生家と産湯の井戸
丈艸誕生の地は犬山城下である。問題は城下のどのあたりに内藤家の屋敷があったかであるが、丈艸の伝記を書く人や郷土史を研究している人にとって、生家の特定は欠かせない課題のひとつとなっている。
今年初め、犬山市で小規模な「内藤丈草回顧展」があった。そのパネル展示の中に2箇所の「産湯の井戸」の写真が紹介されており、昔も今も誕生の場所は論争の的なのだと思ったのである。
内藤家の屋敷が元禄期には「新道通り」に面していたことは確認されている(『犬山資料第3集』柴田貞一さんの「犬山城物語」173頁に地図有り)。ところが自身の先祖の言い伝えを大切にしていた市橋鐸さんは、丈艸誕生の時の内藤家屋敷は新道通りの西の端、現在の「瓦坂」路上付近であったと述べている。その確たる史料は残っていないようだが、自説を変えることはなかったようである。
今年の春、2つの「産湯の井戸」を見てきた(下の写真)。2つの距離は200㍍である。
市橋さんの『丈艸聚影』(第1輯:1931年)に亙坂の民家にある井戸の写真が載っている。井戸の屋根も崩れかかった写真の説明には、「この井戸も遠からず埋められるとかいふ話である」とあるが、実は改修されて今も健在である(左上)。通学路も近いので事故防止のために鉄製の覆いがしてあり、安全のためか、とくに案内板などはない。水道が止まるなど緊急時にはすぐ使える状態にあるそうだ。右のもう一つの井戸は、路地の入り口に小さな案内板があり、丈艸の産湯の井戸であることも明記され、立派なかたちで保存されている。
はたしてどちらが本当の産湯の井戸だったかは、私にとってはこれからも不明のままでいいと思っている。どちらもこの先このまま残り続け、今の静かな環境のままで、と願うのみである。
(と、ここまで書いていて芭蕉の生家のことが頭を過ぎった。伊賀には芭蕉の生家といわれる場所が2箇所あることを、以前の記事、(ここ)と(ここ)で紹介したことがあった)。
下の写真は郷瀬川の「瓦坂橋」。ここから写真の奥へ坂を進むと新道通りに出る。詳細は省きたいので、もしこの辺を訪れる機会のある方は丈艸所縁の地を巡ってみてはいかがだろうか。左の林の奥には小さなカフェも・・・。
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