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2018年3月

2018年3月31日 (土)

本誓寺-江戸の芭蕉6

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            當知山 本誓寺(2018年3月下旬)

桜を見るために多くの人が門の前に集まっていた。
どことなく「格式」というものを感じさせる寺でありながら、整えられた木々草花には、尼寺のような清麗さも感じられる。調べてみると、明治・大正期のみ一時的なことではあるが、増上寺などと並ぶ浄土宗関東十八檀林であったことがわかった。僧侶育成の役割も担っていたのかもしれない。

Photo_9伊賀出身の芭蕉と所縁はないが、隣の伊勢松坂の国学者本居宣長とは深い関わりのあった寺である。宣長の実家は松坂木綿を商っており、江戸大伝馬町などに店をもっていた。彼は短期間ではあるが江戸にいたことがあるという。現存していないが、宣長と父などの一族の墓がこの寺にあったというから、江戸における菩提寺だったと思われる。
寺には歌人で国学者の村田春海の墓(東京都指定旧跡)がある。春海の家は干鰯問屋を営む豪商であり、一族の先祖は伊勢出身であったという話もあるから、宣長同様に彼も伊勢つながりで寺と無縁ではなかったのかもしれない。
もともと小田原で創建された本誓寺は、秀吉の小田原征伐で失われ、江戸で再建された。明暦の大火など2回の火災のため、17世紀末の天和年間に今の深川の地に移ったという。

以前、このあたりに住んでおられる方から、石造りの「迦楼羅像」が寺にあることを教えて頂いたことがある。そのとき見た写真の印象では小さな像だと思っていたけれども、実際は随分大きな像であることにまず驚いてしまった。朝鮮半島から伝わったともいうが、なぜこの像がここにあるのかなど詳しい由来はよくわかっていないらしい。
離れたところからは眼(まなこ)が閉じているようにみえる(自分の身長のためかもしれない)が、しゃがんでよく拝顔するとはっきり眼差しを感じることができる。ボリュームのある体躯に圧倒されつつも、どことなく愛嬌のある表情に心引かれてしまう。
像の光背についてあれこれ友人と話していたら、不動明王の火炎光背が「迦楼羅炎」と名付けられていることを教えてもらった。ついでの話に、名古屋の願王寺にもガルーダ像があるといわれたので、今度行ってみようと思ったのである。

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居心地がよかったのか、本誓寺でずいぶん長い時間を過ごした。
次は女性俳人園女が眠る「雄松院」、白河翁の墓所のある「霊厳寺」、そして最後に芭蕉所縁の「採荼庵」に立ち寄って弥次喜多道中を終えることにした。

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2018年3月30日 (金)

臨川寺-江戸の芭蕉5

Photo_4小名木川の最も西にある「萬年橋」を渡り、清洲橋通りに出て東へ進むと、めざす「臨川寺」が見えてきた。小さな体育館のようなアーチ型屋根が目を引く。門の上を見上げると、ベランダに「蓮弁の蛙」と名付けられた雨受けがある(→制作者のブログ参照)。4年ほど前の作品らしい。この愛らしいオブジェがあったことで、臨川寺のことを忘れることはないだろう。

17世紀中頃に鹿島根本寺の冷山和尚がこの地に臨川庵を結び、18世紀初めになって仏頂和尚の尽力で「瑞甕山臨川寺」の寺号を幕府から許されたという。妙心寺派末寺である。
芭蕉が仏頂和尚から学んだことは多かったであろう。禅だけでなく漢学や老荘の学も学び、それらは芭蕉の世界観に少なからず影響を及ぼしたと考えられる。
門を入ると碑が4つある。左から「梅花佛」「墨直しの碑」「玄武佛」「芭蕉由緒の碑」。「梅花佛」は岐阜出身の蕉門美濃派の祖各務支考、「玄武佛」は美濃派神谷玄武坊を顕彰したもの。
「墨直し」とは、支考が自派拡張のための俳壇経営法、つまり今風にいえば「イベント商法」であったと堀切実さんは述べている(『俳聖芭蕉と俳魔支考』)。京都の双林寺などで開催された芭蕉追善会記念の石碑の文字に、年々墨を入れ直す行事が行われ、美濃派拡張の一大イベントにしたそうだ(玄武坊が建てた臨川寺の墨直しの碑は、双林寺の碑の墨跡を写したもの)。「俳魔」とまでいわれ、蕉門のなかでも特異な存在であった支考については、あらためて調べてみたいと思っている。
支考の句で思い浮かぶのは・・・

