾直龍の母であり、内藤家の運命を大きく変えた伯母の眠る名古屋市の「養林寺」を訪ねる。
| 固定リンク
コメント