小督の旧跡
去來の墓を見たあと、もう一度落柿舎を振り返りながら渡月橋方面に向かった。すると道は人々で溢れ、異国の言葉だけが飛び交っていた。天龍寺前を過ぎ、渡月橋の北詰にある通りに出たので、小督にかかわる3つの旧跡といわれるものを足早に見て回った。
車折神社嵐山頓宮前には「琴聴ゝ橋」(↑)がある。道路整備のために今の場所に移ったというが、以前はどのような形状だったのかはわからない。高倉帝の命により小督を探していた源仲国が、彼女の琴の音を聴き、隠れ住んでいた場所を見つけたという話によるもの。
さらに西へ少し行って喫茶店のある道を北へすすむと「小督塚」(↑)がすぐ見えた。小督が隠れ住んでいた場所といわれている。五輪塔などは関西の女優によって最近整備されたものらしい。説明には謡曲「小督」の旧跡とある。塚を取り囲む土地では、今何かの建物の建設工事中であり、ずいぶん騒がしい。この辺りの景観も日々変わっていくのだろう。さらに橋詰の東にも、大きな「琴きゝ橋跡」の標柱(←)がある。つまり「琴聴き橋」跡といわれるものが2つあり、それらの距離は橋詰を挟んで約50㍍である。
他方「小督塚」は、今ある場所付近に小督が一時身を隠して住んでいたらしいという伝承によるものだが、芭蕉の『嵯峨日記』4月19日の条には、「松尾の竹の中に小督屋敷と云有。すべて上下の嵯峨に三所有、いづれか慥ならむ」とある。松尾とは、橋を渡った反対側の法輪寺方面になるが、続けて「三所あり」としているから、当時すでに小督屋敷の所在は今の「小督塚」近辺も含め諸説あったようだ。
「駒留の橋と云、此あたりに侍れば、暫是によるべきにや。墓ハ三間屋の隣、藪の内にあり。しるし桜を植えたり」と述べているので、現在の「小督塚」あたりに隠れ家も墓もあると芭蕉は見做したのであろう。「駒留の橋」は「琴聴き橋」と考えられるが、正確にどこなのかはわからないし、芭蕉が橋や屋敷跡を本当にその目で確認したのかどうかも文章だけではわからない。橋向こうの松尾へ行ったとも書いていない。
もし芭蕉のいう「松尾の竹の中に小督屋敷」があるという説を信じるのなら、橋を渡った法輪寺周辺にも何らかの旧跡は残っているのだろうか。
実はその旧跡と思われるものがある。橋を渡り対岸へ出てすぐ右へ折れ、しばらく行くと通船の乗り場がある。その手前のモンキーパークの入口付近に山から下る水路があり、小さな石橋(↓)が架かっている。第3の「琴聴き(駒留め)橋」の候補地ということになる。
その親柱には「こまとめはし」・「昭和二年」と書いてあるようだが、文字の一部は道路の敷石に埋まっており、つくられた経緯はよくわからない。さらに法輪寺周辺に塚があるらしいとの話もある。
とくに明治以降、道路拡張や開発などで名所旧跡も蔑ろにされたこともあったのではないだろうか。そうした世間の動きに抗するかのように、心ある人が旧跡の保持に努めてきたのであろう。もとより物語の世界であり、伝承にもとづく旧跡である。どれが、どこが旧跡の正確な場所なのかなどと疑うことは、ある意味野暮なことでもある。300年前の芭蕉の文章を読み直してみて、あらためてそう思ったのである。
なお、『嵯峨日記』4月25日の条にある丈艸の漢詩「尋小督墳」の結句は、
何 処 孤 墳 竹 樹 中
となっている。
| 固定リンク
コメント