先聖寺 ①
【しばらくの間休止していた丈艸の記事再開。】
これまで記事にしなかった丈艸の犬山時代の事蹟を訪ねる。
残念なことに、丈艸の青年時代を知る手がかりは少ないらしい。
穂積武平という人物が漢詩文の師であったらしいが、その詳しい人物像まではよくわかっていない。若き丈艸が名古屋に何度も出向き、露川を俳諧の師としたことは確かなようだから、武平との交流も名古屋のことであったかもしれないが、市橋さんの書いたものを読んでも武平についての詳細はわからない。
丈艸について、後世の人は蕉門俳人としてその名を知っているが、遁世後は立机して一門をつくったわけではない。たしかに蜂屋の魯九という唯一の弟子はあったにせよ、俳諧における通常の師弟関係と考えてよいか疑問が残る。丈艸は武士をやめ、遁世してからは仮の庵を結び、芭蕉亡きあとは俳人というよりも一所不住の僧として後半生を終えたのである。
遁世に至る若き日の彼の精神生活に大きな影響を与えたものは、禅であったにちがいない。武士として参禅することは珍しいことではないし、むしろ禅の体験や知識は武士たる者の心得のひとつだった。丈艸にとっても参禅することは、武士として決して特別な体験ではなかったのであろうが、禅はやがて人間丈艸の心の奥底深く浸透し、さらに文芸の道へも導いていったと思われる。
丈艸が禅の師としたのは、先聖寺の玉堂和尚であったが、彼がどのような人物であったかは委細不明である。
『犬山視聞図会』の「神護山先聖寺」の条に丈艸の詩二首がある。
七言絶句を記す。
空 門 深 築 小 蓬 莱 空門深く築く小蓬莱
終 日 詩 仙 乗 興 来 終日詩仙、興に乗りて来る
人 境 都 廬 倶 不 奪 人境都廬、倶に奪はず
座 禅 臺 畔 詠 琴 梅 座禅す臺畔、琴梅を詠ず
心に抱える問題は幾つもあったのだろう。幼少期に死別した母のこと、継母のこと、さらには異母兄弟の行く末のこと、自身の持病のことなど、のちの遁世につながる悩みを抱えていたはずだ。彼の主であった不運の寺尾直龍についてはすでにみたが、若くして政界を追われた従兄弟の姿にも濁世の無常を悟ったのかもしれない。
そうした当時の彼の心の裡を想像すると、悩みや迷いを乗り越えるために厳しい修行を日々行う姿をつい想像してしまうが、この詩の彼は、「人境倶不奪」(四料揀)を示し、ありのままの今を受け入れ、琴梅を詠じることを愉しんでいるかのようだ。
次回も先聖寺について触れる。
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