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2017年8月

2017年8月21日 (月)

若き日の漢詩

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この夏は、全国ニュースで犬山の名前がよく出ていた。
記録的な大雨、国宝犬山城のシャチホコが落雷で破損したこと、そして再び数日前の大雨。西日本はまだ暑いが、関東など東日本は日照時間が少なく気温が低いままとのこと。
晴れたきのう、近くの前原周辺を2時間ほど歩いた。
入道雲は見えてはいても、夏らしい勢いはすでにない。栗の木は秋の準備を終え、青柿のなかには、僅かではあるが淡く色づき始めたものもあった。

犬山時代若き日の丈艸も私の住んでいる近所を歩いていたようで、前原、白雲寺(今は廃寺となり天道宮神明社)などを題材にした漢詩がある。
横書きはダメなことを知りつつ・・・丈艸の七言絶句をひとつ。

  前 原 道 中
渉 過 松 濤 二 里 餘
雲 開 處 々 看 村 居
兒 焼 玉 黍 群 園 畝
山 老 笑 而 獨 荷 鉏

私なりの解釈。
松風の音を聞きながら歩いていると、家から二里ほどの前原あたりにやって来た。ちょうど雲が開け晴れてきたころ、村の家があちらこちらに見えてきた。子どもらが、畑の畝に群がって、トウモロコシ(玉黍)を焼いている。それを見守っていた年寄りが微笑みながら鋤を担いで帰るところだ。
転句、結句についてはあれこれ想像し、勝手な解釈になったかもしれない。玉黍を分け与えたのは山老で、子どもらが喜ぶ姿を見て彼もまた楽しかったのだろう。平凡だが、微笑ましい情景であり、まだ二本差しの丈艸ではあるけれど、心の裡ではこの山老のような生活を羨ましく思っているかのようだ。

参考
「前原道中」は、『俳人丈艸』や『丈艸伝記考説』(市橋鐸)に掲載されている。

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↑前原地区から南を望む。尾張富士が少しだけ頭を見せている。

 

 

 

 

 

 

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2017年8月 5日 (土)

生家と産湯の井戸

丈艸誕生の地は犬山城下である。問題は城下のどのあたりに内藤家の屋敷があったかであるが、丈艸の伝記を書く人や郷土史を研究している人にとって、生家の特定は欠かせない課題のひとつとなっている。
今年初め、犬山市で小規模な「内藤丈草回顧展」があった。そのパネル展示の中に2箇所の「産湯の井戸」の写真が紹介されており、昔も今も誕生の場所は論争の的なのだと思ったのである。
内藤家の屋敷が元禄期には「新道通り」に面していたことは確認されている(『犬山資料第3集』柴田貞一さんの「犬山城物語」173頁に地図有り)。ところが自身の先祖の言い伝えを大切にしていた市橋鐸さんは、丈艸誕生の時の内藤家屋敷は新道通りの西の端、現在の「瓦坂」路上付近であったと述べている。その確たる史料は残っていないようだが、自説を変えることはなかったようである。
今年の春、2つの「産湯の井戸」を見てきた(下の写真)。2つの距離は200㍍である。
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市橋さんの『丈艸聚影』(第1輯:1931年)に亙坂の民家にある井戸の写真が載っている。井戸の屋根も崩れかかった写真の説明には、「この井戸も遠からず埋められるとかいふ話である」とあるが、実は改修されて今も健在である(左上)。通学路も近いので事故防止のために鉄製の覆いがしてあり、安全のためか、とくに案内板などはない。水道が止まるなど緊急時にはすぐ使える状態にあるそうだ。右のもう一つの井戸は、路地の入り口に小さな案内板があり、丈艸の産湯の井戸であることも明記され、立派なかたちで保存されている。
はたしてどちらが本当の産湯の井戸だったかは、私にとってはこれからも不明のままでいいと思っている。どちらもこの先このまま残り続け、今の静かな環境のままで、と願うのみである。
(と、ここまで書いていて芭蕉の生家のことが頭を過ぎった。伊賀には芭蕉の生家といわれる場所が2箇所あることを、以前の記事、ここここで紹介したことがあった)。