行春に底の抜けたるつばき哉     (浮世の北)

哥書よりも軍書にかなし芳野山      (俳諧古今抄)

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臨川寺の隣は「本誓寺」である。とくに芭蕉と縁がある寺ではないが、前々から訪れたかったところである。北側から細い参道へ入ると歓声が聞こえてくる。かなり人が集まっているようだ。

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深川-江戸の芭蕉4

食事後友人が「乗ろうか」と。たった一駅だけど水天宮駅から清澄白河駅まで半蔵門線で移動。駅を出て清澄通りを北へ向かい、「高橋(たかばし)」で「小名木川」を渡る。すると橋の北詰に歌舞伎役者二代目中村芝翫の宅跡。天保期このあたりに彼が住んでいたらしい。
左折し「芭蕉通り」の桜並木を通り、「江東区芭蕉記念館」に着く。

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記念館では特別展「明治維新と俳句」で正岡子規などを扱っていたが、常設の芭蕉に関する展示のほうが興味深かった。その後隅田川の岸に出て川風に当たり芭蕉庵跡とされる「芭蕉稲荷神社」や「芭蕉庵史跡展望庭園」へ寄った。

記念館が先月発行したブックレット『芭蕉と深川』によると、芭蕉が日本橋から深川に移ったあと、小名木川が隅田川と合流する元番所あたりの川辺に2回住み替えているらしい。もちろん今となっては庵の正確な場所はわからない。以来約14年間、この深川の地を根城にして俳諧活動に励むことになるが、その間4年半ほどは全国各地を歩いている。
芭蕉が日本橋から深川に居を移した本当の理由はよくわからないが、町中の喧噪(俗世)を離れ、あえて隠棲に近い侘び住まいに入ろうと決意したことだけは確かなようだ。ただし芭蕉は生涯「遁世」はしなかったのであり、丈艸と比べると芭蕉の生き方は大きく異なっている。
草庵を結んだころ、芭蕉は当時深川の「臨川庵」に滞在していた仏頂禅師と出会っている。みずから「乞食の翁」とすらよび清貧に身を置くことで、先人の糧を得ながら独自の俳風を日々模索していたのであろう。

  「しばの戸に」詞書。
こゝのとせの春秋、市中に住侘て、居を深川のほとりに移す。「長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し」と云けむ人のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故にや。
 
 しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉  ばせを(続深川集)

さて次は南へ戻り、仏頂禅師所縁の「臨川寺」などを巡ることにした。

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2018年3月27日 (火)

水天宮-江戸の芭蕉3

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其角住居跡から東に進み、茅場町一丁目交差点を北へ向かう。茅場橋を渡ってしばらく歩くと東京水天宮が見えてきた。横浜の友人は以前都内に住んでいたから、この水天宮にも何か思い出があるのだろうが、なぜ今回水天宮に立ち寄りたかったかは話をしてくれなかった。ビルに囲まれた本殿の、宙に浮いたかのような造りに私はただ困惑するばかりである。
水天宮といえば、むしろ久留米の総本宮が私にとっては思い出がある。というのも父の昔話を思い起こさせるからであり、この東京水天宮にはあまり興味はない。

