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2017年9月

2017年9月28日 (木)

露草の青

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庭のあまり陽の当たらない場所に午前中しか咲いていないし、背も低いので日頃は全くその存在に気づかない。午後、花は萎んでいたが、小さな蟻が苞の中を探検していた。万葉集にはツキクサ(月草)としてよく出てくるが、露草という名前はこの花によく似合っている。
露草の名は、「気孔」という言葉とセットになって私の記憶にある。
小学生のころだったか、理科の時間の観察に必要だというので、先生に指示されて露草を友達と必死になって探し回った覚えがある。葉の「気孔」を顕微鏡で見るためだった。
それにしても、この青は鮮やかである。鮮やかすぎて、誰かが試験管のなかで合成した色のような錯覚さえおぼえる。そう思うのは、私にとってこの世の青の色は、露草の花の色が基準になっているような気がするからである。
記憶に残っているはずもないのだが、ひょっとすると、道端の露草を指さしながら、母がまだ幼い私に「あおいろ」を教えてくれたのではないだろうか。


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2017年9月20日 (水)

小督の旧跡

去來の墓を見たあと、もう一度落柿舎を振り返りながら渡月橋方面に向かった。すると道は人々で溢れ、異国の言葉だけが飛び交っていた。天龍寺前を過ぎ、渡月橋の北詰にある通りに出たので、小督にかかわる3つの旧跡といわれるものを足早に見て回った。

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車折神社嵐山頓宮前には「琴聴ゝ橋」(↑)がある。道路整備のために今の場所に移ったというが、以前はどのような形状だったのかはわからない。高倉帝の命により小督を探していた源仲国が、彼女の琴の音を聴き、隠れ住んでいた場所を見つけたという話によるもの。
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さらに西へ少し行って喫茶店のある道を北へすすむと「小督塚」(↑)がすぐ見えた。小督が隠れ住んでいた場所といわれている。五輪塔などは関西の女優によって最近整備されたものらしい。説明には謡曲「小督」の旧跡とある。塚を取り囲む土地では、今何かの建物の建設工事中であり、ずいぶん騒がしい。この辺りの景観も日々変わっていくのだろう。

Photoさらに橋詰の東にも、大きな「琴きゝ橋跡」の標柱(←)がある。つまり「琴聴き橋」跡といわれるものが2つあり、それらの距離は橋詰を挟んで約50㍍である。
他方「小督塚」は、今ある場所付近に小督が一時身を隠して住んでいたらしいという伝承によるものだが、芭蕉の『嵯峨日記』4月19日の条には、「松尾の竹の中に小督屋敷と云有。すべて上下の嵯峨に三所有、いづれか慥ならむ」とある。松尾とは、橋を渡った反対側の法輪寺方面になるが、続けて「三所あり」としているから、当時すでに小督屋敷の所在は今の「小督塚」近辺も含め諸説あったようだ。

「駒留の橋と云、此あたりに侍れば、暫是によるべきにや。墓ハ三間屋の隣、藪の内にあり。しるし桜を植えたり」と述べているので、現在の「小督塚」あたりに隠れ家も墓もあると芭蕉は見做したのであろう。「駒留の橋」は「琴聴き橋」と考えられるが、正確にどこなのかはわからないし、芭蕉が橋や屋敷跡を本当にその目で確認したのかどうかも文章だけではわからない。橋向こうの松尾へ行ったとも書いていない。

もし芭蕉のいう「松尾の竹の中に小督屋敷」があるという説を信じるのなら、橋を渡った法輪寺周辺にも何らかの旧跡は残っているのだろうか。
実はその旧跡と思われるものがある。橋を渡り対岸へ出てすぐ右へ折れ、しばらく行くと通船の乗り場がある。その手前のモンキーパークの入口付近に山から下る水路があり、小さな石橋(↓)が架かっている。第3の「琴聴き(駒留め)橋」の候補地ということになる。
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その親柱には「こまとめはし」・「昭和二年」と書いてあるようだが、文字の一部は道路の敷石に埋まっており、つくられた経緯はよくわからない。さらに法輪寺周辺に塚があるらしいとの話もある。

とくに明治以降、道路拡張や開発などで名所旧跡も蔑ろにされたこともあったのではないだろうか。そうした世間の動きに抗するかのように、心ある人が旧跡の保持に努めてきたのであろう。もとより物語の世界であり、伝承にもとづく旧跡である。どれが、どこが旧跡の正確な場所なのかなどと疑うことは、ある意味野暮なことでもある。300年前の芭蕉の文章を読み直してみて、あらためてそう思ったのである。
なお、『嵯峨日記』4月25日の条にある丈艸の漢詩「尋小督墳」の結句は、
何 処 孤 墳 竹 樹 中
となっている。

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2017年9月17日 (日)