下の写真は郷瀬川の「瓦坂橋」。ここから写真の奥へ坂を進むと新道通りに出る。詳細は省きたいので、もしこの辺を訪れる機会のある方は丈艸所縁の地を巡ってみてはいかがだろうか。左の林の奥には小さなカフェも・・・。
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2017年8月 4日 (金)

五郎丸村のキリシタン

◎五郎丸村のキリシタン

最後にひとつだけ直龍に関わる問題に触れる。
丈艸が生まれ、直龍が藩政に参画していたころ、尾張藩には大きな問題が燻っていた。いわゆるキリシタン信徒への取締り問題であるが、直龍蟄居の背景をこの問題と関連させる説もあるので取り上げておく。ただしここでは、当時の犬山五郎丸村のキリシタン信徒弾圧に限って記すことにする。

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犬山市には、「万願寺」という地名が残っている。その地は五郎丸村といわれていたが、当時「満願寺」と称するキリシタン信徒の伝道所(道場)があった場所である。しかし信徒弾圧の過程で伝道所は完全に破却され、現在はその跡を示すものはない。ただし現在の万願寺地区には、上の写真の稲荷社に1712(正徳2)年建立の笠塔婆の「供養塔」(銘:諸神諸佛諸菩薩)があり、それはこの地で捕縛されたキリシタン信徒供養のために建立されたものだという。

1630年代末の島原の乱鎮圧後、幕府はキリシタン信徒の徹底的取締りに乗り出した。尾張の地でも、犬山を含む尾張北部はとくに信徒の多いところであった。それだけに弾圧・取締りも激しかった。しかし初め尾張藩は取締りに消極的であり、幕府の顔色を窺っていた節があるし、宗門改や寺院統制などのしくみは取締りの過程でようやく整備されていったのである。
直龍の実父である犬山城主成瀬正虎が、実はキリシタン信徒に同情的であり、寺尾直龍も同様であったと伝えられている。どちらも宗教心厚く、神仏保護に熱心だったことがその背景にはあると考えられる。
1660年代以降の寛文年間に至って、尾張藩は幕府の指示・干渉もあり、尾張北部で本格的な信徒取締りを始めた。その時期は、折しも成瀬正虎の隠居(1659年)の後、1661(寛文元)年になってからであった。とくに1661(寛文元)年から1667(寛文7)年の間、五郎丸村の信徒摘発は苛烈を極めた。それは直龍の異母兄である3代犬山城主成瀬正親の時代のことである。

P1000168ggg五郎丸村の弾圧の記録は、関連諸史料を分析した『犬山市史』の記述が詳しい。
それによると、7年間に20回に及ぶ検挙の結果、村人205名のうち、延べ124名(検挙が2回以上になった者を含む)が検挙され、内100名が殉教している。とくに寛文7年は、幕府の方針が厳しくなり、取締り対象がそれまでの戸主格中心から、不審者全員の検挙へと変わり、男女・年齢区別なく一網打尽の取締りとなった。殉教者には8歳、10歳の子どももあり、行方不明者を含めると6割強の村人が消えたともいう。
その後、一時的に村の維持は困難を極め、村組織は隣村の橋爪村の下に入り、役人の監視を長く受け、村人は差別の対象ともなった。村の人口が回復し再び活気を取り戻すのは19世紀以降である。

上の写真は、五郎丸万願寺地区の民家の庭にある「顕彰碑」(建立1972年)である(2017年撮影)。建立者の先祖は、16世紀半ばにこの地に居住し、代々庄屋格であったという。
碑の表は、先祖代々の顕彰文となっており、六代目藤兵衛が上掲の「供養塔」を建てた人であることも記されている。裏の碑文には、五代目七左衛門が他の庄屋や組頭とともに、1690(元禄3)年に成瀬家臣に提出した切支丹調査の概要・殉教者数などの詳細が記録されている。
当主の方が先祖の事蹟を振り返り、現代になってこうした顕彰碑を建立した背景には、かつて村人が受けた苦難の歴史を偲び、殉教者への慰霊の意味もあったからに違いない。

