水天宮-江戸の芭蕉3
水天宮
其角住居跡から東に進み、茅場町一丁目交差点を北へ向かう。茅場橋を渡ってしばらく歩くと東京水天宮が見えてきた。横浜の友人は以前都内に住んでいたから、この水天宮にも何か思い出があるのだろうが、なぜ今回水天宮に立ち寄りたかったかは話をしてくれなかった。ビルに囲まれた本殿の、宙に浮いたかのような造りに私はただ困惑するばかりである。
水天宮といえば、むしろ久留米の総本宮が私にとっては思い出がある。というのも父の昔話を思い起こさせるからであり、この東京水天宮にはあまり興味はない。
戦後復員した父は、業界紙の記者、税務官などの職を転々としていた。第二の人生をはじめようとしても、周りの人たちや社会の変化、掌を返したような風潮に馴染めず、職を得ても長続きしなかったようだ。やむなく実家の仕事を手伝うかたわら、或る商品(和傘)の通販を自分ひとりではじめた。久留米に住むかつての戦友からも大量の商品の注文があって送り届けたのであるが、鉄道輸送の混乱もあってか半年経っても到着しなかった。戦後混乱期の鉄道事情が原因とはいえ、詫びるためにわざわざ岐阜から久留米へ出向いたのである。
その戦友は久留米の水天宮近くに住んでいた。神社の境内に誘われ、そこで取引の不手際を父は謝った。最初は今にも殴りかかってきそうな戦友だったが、わざわざ九州まで足を運んだ父の誠意を最後には理解してくれたそうだ。このことがあって父はその仕事をやめた。しかしその後も定職に就くまで苦労は続いたようだ。水天宮といえば、この父の話をどうしても忘れることができないのである。
実は父の遺した従軍記を数年前に編集していたとき、この久留米の戦友のご子息と連絡がとれ、一度久留米の水天宮にも来て欲しいとの連絡を受けたが、まだ実現していない。
さて、友人が何をお願いしたかは知らないが、互いに「腹が減った」と意見が一致して神社の近くで腹ごしらえをし、私の行きたかった次の目的地「深川」へと向かうことになった。
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