丈艸別れ乃岩
丈艸の門葉堀部魯九のこと、そして関連する岐阜・美濃の各地の俳人をこれまで見てきたが、これからは内藤丈艸について記す。
前にも書いたが、私は俳諧そのものはよく分からないし、句を嗜むこともしていない。ただし芭蕉をはじめとする江戸時代(とくに元禄期ごろ)の俳人たちには何故か心が引かれるが、その理由は自分でもうまく説明できないでいる。彼らに関心をもったのは、彼らの発句から受ける印象からなのか、それとも彼らの生き方なのか、あるいは丈艸が地元出身の人であり、魯九が生活していたのが美濃蜂屋だったからなのか、結句いずれも理由の候補ではあっても、どれかに絞ることはできない。彼らのことを書き記し足跡を追うことのなかで、ひょっとしたらその理由がもっとはっきりしてくるのかもしれない。
さて、これからしばらく丈艸について、年表風に記すことはせず、思いつくまま記してみたい。そしてできる限り丈艸所縁の今の風景を見てみたいと思う。
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◎「丈艸別れ乃岩」
犬山と鵜沼の間を結ぶ木曽川の犬山橋。その上流犬山側50㍍ほどに鵜飼舟の乗り場がある。そこに「丈草(艸)別れ乃岩」と刻された約60㌢ほどの標柱を認めることが出来る。堤の法面に忘れられたように淋しく、かろうじて残っているかのような標柱は、1953(昭和28)年丈艸350年忌事業のひとつとして建てられたものという。ここにそれがあるということを予め知っていない人は、おそらく全く見向きもしないであろう。
丈艸27歳、元禄元年八月遁世。
内藤家系譜には「病気にて御奉公相難勤奉存出去遁世仕候」と。
付け人一人とともに、この内田の渡しから彼は故郷の人たちに別れを告げて旅立ったという。その場面は、『尾張名所図会』にも「丈艸遯世して故郷を去る圖」として劇的に描かれている。彼が士分を捨て、継母の子に家督を譲って遁世した背景については次回記す。
*ニュース:今日の犬山は午後激しい雷雨に見まわれた。犬山城のシャチホコの片方が落雷で破損したとのこと。
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