魯九 近江へ
再び魯九のことに戻る。
丈艸の晩年は「無名庵」でひたすら師の供養につとめる日々であったが、やがて「佛幻庵」に移り、1704(元禄17)年二月下旬帰らぬ人となった。その前年初冬、丈艸は魯九に便りを送った。自身の体調のこと、経塚を建てること、法華経千部が間もなく書き終わることなどを記していた。ところが年が明け三月になって魯九は名古屋の露川から丈艸の異変を知り、急いで旅支度をした。
だが龍ケ岡に辿り着いたのは三月も半ば。すでに師の姿は消え去り、初月忌も目の前であった。五七日の後に蜂屋へ戻った魯九は、悲しみに暮れつつも早速師の追悼句集を作ろうとして奔走したらしい。七七日の追善は孤耕庵で催し、追悼集準備のことも話し合われた。そして嘨風らの援助も受け、五月に完成したのが『幻乃庵』である。当時の印刷事情を考えると異例の速さだった。
鳥落人(惟然)がその序で「長等山の續き西の岡の佛幻庵も今まぼろしの庵とはなりけり」と記し、書名もこれに従ったと思われる。『幻乃庵』の詳細は、丈艸のことを記す際に触れる。
↑龍ケ岡俳人墓地(丈艸の佛幻庵址):膳所駅南の国道1号線沿い。
「丈艸佛幻庵址碑」
左側面には、「昭和44年2月24日
建立 市橋鐸 書」とある。
佛幻庵の正確な場所は、今となっ
ては不明だが、この墓地の周辺に
あったと推定されている。
市橋さんによる墓地調査などの記
録は、いずれ丈艸について述べる
ときに詳しく触れる。
↑蕉門俳人らの供養塔群。
↑ 左:丈艸所縁の経塚 右:丈艸の墓碑
*上掲写真は2017年7月2日撮影。
なお、この墓地には最近置かれた墓碑もあり、意外だった。
昨年没した作家の伊藤桂一氏の碑もあった。戦記文学で知られ、
私も好きな作家である。そういえば、惟然の「弁慶庵」(関市)にも
彼の色紙が貼ってあり興味深かった。彼が「落柿舎」の運営に深く
関わったこと、句集もあることなどを知ったのはつい最近であった。
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