丈艸と惟然 ①
鳥落人墳:弁慶庵(岐阜県関市 2017年)
4年前、NHKの朝ドラをきっかけに柳原白蓮のことが話題になったとき、彼女が岐阜市や関市にも来ていたことをマスコミが報じていた。
1952(昭和27)年10月15日、彼女は髙木邦子(崇仁親王妃の母)とともに関市の「弁慶庵」を訪れている。その日付と二人の名が庵の記帳綴りに残されており、昨年春私が庵を訪れたときには、記帳の頁が開かれ展示されていた。岐阜には彼女が懇意にしていた人がいてよく訪れていたらしいので、隣の関市にも行ったのであろう。
白蓮が広瀬惟然ゆかりの弁慶庵を訪れたとき、庵主は12代「林靖梅応尼」であったが、彼女は昭和31年に没しているので、白蓮がここを訪れたとき梅応尼にうまく会えたか否かはわからない。この庵は、一世を惟然とし、二世は惟然の娘「月心智鑑尼」が引き継ぎ、その後無住となった時期もあったが、代々尼によって守られてきたという。大正・昭和に限っても、著名な俳人などがここを訪れている。庵は1993(平成5)年に建て替えられ、関市「広瀬惟然記念館」となって一般公開されている。
郷里も近いことから、惟然と丈艸は互いによく交流していたようであるが、同じ墨衣どうしとはいえ、性格も生き方もずいぶん異なっているようにみえる。蕉門のなかで、その名が世間によく知られているという点では、地味な丈艸よりも惟然が上かもしれない。すべてを信じることができないにしても、惟然の風狂、飄逸ぶりを伝える話は数多いし、その波乱に満ちた人生は興味深いものがある。
全国を行脚し、各地で足跡をのこし、交流した人も多かった惟然にくらべ、旅らしい旅をほとんどしなかった(できなかった)丈艸の移動範囲は、かなり狭い地域に限られていたため彼の足跡・事蹟も少ないのである。
そんな二人が当時どのような交流をしていたのか、これから数回に分けて記してみたい。
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