落柿舎 ➂
「落柿舎」の建物は勿論後代のものであり、敷地を含めた当時の正確な場所も、今となっては定かではないとのことだが、去來の遺蹟を残そうとした先人の努力と熱意には頭が下がる。かつて庵主でもあった保田與重郎の『落柿舎のしるべ』を札所で買い求め、柿の木の下に坐って半分ほど読んだ。彼もまた庵の保存に努めた人であった。
左は書き置きの朱印。数種類ある。
落柿舎の西隣には、嵯峨天皇の皇女で、詩賦に名高い「有智子内親王(807-847)」の墓もあり、明治になって整備されたものだという。さらに北に少し行くと去來の遺髪を埋めた烏帽子の形の小さな墓(本墓は真如堂)があったが、それを囲う竹垣は朽ちはじめており、少し悲しくなって写真を撮ることは控えた。
ところで『嵯峨日記』。
元禄4年4月25日に、丈艸と史邦がそろって落柿舎を訪れたことが記されており、そこには、丈艸が落柿舎と小督墳のことを賦した漢詩七言絶句二題が紹介されている。また、それより以前の19日に芭蕉は嵐山近辺を散策し、小督の旧蹟のことに触れている。
当時の人には、嵯峨野、小倉山、嵐山といえば、横笛、祇王・祇女、そして小督に関わる物語が思い浮かんだのであろう。今の時代、嵯峨野を訪れる人々は何を思うのであろうか。
落柿舎近辺ですれ違った人は僅かで、しかもすべて異国の人であった。のんびりとした時間を過ごすことができて満足だったが、せっかくなので虚空蔵法輪寺まで足を伸ばすことにした。しかしそこへ行くためにはあの橋を渡らねばならず、平日とはいえどんな状況が待っているか、もちろんわかってはいた。でも小督の旧蹟といわれるものが見たかったのである。
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