戦後復員した父は、業界紙の記者、税務官などの職を転々としていた。第二の人生をはじめようとしても、周りの人たちや社会の変化、掌を返したような風潮に馴染めず、職を得ても長続きしなかったようだ。やむなく実家の仕事を手伝うかたわら、或る商品(和傘)の通販を自分ひとりではじめた。久留米に住むかつての戦友からも大量の商品の注文があって送り届けたのであるが、鉄道輸送の混乱もあってか半年経っても到着しなかった。戦後混乱期の鉄道事情が原因とはいえ、詫びるためにわざわざ岐阜から久留米へ出向いたのである。
その戦友は久留米の水天宮近くに住んでいた。神社の境内に誘われ、そこで取引の不手際を父は謝った。最初は今にも殴りかかってきそうな戦友だったが、わざわざ九州まで足を運んだ父の誠意を最後には理解してくれたそうだ。このことがあって父はその仕事をやめた。しかしその後も定職に就くまで苦労は続いたようだ。水天宮といえば、この父の話をどうしても忘れることができないのである。
実は父の遺した従軍記を数年前に編集していたとき、この久留米の戦友のご子息と連絡がとれ、一度久留米の水天宮にも来て欲しいとの連絡を受けたが、まだ実現していない。

さて、友人が何をお願いしたかは知らないが、互いに「腹が減った」と意見が一致して神社の近くで腹ごしらえをし、私の行きたかった次の目的地「深川」へと向かうことになった。
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2018年3月26日 (月)

其角-江戸の芭蕉2

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其角の住居跡を見るために室町から兜町方面へ歩く。
途中「江戸橋」を渡りきったところで目を引いたのが、ビルと桜。プレートに陽光桜とあり、「花は一重で大輪 ・・・ 天城吉野と寒緋桜の交配で作出」との説明。
友人が「なんか、最近の映画に〈陽光桜〉ってなかった?」と言ったが、写真撮りに集中していたので生返事。
むしろビルのことが気になっていたので帰ってから調べてみると、意匠も含め歴史を感じさせる下層部分は、1930年築の歴史的建造物「江戸橋倉庫ビル」だった。上層部分を増築し最近整備された。中を見学したかった。
その南隣が「日本橋郵便局」、日本の郵便発祥の地。ちらっと見るだけ。

江戸橋一丁目交差点を左に折れて進む。手持ちの地図で確かめながら歩くと、
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ATMの側、説明板でもあるかと思ったがそれはなく、裏面に、昭和45年11月に建てたこと、頭取横田郁と日本勧業銀行茅場町支店の文字のみ。
其角のことを本格的に調べたことはないけれども、前回までの記事で紹介した丈艸宛の書簡を読む限り、さすが江戸っ子という印象は強い。芭蕉の最も古い弟子のひとりであり、「蕉門の伊達者」といわれたり、江戸俳壇の大スターでもあった。父は近江膳所出身の医者である。

十五から酒を呑み出て今日の月    (浮世の北)

越後屋に衣さく音や衣替え
          (同上)

うぐひすにこの芥子酢は涙かな        (類柑子)

3句目は赤穂浪士自刃の報を聞いてのもの。其角の知人であったとされる義士の名も数名伝わっているが、これも諸説あって真実はよくわからない。「越後屋」の句などの風物詩、あるいは社会種など興味は尽きないものの、複雑難解な句も多く、評解がなければその背景が全く不明なものも多いらしい。1句目は其角らしいところがあるが、あの酒好きの丈艸も、さすがに十五からは呑んでいなかったと思う。

春の夜の女とは我が娘哉  (五元集)

この句について堀切実さんは、「二人乗りの駕籠にまだ十歳ぐらいの娘と一緒に乗り合せたとき、酔いが手伝って」の句であろうと述べている(『芭蕉の門人』)。こうした驚きにも似た複雑な男の感情を、素直に表現できる其角という人物を羨ましいと思ったりする。

