五郎丸村のキリシタン
◎五郎丸村のキリシタン
最後にひとつだけ直龍に関わる問題に触れる。
丈艸が生まれ、直龍が藩政に参画していたころ、尾張藩には大きな問題が燻っていた。いわゆるキリシタン信徒への取締り問題であるが、直龍蟄居の背景をこの問題と関連させる説もあるので取り上げておく。ただしここでは、当時の犬山五郎丸村のキリシタン信徒弾圧に限って記すことにする。
犬山市には、「万願寺」という地名が残っている。その地は五郎丸村といわれていたが、当時「満願寺」と称するキリシタン信徒の伝道所(道場)があった場所である。しかし信徒弾圧の過程で伝道所は完全に破却され、現在はその跡を示すものはない。ただし現在の万願寺地区には、上の写真の稲荷社に1712(正徳2)年建立の笠塔婆の「供養塔」(銘:諸神諸佛諸菩薩)があり、それはこの地で捕縛されたキリシタン信徒供養のために建立されたものだという。
1630年代末の島原の乱鎮圧後、幕府はキリシタン信徒の徹底的取締りに乗り出した。尾張の地でも、犬山を含む尾張北部はとくに信徒の多いところであった。それだけに弾圧・取締りも激しかった。しかし初め尾張藩は取締りに消極的であり、幕府の顔色を窺っていた節があるし、宗門改や寺院統制などのしくみは取締りの過程でようやく整備されていったのである。
直龍の実父である犬山城主成瀬正虎が、実はキリシタン信徒に同情的であり、寺尾直龍も同様であったと伝えられている。どちらも宗教心厚く、神仏保護に熱心だったことがその背景にはあると考えられる。
1660年代以降の寛文年間に至って、尾張藩は幕府の指示・干渉もあり、尾張北部で本格的な信徒取締りを始めた。その時期は、折しも成瀬正虎の隠居(1659年)の後、1661(寛文元)年になってからであった。とくに1661(寛文元)年から1667(寛文7)年の間、五郎丸村の信徒摘発は苛烈を極めた。それは直龍の異母兄である3代犬山城主成瀬正親の時代のことである。五郎丸村の弾圧の記録は、関連諸史料を分析した『犬山市史』の記述が詳しい。
それによると、7年間に20回に及ぶ検挙の結果、村人205名のうち、延べ124名(検挙が2回以上になった者を含む)が検挙され、内100名が殉教している。とくに寛文7年は、幕府の方針が厳しくなり、取締り対象がそれまでの戸主格中心から、不審者全員の検挙へと変わり、男女・年齢区別なく一網打尽の取締りとなった。殉教者には8歳、10歳の子どももあり、行方不明者を含めると6割強の村人が消えたともいう。
その後、一時的に村の維持は困難を極め、村組織は隣村の橋爪村の下に入り、役人の監視を長く受け、村人は差別の対象ともなった。村の人口が回復し再び活気を取り戻すのは19世紀以降である。
上の写真は、五郎丸万願寺地区の民家の庭にある「顕彰碑」(建立1972年)である(2017年撮影)。建立者の先祖は、16世紀半ばにこの地に居住し、代々庄屋格であったという。
碑の表は、先祖代々の顕彰文となっており、六代目藤兵衛が上掲の「供養塔」を建てた人であることも記されている。裏の碑文には、五代目七左衛門が他の庄屋や組頭とともに、1690(元禄3)年に成瀬家臣に提出した切支丹調査の概要・殉教者数などの詳細が記録されている。
当主の方が先祖の事蹟を振り返り、現代になってこうした顕彰碑を建立した背景には、かつて村人が受けた苦難の歴史を偲び、殉教者への慰霊の意味もあったからに違いない。
正虎隠居後に五郎丸村への本格的取締りが行われたことは、やはり気になることではある。また、知多の『岡田町誌』には、直龍の蟄居の理由は信徒取締りに消極的であったからだ、との記述がある。その典拠や根拠は全く不明であるものの、藩の重臣たちのあいだには、幕府からの厳しい信徒取締り方針を巡る確執やアンタゴニズムがあったことは想像できる。
だが、これ以上は憶測や伝聞の領域になるので、この問題はひとまず終わることにしたい。ただし、まだ子ども時代のことではあるが、丈艸の育った犬山の地でキリシタン弾圧の嵐が吹き、寺院・宗教統制が徐々に進行していたことだけは確認しておきたい。
*江戸期尾張のキリシタン取締りや史跡の詳細は、『犬山市史』、『犬山市資料』、『愛知県史』、『あかしする信仰(東海・北陸のキリシタン史跡巡礼)』〈カトリック名古屋教区殉教者顕彰委員会 2012年〉などを参考にした。
なお、いわゆる織部灯籠・切支丹灯籠の遺蹟も尾張地域には多く残されているが、これらの灯籠がキリスト教とどのような関わりがあるかについては今もって確定した根拠がないので触れないことにした。正虎や直龍が織部灯籠を身近に置いていたという話も、したがって取り上げなかった。
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