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2018年3月25日 (日)

其角の書簡

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               無名庵(義仲寺:2017年夏)

よい節供でござるどなたも菊のはな 惟然

柴田宵曲は『蕉門の人々』(惟然)のなかで述べている。
中心人物の芭蕉を失った元禄俳壇は久しからずして乱離に陥った。」
惟然の句風が翁亡き後変化をし、俗語・口語を濫用するようになったことについて、
上掲のものを含む幾つかの句を並べ、それらは「ひとり言」であり、「この種のひとり言は、動もすれば『ひとりよがり』に堕しやすい」と評している。
当時すでに許六は、ある時期以降の惟然のことを、「蕉門の内に入りて、世上の人を迷はす大賊なり」(『俳諧問答』)とまで強く批判していた。惟然が蕉風から離れて新たな境地を求めたことだけでなく、翁供養といって奇抜な風羅念仏を派手にはじめたことも含め、いわば「身内」のなかに惟然の行状を難詰する声が出始めたのである。

元禄16年師走、当時の惟然の振る舞いについて書いた其角の丈艸宛て書簡がある。相当頭にきている書きぶりである。前回記したように、惟然たちが義仲寺無名庵修繕のための勧進活動や芭蕉像安置を計画していることへの非難である。たぶんそのやり方について不満があるらしく、惟然と親しい丈艸のもとへ胸の内を当たり散らしたのであろう。惟然らを「俳賊」とまで言い切っている。「あきれた」ことと思いつつも、惟然を理解していた丈艸にしてみれば、こうした蕉門のあいだに起こった問題を知り、人には言えない苦労を背負ったともいえる。
書簡の前半にはこうある。(引用元は前に同じ)


俳賊ども、かやうの見へ(え)すいたる工ミをいたし、恥を忘れて文通いたし、人に見せ申候もいまいま敷く、独寒灯に向ひ、二返と見ずに封のまゝにて其元へ進候。かやうのわけにてハ、義仲寺が惟然やら、惟然が義仲寺やら、とかく翁の名を売喰と相見え候。(中略)
正秀からして孤狸のやうに存候。膳所の人〻相かまへて化され給ふな(後略)


さらに続けて「
此者ども大盗人にて」とまで書いている。惟然とともに非難の的になっている人として、近江膳所の「正秀」の名がみえるが、実は同じころに正秀が野紅に宛てた書簡では、なんと正秀もまた惟然を非難しているのである。

・・・たゞ悲しきハ予壱人ニ非ズ 同門歎申候ハ、惟然散々之放埒、人道ニはづれ申候事悔申候。

人道に外れているとの文言には驚く。こうなると泥仕合のようでもあり、門人たちは互いに疑心暗鬼にさえなっていたのではないだろうか。
なお、鬼貫が惟然に宛てた書簡(これも上掲のものと同時期)がある。


・・・無名庵ニてハ人の口も如何に候べく候。外へ御出候て御求あるべく候と、鷺助も言伝申候

無名庵に住んでいると人に何を言われるかもしれないから、そこから出てしまったほうがよいとの助言である。ずいぶん惟然のことを心配している内容である。
限られた数の書簡だけでは、拗れてしまった事の真相はわからない。しかし其角などの書簡から推し量ると、風羅念仏踊りを含めた惟然の行動について、翁の供養や義仲寺修繕のためとはいえ、それが勧進の名を借りて「翁の名を売喰」している恥ずかしい行為だとみなす人は多かったようである。単なる金銭の問題かもしれないが、むしろ翁供養のあり方をめぐる意見の相違だったように思う。さらには惟然の俳風のことにまで及ぶと、問題はますます複雑である。
そんなこともあってか、惟然は無名庵を離れて京の風羅堂に移り(元禄14年春?)、そこに翁像を安置し、諸国の俳人が京を訪れたときの宿にしようと考えたのである。



参考(書簡についてのみ):
『蕉門俳人書簡集』(飯田正一編 昭和47年 桜楓社)
『蕉門俳人年譜集』(石川真弘 1982年 前田国文選書3)

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