さて、次は友人が行きたいという「水天宮」まで歩く。

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2018年3月25日 (日)

日本橋-江戸の芭蕉1

Photo               車窓から(2018年3月)
P1010388ll_2               行幸通遊歩道から(2018年3月)

先週約半年ぶりの上京。
早朝富士の雪化粧。運良く見えたが、いつものように悲しいくらいあっという間の出来事。整備された行幸通遊歩道で待ち合わせ、横浜の友人と1日限りの「弥次喜多道中」に出発。

これまでは、芭蕉の故郷である伊賀上野と柘植のこと、大垣そして京都の落柿舎、義仲寺について記したことがあった。今回は、江戸・東京にある芭蕉の事蹟を友人と訪ねることにした。もちろん芭蕉とは直接関係のないところも歩くことになった。
「江戸の芭蕉」とはいっても、その旧跡すべてを見ることなどできないので、いつかまた訪れることにしようと思う。
歩いたのは日本橋深川界隈。無理せず、ゆったりと。

芭蕉が伊賀から江戸に移ったのは1672(寛文12)年29歳のときであった。1675(延宝3)年には、すでに「桃青」の俳号で西山宗因の百韻興行にも加わっていた。
1677(延宝5)年34歳のころから4年ほど神田上水にかかわる仕事(その頃の事蹟が文京区にある関口芭蕉庵)をしていたが、1680(延宝8)年37歳の冬、深川の草庵(芭蕉庵)に移っている。
だが江戸に来た当初、芭蕉がどこに住んでいたかには諸説あるらしい。日本橋小田原町(今の室町1丁目)あたりの借家に住んでいたという話はそのひとつである(尾張鳴海の下里知足:俳人住所録)。

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行幸通りから八重洲口へ出たあと、満開の「さくら通り」を抜け、日本橋方面へ向かった。三越を左に見てから2本目の筋を少し東へ進むと、佃煮の「日本橋鮒佐」の店の前に芭蕉の句碑がある。このあたりの借家に住んでいたらしい。

発句也松尾桃青宿の春  桃青(芭蕉)

1679(延宝7)年の歳旦句。俳諧宗匠となったのが前年であり、この句には一人前になった宗匠としての矜恃や気概、将来への道が開けたという安堵感さえ伝わってくる。素人目にも、後に大成した芭蕉からみればかなり青臭い句のようにみえる。
江戸時代このあたりは日本橋魚市場も近く、ずいぶん賑わっていたであろう。ところがほどなくして、芭蕉はこの町の喧噪を離れ、なぜか深川へ移ってしまうのである。
その深川方面に向かう前に、前回の記事でその書簡を見た宝井其角の住居跡へ行くため「江戸橋」を渡り、日本橋兜町方面へ歩いた。

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其角の書簡

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               無名庵(義仲寺:2017年夏)

よい節供でござるどなたも菊のはな 惟然

柴田宵曲は『蕉門の人々』(惟然)のなかで述べている。
中心人物の芭蕉を失った元禄俳壇は久しからずして乱離に陥った。」
惟然の句風が翁亡き後変化をし、俗語・口語を濫用するようになったことについて、
上掲のものを含む幾つかの句を並べ、それらは「ひとり言」であり、「この種のひとり言は、動もすれば『ひとりよがり』に堕しやすい」と評している。
当時すでに許六は、ある時期以降の惟然のことを、「蕉門の内に入りて、世上の人を迷はす大賊なり」(『俳諧問答』)とまで強く批判していた。惟然が蕉風から離れて新たな境地を求めたことだけでなく、翁供養といって奇抜な風羅念仏を派手にはじめたことも含め、いわば「身内」のなかに惟然の行状を難詰する声が出始めたのである。

