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2018年1月

2018年1月28日 (日)

天王坂と御旅所

 

 

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    ☆御旅所(犬山市):左後方は白山平と「成田山名古屋別院」
                                    (2018年1月撮影)

『犬山視聞図会』の「天王坂」の条にある丈艸の詩。

遠蹈白雲嘯碧天  遠く白雲を蹈む 嘯碧の天
江山萬里寸眸前  
江山萬里 寸眸の前
遊人臨境間吟興  
遊人境に臨み 間(まま)吟興す
望在市城酒旆邊  
望むに市城は酒旆の邊に在り

「天王坂」。今は周辺が住宅地と化して見通も悪く、結句のような眺めは道路からはほとんど期待できない。もとより「江山萬里」のような表現は漢詩特有のものではあるが、坂を登れば今よりもはるかに眺望はよかったであろう。吟興しながら、遠くに町の「酒旆」を見つけたというあたり、丈艸の根っからの酒好きがつい出てしまったというところか。
名鉄犬山線をはさんで「妙感寺」の西側に天王坂の地名が残る。寺の裏山が「妙感寺古墳」だということは知っていたが、実際にその周辺を歩いたことはなかった。そこで、瑞泉寺から南へ向かい、小島橋あたりまで古墳周辺を数回往復した。名鉄線が妙感寺古墳の西の端を寸断している。線路沿いの東側にある幅50㌢ほどの細道も含め、道のあるところはほとんど歩き尽くし、再び瑞泉寺方面に戻った。

途中気になったのは「御旅所」の碑である。古墳の西端が名鉄線で削られ、その切り取られた小山部分に碑がある。碑銘を見ると大正期に建てられたものらしい。針綱神社の祭礼「犬山祭」では、神輿渡御の大切な場所とのこと。たとえば『雑話犬山舊事記』に、次の記録がある。

  天王坂 往昔天王社有、故ニ名トス、天王ハ何ノ時ヨリカ
  内田村 福ノ宮末社と成、此所 中北小田切氏御旅所ノ建立
  ト云、祭礼ノ節 是迄神輿行幸奉成、古例トソ

「福ノ宮」とは、瑞泉寺下鎮守「福宮」のことであろうが、現在、福宮(福乃宮)は社標が「神明神社」となっており、かつての面影はもはや確認できない。ただし「福之宮天道宮」の棟札などはあるとのこと(『瑞泉寺史』)。

16世紀中頃、織田信雄が犬山城を築く際に針綱神社は城の東方の白山平に遷り、その後城南の名栗町に遷座した。今そこには「元宮」の碑がある。城の麓に神社が戻ったのは明治になってからであるから、丈艸が犬山にいたころ、針綱神社はまだ名栗町にあったわけである。
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       ☆「元宮跡」の碑:民家の一隅に置かれている。

 

参考
『瑞泉寺史』(横山住雄 平成21年)
『尾張名所図会』『犬山視聞図会』『犬山市資料3』
『犬山市史 資料編4』など

 

 

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青龍山瑞泉寺 ②

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『尾張名所図会』などに描かれた瑞泉寺堂宇の数々は、往事の隆盛ぶりを余すところなく伝えている。実はその絵の下に丈艸の詩が添えてあり、犬山城に近い犬山市文化資料館の傍らにもその詩を刻んだ石碑があるが、道行く人が足をとめることはほとんどない。

  瑞 泉 寺
閑 歩 逍 遙 登 瑞 泉  
閑歩して逍遙し 瑞泉に登る
宿 龍 池 上 得 詩 禅  
宿龍池上 詩禅を得る
青 松 緑 竹 紅 塵 絶  
青松緑竹 紅塵絶え
又 訪 髙 僧 入 扣 玄  
又た髙僧を訪ね 扣玄に入る

