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2018年2月

2018年2月24日 (土)

丈艸と惟然 ③

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光圓寺(もと慶圓寺):南側には梅龍寺山(2018年1月)

 
    美濃関にて 『そこの花』  (
『志津屋敷』では ”箕十亭” )

町中の山や五月ののぼり雲   
丈艸

丈艸が惟然の郷里である関で詠んだ句。
丈艸は1700(元禄13)年夏に生母の年忌法要のため、仏幻庵から郷里の犬山に帰省し、ついでに美濃の各地に立ち寄り、関へも足をはこんでいる。彼にとってはかつてない長旅であった。関の「慶圓寺」(現在の光圓寺)には、知り合いで住職だった正圓(万々堂箕十)がおり、この句は寺内にあった箕十亭で詠んだものといわれている(ただしこのとき惟然は関にいない)。正圓の箕十亭はこの地の俳諧仲間が集う大切な場であったが、昭和初期に老朽化のため取り壊されたとのこと。

座五「のぼり雲」は雨を予感させる雲であり、旅の途上にある丈艸の「雨来たらんとする五月空のこころもとなさと、行脚僧の明日の旅を気にしている気もちとがにじみ出ている」(『丈草発句漫談』)と市橋さんは述べ、「町中の山」が関の里の地形をうまくよみこんだものだ、ともいっているが、この「山」が具体的には関のどの山なのかは言及していない。
沢木美子さんは惟然の評伝『風羅念仏にさすらう』(1999年)のなかで、「町中の山」が光圓寺の南にある梅龍寺山であろうと指摘し、丈艸の故郷犬山はこの山の南にあり、その方角からわきたつ「のぼり雲」に彼の望郷の念も託されている、と述べている。これを読んだその日、すぐ思い立って光圓寺へ向かった。
この場所の吟ならば、北西に流れる「のぼり雲」は、やはり目の前の梅龍寺山の背後から立ち上る雲でなければならず、沢木さんの見立てどおりだろうと思ったのである。

ところで今日は丈艸忌。この句を詠んでから4年後のことである。

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2018年2月18日 (日)

犬山市立図書館と・・・

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今年は戌年ということもあって、犬山市の名にちなんで『犬文庫』が開設されている。実は面白いことに、その直ぐ隣には『サル文庫』がある。市内の京都大学霊長類研究所から寄贈された書籍をもとに、20年以上前に設けられたそうだ。
地元の図書館なのでよく利用する。「国会図書館」の遠隔複写サービスもできるようになればもっと利用しやすくなるのだが・・・。

Neko_3*なお図書館のすぐ南隣は「木ノ下城跡」。
現在は「愛宕神社」となっている。
城が今の木曽川河畔につくられたときに廃城となり、その後跡地に神社と寺が開かれたが、寺は明治になり廃された。
『犬山視聞図絵』の「愛宕山延命院」の条には次のような記述がみられる。
「愛宕山延命院は木の下村にあり。山上に愛宕神社、祭神伊弉冊尊・火産霊。仏家にては将軍地蔵といふ。天台宗にして、当院草創は鍛冶兼常といふ者、小笠原和泉守殿、命を請け長泉坊と改名し、修験にて当山の開山なり。本山は山城国愛宕山長床坊末寺。二世長泉妻永後住す。その後入鹿山白雲寺大闍梨隆基法印良陳住職、これより清僧住職にて連綿たり。(後略)」

数日前に立ち寄ったとき、本殿前に何匹も日向ぼっこをしていたが、この方が現れると本殿裏へ一目散に逃げ去った。城主なのか?

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2018年2月16日 (金)

丈艸と惟然 ②

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冬の伊吹山(一宮市内からの眺め:写真のみ更新 2022年1月)