正虎隠居後に五郎丸村への本格的取締りが行われたことは、やはり気になることではある。また、知多の『岡田町誌』には、直龍の蟄居の理由は信徒取締りに消極的であったからだ、との記述がある。その典拠や根拠は全く不明であるものの、藩の重臣たちのあいだには、幕府からの厳しい信徒取締り方針を巡る確執やアンタゴニズムがあったことは想像できる。
だが、これ以上は憶測や伝聞の領域になるので、この問題はひとまず終わることにしたい。ただし、まだ子ども時代のことではあるが、丈艸の育った犬山の地でキリシタン弾圧の嵐が吹き、寺院・宗教統制が徐々に進行していたことだけは確認しておきたい。

*江戸期尾張のキリシタン取締りや史跡の詳細は、『犬山市史』、『犬山市資料』、『愛知県史』、『あかしする信仰(東海・北陸のキリシタン史跡巡礼)』〈カトリック名古屋教区殉教者顕彰委員会 2012年〉などを参考にした。
なお、いわゆる織部灯籠・切支丹灯籠の遺蹟も尾張地域には多く残されているが、これらの灯籠がキリスト教とどのような関わりがあるかについては今もって確定した根拠がないので触れないことにした。正虎や直龍が織部灯籠を身近に置いていたという話も、したがって取り上げなかった。

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2017年8月 1日 (火)

寺尾直龍 ②

◎知多と直龍

現在の知多市には、今も寺尾直龍に関わる事蹟が残っている。
直龍は、知多の4村(佐布里[そうり]、岡田、羽根、大興寺)に藩から「拝領山」を与えられていたとする記録(「寛文村々覚書」)が残っている。おそらくこれらの地域に給知(知行地)もあり、在地はしなかったが地頭(給人)として村々と関わっていたのである。
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写真は知多市の旧岡田村にある「慈雲寺」である。上が「観音堂」、左下が「本堂」、右下が亙などに付された「三ツ扇」の寺紋である。この紋は寺内の建物の大半に使われている(2017年6月撮影)。「三ツ扇」とは、実は寺尾家の家紋である。
前回紹介した直龍の法名には「慈雲」の文字があり、直龍と慈雲寺との深い繋がりを表している。

1660(万治3)年、直龍は慈雲寺の修造を援助した。上の観音堂はそのときに再建されたものであり、本来これが寺の本堂であった。その雨樋や天水桶などにも寺紋があり、寺尾家との強い関わりを示している。この修造以来、直龍は寺中興の恩人として地元では長く尊敬されてきた。
1668(寛文8)年、さらに直龍は慈雲寺に「燈明田六反」を寄進し、この証文を根拠にして、のち1830(文政13)年に藩から「寺領」とすることが許されている。この「六反」は、実は「新田切り」による田と畑であり、拝領山などを持っていた直龍がその一部を新田に転換させて慈雲寺に与えていたものと考えられる(「岡田町誌」)。
知多のこととの確証はないが、直龍が知行地に貧窮対策事業を行い、「民潤う」という記録もみえることから、かなり民生に力を尽くしていたことも窺われる。1674(延宝2)年には新田五千石の開墾を計画・提案したが、反対されて挫折している。
前回見たように、直龍は1675(延宝3)年犬山に蟄居となって藩政からは身を引いた。その後1693(元禄6)年、藩は一部の重臣の給知を除き、知多全域を蔵入地(直轄地)としたことなどから、寺尾家と知多との関係も遠のいたように思われる。

ところが寺尾家と岡田村・慈雲寺との交流は明治まで続いていたとの記録がある。1868(明治元)年の10月、当時の寺尾氏死去時に、慈雲寺和尚は「椎茸二升」と「香典」を持参し、さらに翌2年正月6日には、岡田村の庄屋・組頭らが名古屋の寺尾家宅に手土産持参で年始挨拶に出かけ、返礼として菓子や餅などをもらっている(知多市誌・「竹中家文書」)。
このことは、もちろん明治になって突然岡田村の人々が寺尾家に挨拶に行ったのではなく、200年以上世代をこえて寺尾家と岡田村との深い交流があったことを窺わせる。
寺尾直龍という人物を知るうえで、岡田村・慈雲寺のことは忘れてはならない事柄なのではないだろうか。

直龍については次回をもってひとまず終える。

*以上の記述は、『名古屋叢書続編(寛文村々覚書)』、『知多市誌(本文編)』、『知多郡史(上・下)』、『岡田町誌』などを参考としている。

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