「宿龍池」は寺の由来となった池であり、図会にも描かれている。寺の周囲は戦後の開発によって、もはや「紅塵」の絶えるような別天地とは言いがたいけれども、臨済宗専門道場として、今も立派な格式をもち、一歩寺域に踏み込めば塵界を忘れさせる。今は墓域となっているが、山腹からの眺望も格別である。
漫ろ歩きの途上立ち寄った寺で詩禅を得た彼は、また僧に会いたくなったのである。扣玄室(方丈)での話題は何であったろうか。ひょっとして彼が胸に抱える日頃の悩みだったのかもしれない。
なお『犬山視聞図会』の瑞泉寺の条には、「不倩華陰楮知自」を起句とする彼の詩も添えている。

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2018年1月26日 (金)

青龍山瑞泉寺 ①


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犬山城から東を望むと「成田山名古屋別院大聖寺」が大きく見える。成田山の別院は1953(昭和28)年に開かれたもので、近くのモンキーパークやモノレール(2008年廃線)などの観光施設もつくられ、付近の景色は戦後大きく変貌した。
その手前の麓に「青龍山瑞泉寺」がある。
この寺に今は廃寺となっているが、内藤家の旦那寺「南芳院(庵)」もあり、かつては丈艸の墓もあったらしい。『犬山視聞図会』には次のような記述がある。

 「丈草禅師墓 御家臣内藤某丈草の書き残し給ふ所の
 双紙やうの物をとりあつめ、一つの筥にこめ、この地に
 墓を祀る。」

過去に内藤家の人々の墓碑はいくつか確認されていた(市橋さんの調査:『丈艸聚影』の写真など)が、瑞泉寺に丈艸の「墓石」そのものはないようだ。彼の墓石は以前記事にした龍ケ岡俳人墓地にあるのみである。
明治の終わりになって瑞泉寺に建てられた石碑(「丈艸坐元禅師」の銘)がある。もともとは本堂前の庭にあったらしいが、今は中門の側に置かれている。ずいぶん大きく立派なもので、建立した人たちの丈艸を慕う気持ちは伝わってくるものの、丈艸がこれを見たらきっと苦笑するかもしれない、そんな気がする。

次回は、瑞泉寺を題にした丈艸の詩を見る。

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2018年1月16日 (火)

岐阜県図書館

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年に何回も利用する。車で1時間ほど。実家に行ったついでに寄ったりもする。場所は岐阜市西部の宇佐。北側には美術館もある。
岐阜に住んでいたころは、金華山麓の岐阜公園にあった。高校時代、土日になると自転車でよく通ったが、今思うと、読書や本を借りるための場所というより、何かと辛かった日常から逃れるためのアジールでもあったのではないか、そんな気がする。
今は、外も内もスマートになって情報を得る場としての機能は優れてはいるけれども、あのころの、所狭しと並べられた本に囲まれた、何となく黴臭い空間が懐かしい。
そういえば岐阜市立中央図書館が、みんなの森「ぎふメディアコスモス」の一部となったのは最近のことだ。数回訪れたが、眩しいくらい明るく開放的で人も多く、もはやそこは私の思い描く「図書館」とは言いがたい。

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2018年1月15日 (月)

入鹿山白雲寺

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 ☆天道宮神明社の「楼門」(建築年不詳)
 手前の灯籠には「入鹿山白雲寺正徳元年法印覚道」の銘がみえる。

自宅から15分ほど歩いたところに、「入鹿山白雲寺」の跡がある。
この寺はもともと今の入鹿池に「天道宮神明社(天頭社)」の神宮寺としてあったものである。17世紀はじめに「入鹿池」が造成されたときに、社とともに今の前原地区に移転した。
丈艸の青年時代には、寺はすでに前原地区に移っているが、その後白雲寺は明治の神仏分離令の際に廃寺となり、現在は「天道宮神明社」に寺の古井戸や社僧の墓などがあるのみである。丈艸が訪れたかもしれない寺の姿は、今となっては絵図などを見ながら想像するしかない。