元禄16年師走、当時の惟然の振る舞いについて書いた其角の丈艸宛て書簡がある。相当頭にきている書きぶりである。前回記したように、惟然たちが義仲寺無名庵修繕のための勧進活動や芭蕉像安置を計画していることへの非難である。たぶんそのやり方について不満があるらしく、惟然と親しい丈艸のもとへ胸の内を当たり散らしたのであろう。惟然らを「俳賊」とまで言い切っている。「あきれた」ことと思いつつも、惟然を理解していた丈艸にしてみれば、こうした蕉門のあいだに起こった問題を知り、人には言えない苦労を背負ったともいえる。
書簡の前半にはこうある。(引用元は前に同じ)


俳賊ども、かやうの見へ(え)すいたる工ミをいたし、恥を忘れて文通いたし、人に見せ申候もいまいま敷く、独寒灯に向ひ、二返と見ずに封のまゝにて其元へ進候。かやうのわけにてハ、義仲寺が惟然やら、惟然が義仲寺やら、とかく翁の名を売喰と相見え候。(中略)
正秀からして孤狸のやうに存候。膳所の人〻相かまへて化され給ふな(後略)


さらに続けて「
此者ども大盗人にて」とまで書いている。惟然とともに非難の的になっている人として、近江膳所の「正秀」の名がみえるが、実は同じころに正秀が野紅に宛てた書簡では、なんと正秀もまた惟然を非難しているのである。

・・・たゞ悲しきハ予壱人ニ非ズ 同門歎申候ハ、惟然散々之放埒、人道ニはづれ申候事悔申候。

人道に外れているとの文言には驚く。こうなると泥仕合のようでもあり、門人たちは互いに疑心暗鬼にさえなっていたのではないだろうか。
なお、鬼貫が惟然に宛てた書簡(これも上掲のものと同時期)がある。


・・・無名庵ニてハ人の口も如何に候べく候。外へ御出候て御求あるべく候と、鷺助も言伝申候

無名庵に住んでいると人に何を言われるかもしれないから、そこから出てしまったほうがよいとの助言である。ずいぶん惟然のことを心配している内容である。
限られた数の書簡だけでは、拗れてしまった事の真相はわからない。しかし其角などの書簡から推し量ると、風羅念仏踊りを含めた惟然の行動について、翁の供養や義仲寺修繕のためとはいえ、それが勧進の名を借りて「翁の名を売喰」している恥ずかしい行為だとみなす人は多かったようである。単なる金銭の問題かもしれないが、むしろ翁供養のあり方をめぐる意見の相違だったように思う。さらには惟然の俳風のことにまで及ぶと、問題はますます複雑である。
そんなこともあってか、惟然は無名庵を離れて京の風羅堂に移り(元禄14年春?)、そこに翁像を安置し、諸国の俳人が京を訪れたときの宿にしようと考えたのである。



参考(書簡についてのみ):
『蕉門俳人書簡集』(飯田正一編 昭和47年 桜楓社)
『蕉門俳人年譜集』(石川真弘 1982年 前田国文選書3)

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2018年3月23日 (金)

風羅念仏

Photo         義仲寺:木曽塚の側に芭蕉の墓碑がある。
              無名庵は近江における芭蕉の宿(2017年夏)

惟然のことをもう少し記す。
例の「風羅念仏」について丈艸が記した書簡のことである。

 

丈艸は翁亡き後、無名庵で3年の喪に服し仏幻庵に移った。彼が当時どのような生活をしていたか、それを窺い知ることのできる有名な書簡が複数残されている。近くに住む潘川に宛てた丈艸の書簡であり、とりわけ元禄14年4月と12月の2通が興味深いが、12月の書簡のなかに惟然の「風羅念仏」のことが記されている。
該当部分を引く。

