魯九の晩年
さて、魯九については今回で終わりたい。
丈艸亡き後、魯九は露川に入門し、丈艸一周忌ごろには西国へ旅に出た。中国地方からさらに九州各地にまで脚を運び、長崎にも立ち寄った。この旅行記は『春の鹿』と伝えられている。
1710(宝永6)年には丈艸7回忌法要が魯九によって営まれ、名古屋の露川も蜂屋の孤耕庵を訪れたという。翌1711年、旧知の惟然が世を去っている。
1715(正徳5)年、蜂屋の北隣の加治田村で「菊合」が行われた。
場所は白華山清水寺(下写真)。その記念誌が『清水菊合扇の傳』として今に伝えられている。序文・編者は平井冬音で、跋文は魯九。菊花の名、評価の記録とともに、近在の人たちによる和歌、漢詩、発句などが収められ、付録として清水寺八景の図もある。文之字屋平井家の俳諧・漢詩をはじめとする文芸への情熱が結実したものであった。なお、この清水寺と京都の清水寺との深い因縁についてはここでは省く。
↑ 白華山清水寺「二天門」 (2017年6月撮影)
↑ 『扇の傳』
「花開く加治田の文芸」(2006年展示パンフ)より
その後魯九は再び旅に出ている。1726(享保11)年のことである。今度は「おくのほそ道」を翁とは逆順に辿るものであった。その間、鶴岡では草庵をむすび、翁卅三回忌、師丈艸の廿三回忌を行ったりもした。旅の記は『雪白河』として残された。
だが旅から帰ったあとの魯九には目立った活動はみられない。魯九にとってかけがえのない人であった梅本寺の如朴が1729(享保14)年に没し、さらには、おそらく魯九を陰で支え続けていてくれた本家の兄も1731(享保16)年に亡くなった。身の回りから親しい者が世を去り、元禄期蜂屋・加治田・深田の文芸隆盛を支えた人々も過去の人となってゆく。
1743(寛保3)年、魯九閉眼。生年不明のため没年齢はわからないが、私は60歳代後半ではなかったかと推測している。
なお蜂屋にある魯九の墓の隣には経塚があり、丈艸の一周忌ごろには望みを遂げたという。市橋さんが昭和初期調査したとき、その20年前までは塚付近の小石にはあきらかに経文の文字が読めるものがあったとのこと。ただし碑文からは魯九が建てたものかどうかは明確にわからないという。
◎魯九の句については、これまであまり触れなかった。そこで、
柴田宵曲の『古句を観る』のなかで取り上げられている数句
を最後に記す。なお魯九の句が見える俳書は、市橋さんに
よると47、句数は241あるという(『孤耕庵魯九』より)。
尺八の庵は遠しおぼろ月
五月雨や夕陽しばらく雲のやれ
さはさはと風の夕日や末若葉
若竹に晴たる月のしろさかな
偶然かもしれないが、月や夕刻の情景の句が載っている。
4句目の「しろさかな」について、宵曲は「実感に繋がる言葉は、
一見平凡のようで然らざるものがある」と述べている。
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