以前に丈艸の若い頃の漢詩前原道中を取り上げたことがあったが、そのほか犬山に関する丈艸の漢詩は、『犬山視聞図会』(文化元年ころ)に幾つか添えられている。そこでは「入鹿山白雲寺」も題材となっている。詩の内容を精確に読み込むことなどもちろん私には無理であるが、ただ気になるのは、起句の「郤(詵」という人物である。
彼は「桂林一枝」や「折桂」、「崑山之片玉」の故事で知られる人物のことらしい。「博学多才、瓌偉倜儻、不拘細行」(『晋書』列伝)と評されているから、才知に優れ、瑣事に拘らない心の広い人物であったようだ。母の死を機に官を辞し、三年の喪に服した
という話(のちに再招聘)なども伝わっている。当時の丈艸にとって、彼は憧れ慕う人物のひとりだったのかもしれない。
漢和辞典を頼りにしながら、なんとなくその字面は分かったような気にはなるものの、この詩に込められた青年丈艸の心の裡に近づくことは、やはり難しい。


 入鹿山白雲寺
獨 慕 郄 詵 幽 趣 長  
獨り郄詵を慕い 幽趣長し
萬 山 甲 境 惣 相 望  
山甲境 惣て相望む
一 僧 帰 去 白 雲 裡  
一僧帰去す白雲の裡
料 識 精 廬 在 上 方  
料り識る精廬 上方に在り

*郄詵の「郄」は後代の誤記であり、「郤」が正しいといわれる。

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境内は東西に細長い。この奥約130㍍先に見えるのが楼門、さらにそこから約130㍍行くと拝殿がある。今の楼門は、境内を南北に貫く県道工事(平成35年完成?)のために約54㍍西に移築された(平成10年)。道路は境内を跨ぐ高架になるとのこと。

参考
『尾張名所図会』
『犬山視聞図会』
『天道宮神明社・楼門の歴史』 平成10年
(楼門改修の際発行された記念誌)
その他、前掲の『人間丈艸』『丈艸伝記考説』など

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2018年1月 5日 (金)

先聖寺 ②


Jimon_2『犬山里語記』には、先聖寺について次のような記述がある。

「先聖寺は黄蘗(檗)派宇治萬福寺之末にて黒瀧派也。開山は潮音大和尚、開基は玉堂和尚也。」

開山に至るまでに、1671(寛文11)年に熊野社守の養順という僧が、宗旨替えしようと黄檗派に願い出たことがあったが叶わなかったとも記す。だがその後1676(延宝4)年になって、名古屋の泉正寺という潰寺の号を譲り受け、開山上州黒瀧山不動寺潮音道海大和尚とし、開基はその弟子玉堂大和尚を請けて「熊野山先聖寺」となったのである。

★2022年5月20日追記:
下記の【 】内の記述は市橋鐸著『俳人丈艸』の32~34頁の記述などを要約したものだが、鈴木家の「口碑」だと市橋さんはいう。ここで鈴木玄察(玄道とも)とされているのは鈴木家第三世の「寂翁」(元禄9年2月没)のことである
。鈴木家の系図については、国文学研究資料館所蔵の「尾張国海東郡甚目寺村吉川家文書目録解題」(PDF) にある「尾張国丹羽郡犬山鈴木家文書目録」の〈鈴木家略系図〉(205頁)をひとまず参照したが、何カ所か誤記が散見される(戒名や没年月日など)。参照URL→★

【「熊野山」から現在の「神護山」になったのは、1715(正徳5)年、来鳳和尚のときに現在の熊野神社のある熊野町から外町天神庵に移転したことによる。寺が天神庵に移った背景には、市橋さんによると次のような話があったという。
玉堂和尚に帰依し、のちに1684(貞享元)年黄檗派の天神庵を開いたのは寂翁為和尚であり、彼は町医者の鈴木玄察だった。彼には3人の子がおり、それぞれ結婚したものの、なぜか3人とも時を置かずして相次いで亡くなってしまったという。このことがあってから玄察は家を去り、外町に庵をつくって禅三昧の生活に入ってしまったのである。3人の未亡人も義父に従い仏門に入ったらしい。】これは鈴木家の口碑だとのことだが、後にその庵のあった場所に先聖寺が熊野町から移ってきたのである。

