臨川寺-江戸の芭蕉5
小名木川の最も西にある「萬年橋」を渡り、清洲橋通りに出て東へ進むと、めざす「臨川寺」が見えてきた。小さな体育館のようなアーチ型屋根が目を引く。門の上を見上げると、ベランダに「蓮弁の蛙」と名付けられた雨受けがある(→制作者のブログ参照)。4年ほど前の作品らしい。この愛らしいオブジェがあったことで、臨川寺のことを忘れることはないだろう。
17世紀中頃に鹿島根本寺の冷山和尚がこの地に臨川庵を結び、18世紀初めになって仏頂和尚の尽力で「瑞甕山臨川寺」の寺号を幕府から許されたという。妙心寺派末寺である。
芭蕉が仏頂和尚から学んだことは多かったであろう。禅だけでなく漢学や老荘の学も学び、それらは芭蕉の世界観に少なからず影響を及ぼしたと考えられる。
門を入ると碑が4つある。左から「梅花佛」「墨直しの碑」「玄武佛」「芭蕉由緒の碑」。「梅花佛」は岐阜出身の蕉門美濃派の祖各務支考、「玄武佛」は美濃派神谷玄武坊を顕彰したもの。
「墨直し」とは、支考が自派拡張のための俳壇経営法、つまり今風にいえば「イベント商法」であったと堀切実さんは述べている(『俳聖芭蕉と俳魔支考』)。京都の双林寺などで開催された芭蕉追善会記念の石碑の文字に、年々墨を入れ直す行事が行われ、美濃派拡張の一大イベントにしたそうだ(玄武坊が建てた臨川寺の墨直しの碑は、双林寺の碑の墨跡を写したもの)。「俳魔」とまでいわれ、蕉門のなかでも特異な存在であった支考については、あらためて調べてみたいと思っている。
支考の句で思い浮かぶのは・・・
行春に底の抜けたるつばき哉 (浮世の北)
哥書よりも軍書にかなし芳野山 (俳諧古今抄)
臨川寺の隣は「本誓寺」である。とくに芭蕉と縁がある寺ではないが、前々から訪れたかったところである。北側から細い参道へ入ると歓声が聞こえてくる。かなり人が集まっているようだ。
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