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2017年12月 8日 (金)

あれから77年

今日は米英への宣戦布告から76年目になる。
そもそも当時すでに中国大陸が戦場となっていたのであり、76年前のこの日に突然「戦争」が始まったのではない。12月8日はたしかに意味のある日ではあるものの、1945年の敗戦に至る長い戦争の過程を考えるとき、9月18日、7月7日などを見過ごすことは、事の本質を見誤ることになる。

奇しくも真珠湾攻撃のちょうど1年前、1940(昭和15)年12月8日、18歳の父が志願兵として大陸へ出征した日は、父や私にとって忘れられない日である。
手許にあるその1週間前の12月1日の入営時集合写真には、父を含む新兵35名と彼らを北支の大同から受取りに来た尉官・下士官らが写っている。
この時点では父も他の新兵も、しばらくの間軍役をつとめ上げれば、晴れて除隊となって新しい生活が待っていることを夢見ていたであろう。まさか1年後に「中国」だけでなく米英とも戦争になるなどとは考えてもいなかったのである。
人より早めに軍務を終え、できるだけ若いうちに落ち着いた生活を始められるようにと、父はあえて志願兵となったらしい。「親不孝の極道者」と親に叱責され、反対されたにもかかわらず。
あの日もきっと今日のように寒い日だったかもしれない。豊橋を出発して名古屋・熱田神宮に参拝後、名古屋港から夕刻大陸へ向かったが、それから6年余り極寒炎暑の外地を戦場としながら父の軍隊生活は続くことになったのである。
母親は熱田神宮で、父親は名古屋港で出征する父を見送った。幸い両親とも息子を見送ることはできたが、両親が異なった場所で息子を見送る計画を立てたのは、せめて二人のうちどちらかでも、これが最後となるかもしれない子の姿を見ることができるよう必死だったからだろう。子の行く末を案じる親心が痛いほど伝わってくる。だが父がやがて病死する母親の姿を見たのはその日が最後だったのである。

この写真に写っている新兵35名、尉官・下士官10名のうち、生きて故国に還ってきたひとはいったいどれだけいたのだろうか。父は帰還出来たことを、「不思議なことに」と語るのみで、決して「運が良かった」とは言わなかった。戦争における人の生死は、父にとっては決して運不運などということばで語ることのできないこと、語ってはならないことであったのだろう。無事生還出来たよろこびは、家族のなかでしか語ることができなかったのである。

夕方の散歩の途上、ふと見上げた冬空には、戦後も抱え続けた父の苦悩を染めたかのような鉛色の大きな雲が流れていた。

(父の戦争体験については、小生の別ブログ「海の陸兵 」をお読みください。左の「リスト」からも入れます。)

 

12
                1940(昭和15)年12月1日豊橋にて
               (工兵第26連隊留守部隊入営の日に)

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