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2018年3月25日 (日)

日本橋-江戸の芭蕉1

Photo               車窓から(2018年3月)
P1010388ll_2               行幸通遊歩道から(2018年3月)

先週約半年ぶりの上京。
早朝富士の雪化粧。運良く見えたが、いつものように悲しいくらいあっという間の出来事。整備された行幸通遊歩道で待ち合わせ、横浜の友人と1日限りの「弥次喜多道中」に出発。

これまでは、芭蕉の故郷である伊賀上野と柘植のこと、大垣そして京都の落柿舎、義仲寺について記したことがあった。今回は、江戸・東京にある芭蕉の事蹟を友人と訪ねることにした。もちろん芭蕉とは直接関係のないところも歩くことになった。
「江戸の芭蕉」とはいっても、その旧跡すべてを見ることなどできないので、いつかまた訪れることにしようと思う。
歩いたのは日本橋深川界隈。無理せず、ゆったりと。

芭蕉が伊賀から江戸に移ったのは1672(寛文12)年29歳のときであった。1675(延宝3)年には、すでに「桃青」の俳号で西山宗因の百韻興行にも加わっていた。
1677(延宝5)年34歳のころから4年ほど神田上水にかかわる仕事(その頃の事蹟が文京区にある関口芭蕉庵)をしていたが、1680(延宝8)年37歳の冬、深川の草庵(芭蕉庵)に移っている。
だが江戸に来た当初、芭蕉がどこに住んでいたかには諸説あるらしい。日本橋小田原町(今の室町1丁目)あたりの借家に住んでいたという話はそのひとつである(尾張鳴海の下里知足:俳人住所録)。

Photo_5Photo_7

行幸通りから八重洲口へ出たあと、満開の「さくら通り」を抜け、日本橋方面へ向かった。三越を左に見てから2本目の筋を少し東へ進むと、佃煮の「日本橋鮒佐」の店の前に芭蕉の句碑がある。このあたりの借家に住んでいたらしい。

発句也松尾桃青宿の春  桃青(芭蕉)

1679(延宝7)年の歳旦句。俳諧宗匠となったのが前年であり、この句には一人前になった宗匠としての矜恃や気概、将来への道が開けたという安堵感さえ伝わってくる。素人目にも、後に大成した芭蕉からみればかなり青臭い句のようにみえる。
江戸時代このあたりは日本橋魚市場も近く、ずいぶん賑わっていたであろう。ところがほどなくして、芭蕉はこの町の喧噪を離れ、なぜか深川へ移ってしまうのである。
その深川方面に向かう前に、前回の記事でその書簡を見た宝井其角の住居跡へ行くため「江戸橋」を渡り、日本橋兜町方面へ歩いた。

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