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2018年3月23日 (金)

風羅念仏

Photo 義仲寺:木曽塚の側に芭蕉の墓碑がある。
     寺内の無名庵は近江における芭蕉の宿(2017年夏)

惟然のことをもう少し記す。
例の「風羅念仏」について丈艸が記した書簡のことである。

 

丈艸は翁亡き後、無名庵で3年の喪に服し仏幻庵に移った。彼が当時どのような生活をしていたか、それを窺い知ることのできる有名な書簡が複数残されている。近くに住む潘川に宛てた丈艸の書簡であり、とりわけ元禄14年4月と12月の2通が興味深いが、12月の書簡のなかに惟然の「風羅念仏」のことが記されている。
該当部分を引く。

依(惟)然、諸国〈コク〉奉加帳の力入渡り、紙衣ゑ(え)りまき十徳姿、少〈チト〉鉢扣をのがれ出たるてゐ(い)よと見へ(え)しが、又いかなる心やおこりけん.風羅念仏といふ事をあみ立て、木魚に似たる鳴リ物を拵へ、則(すなわち)風-羅-器ト名付て是をたゝき、
 古池に(くの字点)かハずとひこむ水の音
 ナムアミダブツナムアミダ(鉢扣の音声也)
   いかめしき音やあられの檜木笠、
     雪の袋やなげ頭巾
なんど、ケ様成(なる)唱歌九有(あつ)て、九品蓮台〈レンダイ〉にかたどりぬ.此度西国かた(濁点付くの字点)にて是を唱へしかバ、米を五升六升づゝ志(こころざし)たとの広言、古翁墓の下ニてもいかゞ見られけんと、もはや一言を出しがたし.十月十二日、草菴へゼヽ衆例の一列〈レツ〉集(あつまり)候節.彼(かの)念仏を手向ニトテ皆(くの字点)所望.残り多(おほき)き事ハ風羅器がないとの様躰.是斗〈バカリ〉ハ御いかなる笙の岩屋の無言上人も、あどハ合(あひ)申まじきと、あきれたもあきれぬも前座にたまられぬ仕合、チョット聞てモライ可申と書付候。
》 
(飯田正一編『蕉門俳人書簡集』:校訂の一部は略ないし改変)

「奉加帳」のことが記されている。義仲寺(無名庵)の修繕資金調達のために惟然は風羅念仏(踊り)をはじめたのである。丈艸が去ったあと、無名庵の三世庵主は惟然だった。だが惟然はすでに京のつづら屋町にも仮寓があり、しかも諸国を巡り歩いているため庵は荒れるにまかされた。庵の主であることは亡き翁の墓守ということでもあり、庵の修繕に惟然は責任を感じていたのであろう。資金集めのために風羅念仏踊りをはじめたとはいえ、自分自身の波瀾の半生を振り返り、罪滅ぼしという動機もあったのかもしれない。
風羅念仏をはじめた惟然に丈艸も相当あきれ果て、翁が墓の下でこれを見たら何というであろうかとも書いている。だが、あきれてはいるものの、惟然のこうした行いを丈艸は非難するつもりはないようにみえる。ところが、一部の蕉門の人たちは、惟然の振る舞いに我慢ができなくなってきた。
この2年後、其角から丈艸宛に手紙が送られてくるのである。
その内容を次回記す。

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