落柿舎 ➂

Photo「落柿舎」の建物は勿論後代のものであり、敷地を含めた当時の正確な場所も、今となっては定かではないとのことだが、去來の遺蹟を残そうとした先人の努力と熱意には頭が下がる。かつて庵主でもあった保田與重郎の『落柿舎のしるべ』を札所で買い求め、柿の木の下に坐って半分ほど読んだ。彼もまた庵の保存に努めた人であった。
左は書き置きの朱印。数種類ある。

落柿舎の西隣には、嵯峨天皇の皇女で、詩賦に名高い「有智子内親王(807-847)」の墓もあり、明治になって整備されたものだという。さらに北に少し行くと去來の遺髪を埋めた烏帽子の形の小さな墓(本墓は真如堂)があったが、それを囲う竹垣は朽ちはじめており、少し悲しくなって写真を撮ることは控えた。

ところで『嵯峨日記』。
元禄4年4月25日に、丈艸と史邦がそろって落柿舎を訪れたことが記されており、そこには、丈艸が落柿舎と小督墳のことを賦した漢詩七言絶句二題が紹介されている。また、それより以前の19日に芭蕉は嵐山近辺を散策し、小督の旧蹟のことに触れている。
当時の人には、嵯峨野、小倉山、嵐山といえば、横笛、祇王・祇女、そして小督に関わる物語が思い浮かんだのであろう。今の時代、嵯峨野を訪れる人々は何を思うのであろうか。

落柿舎近辺ですれ違った人は僅かで、しかもすべて異国の人であった。のんびりとした時間を過ごすことができて満足だったが、せっかくなので虚空蔵法輪寺まで足を伸ばすことにした。しかしそこへ行くためにはあの橋を渡らねばならず、平日とはいえどんな状況が待っているか、もちろんわかってはいた。でも小督の旧蹟といわれるものが見たかったのである。






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2017年9月13日 (水)

落柿舎 ➁

13_2落柿舎の近くでは人を見かけることもなく、入庵していたのも私ひとりだけだった。日差しは少し強かったが、爽やかな風や高い空は秋のはじまりを感じさせる。
何本もある庭の柿の木から熟れた実が時折落ちてくる。見上げると鳥が忙しなく飛び回り実を啄んでいるらしい。自然に落ちてきたものか、鳥の仕業かわかりかねるが、もちろん落柿舎の名の由来と鳥とは無関係である。
その小ぶりの実に懐かしさを感じた。母の実家の裏庭に高い柿の木があって、こうした小さな玉を実らせていたことを想い出したのは、忘れかけていただけに、うれしいことであった。
けれども静かな時間は、庵を出るまでだった。その後のことはまたいずれ。

ところで、丈艸が芭蕉にはじめて出会った場所は落柿舎であったといわれている。
遁世後犬山を去った丈艸について、榎木馬州は「江北の山里に暫く足の留りしを、又鶉啼深草のさとに露のしるべの閑窓有て」と記し(『龍ケ岡』序)、去來の『丈艸ガ誄』には、「洛の史邦にゆかり、五雨亭に假寐し」ていたとある。
やがて丈艸は、すでに去來と交わっていた史邦を介して芭蕉と面会したのであろう。史邦は丈艸遁世の前に犬山の直龍のもとを去り、当時は仙洞御所に仕えており、その縁で去來を通じて蕉門となっていたと考えられる。芭蕉との面会時期は、芭蕉が「おくのほそ道」の旅を終えて入洛していた元禄2(1689)年暮れ、この落柿舎のことであったらしい。
その後、元禄4(1691)年4月25日、史邦と丈艸が落柿舎に滞在していた芭蕉のもとを訪れている。このことを記した芭蕉の『嵯峨日記』については次回に。
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    *蛍壁(錆壁)が珍しい。玄関には松尾大社の
      「夏越の祓 ちのわくぐり(茅の輪くぐり)」の
      お祓いさん(短冊)が掛けてあった。


 

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2017年9月10日 (日)

落柿舎 ➀

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柿ぬしや 梢はちかき あらし山   去來

一昨日、日帰りで去來所縁の「落柿舎」などへ行ってみた。

遁世後の丈艸が、芭蕉に出会ったころのことを調べてみようと『嵯峨日記』を見ていたら、丈艸と史邦がそろって「落柿舎」を訪れた日のことや、芭蕉が嵐山近辺を散策した様子も書かれていた。そんなこともあって、急に思い立った。
平日だし、まだ本格的な秋ではないし、きっと人は少ないだろう、などという画餅に帰すような妄想や期待感などは、もちろんはじめから無かったけれど、期待してはならぬという覚悟ができるまで数日迷った。

嵯峨嵐山駅から歩いて「落柿舎」に向かい、着いたのは10時ごろだった。さすがに嵯峨野、落柿舎方面は午前中閑散としていたのだが・・・ 続く。

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