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2017年7月25日 (火)

松壽院のこと

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上の写真は名古屋市昭和区の養林寺である。ここに丈艸の伯母にあたる「松壽院」が眠っていると知り、数日前に出かけた。
この人は、丈艸が若いころに犬山で仕えることになる「寺尾直龍」の生母であり、丈艸や内藤家の運命を大きく変えた人であった。
下の図は『丈艸伝記考説』(市川鐸)などにある系図を簡略化して作り直したものである。
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内藤家は、もともと信州小諸城主依田康国に仕えていたらしいが、康国の跡を継いだ康勝に従って、仁右衛門・源左衛門の時代には、ともに越前に移っていたと思われる(康勝は越前松平家宗主の結城秀康の家臣となったため)。ところが、父源左衛門の姉である松壽院が何かの縁で犬山城主成瀬正虎の江戸屋敷にいたところ、正虎の寵愛を得、直龍が生まれたのである。
その後直龍の元服を機に、内藤家は平兵衛を越前に残し、成瀬家から異例の厚遇を得て召し抱えられることになり、越前から尾張犬山に移ってきたのである。
(成瀬氏は尾張藩家老ではあるが付家老として約三万五千石を領し、犬山城主として大きな勢力をもっており、実質は大名格である。しかし江戸期をとおして藩としては認められず、ようやく明治新政府になってから「犬山藩」として処遇された。)

しかし尾張に来てからの内藤家は、成瀬家の家臣団からは必ずしも歓迎されてはいなかったであろう。会社で言えば、いわば親族の七光りで突然採用され、なおかつ異例とも言える厚遇を受けた者を、古参の社員がよく思うはずはない。源左衛門は周囲に遠慮もし、静かに目立たず奉公する毎日だったのではないだろうか。
やがて直龍は、断絶の危機にあった寺尾家の養子となり、尾張藩の要職を務めることになる。その直龍の将来は内藤家にとって、そして丈艸にとってもさらに大きな転機をもたらすことになるが、それは次回以降に譲る。

名古屋市昭和区の住宅街、南から北にかけて少し小高くなったところに「養林寺」がある。寺の北側が墓地になっており、その西側に今は無縁となった墓石群が整然と並ぶ。彼女の墓は、他の墓に比べ、極めて大きく、しかも立派な五輪塔なのである。周りの無縁墓をあたかも従えるかのように彼女は中央に立ち、石段7つの上から威厳をもって墓全体を眺めているかのようにみえる。
碑銘は、「松壽院殿 法譽貞春 大襌定尼」と3行あり、その右と左には一部読めないが「寛文五□□□」、「八月□□□」とある。記録では「寛文五乙巳暦」 「八月廿七日」と刻されているらしい。1665(寛文5)年といえば、子の直龍はすでに年寄役として藩政に参画していたころである。丈艸はまだ3歳になったばかりであった。
彼女は内藤家にとって「救いの女神」だったと市橋さんは記している。彼女なしには内藤家の歴史は語ることはできず、丈艸の人生も別ものであったかもしれない。

*なお、同寺には幕末尾張の「青松葉事件」で処刑された
  榊原勘解由の墓石(追悼墓)も、最近建てられたもので
  あるが認めることができる。

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