木枕のあかや伊吹にのこる雪  丈艸
  
(い)
うぐひすにまた來て寐ばやねたひほど  
惟然

 別に、「鶯に又來て寐ばや窓の際  無名庵にて別丈草  『後の旅』」もある。

丈艸と惟然の交情を示すよく知られた句。玄梅の編になる『鳥の道』所収。

惟然は元禄8年1月末に義仲寺で行われた芭蕉百箇日法要出座のあと、故郷の関へ帰っている。その旅立ちに際して丈艸が惟然に餞として送った句と、それに惟然が応えた吟である。
当時丈艸は翁供養のために無名庵で暮らしていたので、おそらく惟然旅立ち前の数日の間をともにしたのであろう。
丈艸の句にはかなり長い前書きが付いている。
身を風雲にまろめ、あらゆる乏しさを物ともせず、たゞひとつの頭のやまひもてるゆゑに、枕の硬(かたき)をきらふのみ、惟然子が不自由なり
と述べ、蕉翁も惟然の「頭のやまひ」をよくからかっていたと師を慕い、
此春故郷へと湖上の草庵をのぞかれける幸に引駐(ひきとどめ)て、二夜三夜の鼾息(いびき)を贐(はなむけ)とす。猶末遠き山村野亭の枕に、いかなる木のふしをか侘て、残る寒さも一しほにこそと、背見送る岐(わかれ)に臨て
とある。

この句には芥川龍之介のよく知られた賛辞があるが、ここでは安東次男の『木枕の垢 古句再見』を取り上げる。
安東は、「伊吹は東から眺めて興のある山だ。芭蕉も大垣から見るこの山が好だった。(中略)膳所にいて、山向こうに思を馳せる二人共通の心の向がまず面白い」と述べ、「残雪にこれほど思切った取合わせを以てし、しかもそれがみごとに成功した例をほかに知らない」とまで言い切っている。
私もふくめ、美濃や尾張に住む者にとって東から伊吹山を望む風景は、幼いころから慣れ親しんでいるもので、それが伊吹山というものの姿だと思っている。だが所をかえて近江方面から見るこの山は、あまり陰影もなく大きな岩の塊にしか私には見えなかった。「東から眺めて興のある山」で芭蕉も好きだったという安東のことばに、なるほどと思ったのである。
丈艸の惟然にたいする深い思い遣り、旅の無事を祈る心が伝わってくる句であるが、翁の懐かしい話を前書きに取り入れ、いわば「内輪話」をしているかのようでもある。これに応じた惟然の吟は、「じゃ、また来るよ」とさらりと受けつつも、「ねたいほど」とことばを重ね、丈艸の厚情に感謝しているのである。
おそらく二人の思い描く残雪の伊吹山は、なつかしい故郷から見えるあの姿にちがいない。そうであってほしいと思う。

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2018年2月 9日 (金)

丈艸と惟然 ①

Photo_2            鳥落人墳:弁慶庵(岐阜県関市 2017年)

4年前、NHKの朝ドラをきっかけに柳原白蓮のことが話題になったとき、彼女が岐阜市や関市にも来ていたことをマスコミが報じていた。
1952(昭和27)年10月15日、彼女は髙木邦子(崇仁親王妃の母)とともに関市の「弁慶庵」を訪れている。その日付と二人の名が庵の記帳綴りに残されており、昨年春私が庵を訪れたときには、記帳の頁が開かれ展示されていた。岐阜には彼女が懇意にしていた人がいてよく訪れていたらしいので、隣の関市にも行ったのであろう。

白蓮が広瀬惟然ゆかりの弁慶庵を訪れたとき、庵主は12代「林靖梅応尼」であったが、彼女は昭和31年に没しているので、白蓮がここを訪れたとき梅応尼にうまく会えたか否かはわからない。この庵は、一世を惟然とし、二世は惟然の娘「月心智鑑尼」が引き継ぎ、その後無住となった時期もあったが、代々尼によって守られてきたという。大正・昭和に限っても、著名な俳人などがここを訪れている。庵は1993(平成5)年に建て替えられ、関市「広瀬惟然記念館」となって一般公開されている。

郷里も近いことから、惟然と丈艸は互いによく交流していたようであるが、同じ墨衣どうしとはいえ、性格も生き方もずいぶん異なっているようにみえる。蕉門のなかで、その名が世間によく知られているという点では、地味な丈艸よりも惟然が上かもしれない。すべてを信じることができないにしても、惟然の風狂、飄逸ぶりを伝える話は数多いし、その波乱に満ちた人生は興味深いものがある。
全国を行脚し、各地で足跡をのこし、交流した人も多かった惟然にくらべ、旅らしい旅をほとんどしなかった(できなかった)丈艸の移動範囲は、かなり狭い地域に限られていたため彼の足跡・事蹟も少ないのである。

そんな二人が当時どのような交流をしていたのか、これから数回に分けて記してみたい。


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