丈艸は、玄察が天神庵を開いた頃はまだ犬山におり、鈴木家のこうした話を知っていたのではないかと市橋さんは書いている。丈艸の遁世はその数年後の20代半ばのことである。
その一方、彼が師事した玉堂和尚の詳細は今もよくわかっていないのである。
1715年に先聖寺が外町へ移ってきた頃、丈艸はすでにこの世の人ではなかった。先聖寺は、仏殿、鐘楼などを1959(昭和34)年の伊勢湾台風時に失ったため、現在の本堂が2004(平成16)年に建てられた。

熊野町時代に先聖寺があったといわれる今の熊野神社あたりを訪れても、ここに寺があったことを思い起こさせるものは何もない。ただ、街中に取り残されたかのような社の空間に入ると目に浮かぶのである。悩みを抱え参禅しつつも、詩を愉しみ、次第に自分のあるべき姿へと向かいつつある二本差しの姿が。
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2018年1月 4日 (木)

先聖寺 ①

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【しばらくの間休止していた丈艸の記事再開。】

これまで記事にしなかった丈艸の犬山時代の事蹟を訪ねる。

残念なことに、丈艸の青年時代を知る手がかりは少ないらしい。
穂積武平という人物が漢詩文の師であったらしいが、その詳しい人物像まではよくわかっていない。若き丈艸が名古屋に何度も出向き、露川を俳諧の師としたことは確かなようだから、武平との交流も名古屋のことであったかもしれないが、市橋さんの書いたものを読んでも武平についての詳細はわからない。

丈艸について、後世の人は蕉門俳人としてその名を知っているが、遁世後は立机して一門をつくったわけではない。たしかに蜂屋の魯九という唯一の弟子はあったにせよ、俳諧における通常の師弟関係と考えてよいか疑問が残る。丈艸は武士をやめ、遁世してからは仮の庵を結び、芭蕉亡きあとは俳人というよりも一所不住の僧として後半生を終えたのである。
遁世に至る若き日の彼の精神生活に大きな影響を与えたものは、禅であったにちがいない。武士として参禅することは珍しいことではないし、むしろ禅の体験や知識は武士たる者の心得のひとつだった。丈艸にとっても参禅することは、武士として決して特別な体験ではなかったのであろうが、禅はやがて人間丈艸の心の奥底深く浸透し、さらに文芸の道へも導いていったと思われる。

丈艸が禅の師としたのは、先聖寺の玉堂和尚であったが、彼がどのような人物であったかは委細不明である。
『犬山視聞図会』の「神護山先聖寺」の条に丈艸の詩二首がある。
七言絶句を記す。

 

空 門 深 築 小 蓬 莱   空門深く築く小蓬莱
終 日 詩 仙 乗 興 来   終日詩仙、興に乗りて来る
人 境 都 廬 倶 不 奪    人境都廬、倶に奪はず
座 禅 臺 畔 詠 琴 梅   座禅す臺畔、琴梅を詠ず

心に抱える問題は幾つもあったのだろう。幼少期に死別した母のこと、継母のこと、さらには異母兄弟の行く末のこと、自身の持病のことなど、のちの遁世につながる悩みを抱えていたはずだ。彼の主であった不運の寺尾直龍についてはすでにみたが、若くして政界を追われた従兄弟の姿にも濁世の無常を悟ったのかもしれない。
そうした当時の彼の心の裡を想像すると、悩みや迷いを乗り越えるために厳しい修行を日々行う姿をつい想像してしまうが、この詩の彼は、「人境倶不奪」(四料揀)を示し、ありのままの今を受け入れ、琴梅を詠じることを愉しんでいるかのようだ。

次回も先聖寺について触れる。

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