依(惟)然、諸国〈コク〉奉加帳の力入渡り、紙衣ゑ(え)りまき十徳姿、少〈チト〉鉢扣をのがれ出たるてゐ(い)よと見へ(え)しが、又いかなる心やおこりけん.風羅念仏といふ事をあみ立て、木魚に似たる鳴リ物を拵へ、則(すなわち)風-羅-器ト名付て是をたゝき、
 古池に(くの字点)かハずとひこむ水の音
 ナムアミダブツナムアミダ(鉢扣の音声也)
   いかめしき音やあられの檜木笠、
     雪の袋やなげ頭巾
なんど、ケ様成(なる)唱歌九有(あつ)て、九品蓮台〈レンダイ〉にかたどりぬ.此度西国かた(濁点付くの字点)にて是を唱へしかバ、米を五升六升づゝ志(こころざし)たとの広言、古翁墓の下ニてもいかゞ見られけんと、もはや一言を出しがたし.十月十二日、草菴へゼヽ衆例の一列〈レツ〉集(あつまり)候節.彼(かの)念仏を手向ニトテ皆(くの字点)所望.残り多(おほき)き事ハ風羅器がないとの様躰.是斗〈バカリ〉ハ御いかなる笙の岩屋の無言上人も、あどハ合(あひ)申まじきと、あきれたもあきれぬも前座にたまられぬ仕合、チョット聞てモライ可申と書付候。
》 
(飯田正一編『蕉門俳人書簡集』:校訂の一部は略ないし改変)

「奉加帳」のことが記されている。義仲寺(無名庵)の修繕資金調達のために惟然は風羅念仏(踊り)をはじめたのである。丈艸が去ったあと、無名庵の三世庵主は惟然だった。だが惟然はすでに京のつづら屋町にも仮寓があり、しかも諸国を巡り歩いているため庵は荒れるにまかされた。庵の主であることは亡き翁の墓守ということでもあり、庵の修繕に惟然は責任を感じていたのであろう。資金集めのために風羅念仏踊りをはじめたとはいえ、自分自身の波瀾の半生を振り返り、罪滅ぼしという動機もあったのかもしれない。
風羅念仏をはじめた惟然に丈艸も相当あきれ果て、翁が墓の下でこれを見たら何というであろうかとも書いている。だが、あきれてはいるものの、惟然のこうした行いを丈艸は非難するつもりはないようにみえる。ところが、一部の蕉門の人たちは、惟然の振る舞いに我慢ができなくなってきた。
この2年後、其角から丈艸宛に手紙が送られてくるのである。
その内容を次回記す。

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2018年3月 3日 (土)

丈艸と惟然 ④

   洛の惟然が宅より古郷へ帰る時 『続猿簑』

鼠ども出立の芋をこかしけり         丈艸

丈艸と惟然の交遊についてふれるとき、よく紹介される句のひとつ。
前々回の「木枕」の句は惟然旅立ちの折のものであったが、これは元禄7年7月丈艸帰郷のときのものと推定されており(*)、惟然は
元禄5年から7年にかけて京で仮寓していたらしい。
丈艸旅立ちの朝、惟然がせっかく膳に出した、あるいは出すつもりだった芋(里芋)を鼠どもにちょろまかされてしまったという話であり、諧謔の味も添えた一句である。
この句は、惟然の貧に徹する生活の様子を強調するためによく引用されているし、当時の俳友たちも惟然の衣食住が余りに簡素なことにずいぶん呆れはててはいた。

惟然のそうした暮らしぶりから、この句は一口咄として面白く受けとめることができるかもしれないが、私にはむしろ、惟然が大切な友にとっておきの芋を出して精一杯の餞をしようとしていた心遣い、そのことを有り難く思う丈艸の心の裡が伝わってくる吟なのである。
純朴で、無邪気な人柄であったといわれる惟然のことを、丈艸は誰よりもよく知っていたのではないだろうか。予想外の出来事にびっくりしながらも、ふたりの笑い声さえ聞こえてくるのである。

(*)  松尾勝郎『内藤丈草』、堀切実『蕉門名家句選』などの句解による。

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  惟然の「産湯の井戸」:関商工会議所北側の駐車場脇(2017年夏) 

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