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2018年1月 5日 (金)

先聖寺 ②


Jimon_2『犬山里語記』には、先聖寺について次のような記述がある。

「先聖寺は黄蘗(檗)派宇治萬福寺之末にて黒瀧派也。開山は潮音大和尚、開基は玉堂和尚也。」

開山に至るまでに、1671(寛文11)年に熊野社守の養順という僧が、宗旨替えしようと黄檗派に願い出たことがあったが叶わなかったとも記す。だがその後1676(延宝4)年になって、名古屋の泉正寺という潰寺の号を譲り受け、開山上州黒瀧山不動寺潮音道海大和尚とし、開基はその弟子玉堂大和尚を請けて「熊野山先聖寺」となったのである。

★2022年5月20日追記:
下記の【 】内の記述は市橋鐸著『俳人丈艸』の32~34頁の記述などを要約したものだが、鈴木家の「口碑」だと市橋さんはいう。ここで鈴木玄察(玄道とも)とされているのは鈴木家第三世の「寂翁」(元禄9年2月没)のことである
。鈴木家の系図については、国文学研究資料館所蔵の「尾張国海東郡甚目寺村吉川家文書目録解題」(PDF) にある「尾張国丹羽郡犬山鈴木家文書目録」の〈鈴木家略系図〉(205頁)をひとまず参照したが、何カ所か誤記が散見される(戒名や没年月日など)。参照URL→★

【「熊野山」から現在の「神護山」になったのは、1715(正徳5)年、来鳳和尚のときに現在の熊野神社のある熊野町から外町天神庵に移転したことによる。寺が天神庵に移った背景には、市橋さんによると次のような話があったという。
玉堂和尚に帰依し、のちに1684(貞享元)年黄檗派の天神庵を開いたのは寂翁為和尚であり、彼は町医者の鈴木玄察だった。彼には3人の子がおり、それぞれ結婚したものの、なぜか3人とも時を置かずして相次いで亡くなってしまったという。このことがあってから玄察は家を去り、外町に庵をつくって禅三昧の生活に入ってしまったのである。3人の未亡人も義父に従い仏門に入ったらしい。】これは鈴木家の口碑だとのことだが、後にその庵のあった場所に先聖寺が熊野町から移ってきたのである。

丈艸は、玄察が天神庵を開いた頃はまだ犬山におり、鈴木家のこうした話を知っていたのではないかと市橋さんは書いている。丈艸の遁世はその数年後の20代半ばのことである。
その一方、彼が師事した玉堂和尚の詳細は今もよくわかっていないのである。
1715年に先聖寺が外町へ移ってきた頃、丈艸はすでにこの世の人ではなかった。先聖寺は、仏殿、鐘楼などを1959(昭和34)年の伊勢湾台風時に失ったため、現在の本堂が2004(平成16)年に建てられた。

熊野町時代に先聖寺があったといわれる今の熊野神社あたりを訪れても、ここに寺があったことを思い起こさせるものは何もない。ただ、街中に取り残されたかのような社の空間に入ると目に浮かぶのである。悩みを抱え参禅しつつも、詩を愉しみ、次第に自分のあるべき姿へと向かいつつある二本差しの姿が。
Kumano_2

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