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2018年4月

2018年4月26日 (木)

深川図書館

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遠出したとき、その町にある図書館や博物館(史・資料館)を訪れることが多い。ほとんどの図書館には郷土史コーナーがあり、1時間もあればその町の歴史や地理のあらましを知ることができる。先日の深川で歩いたコースには「深川江戸資料館」、「深川図書館」があり、短い時間ではあったけれど立ち寄ることができた。

深川江戸資料館では、当時の「作り物」よりも、企画展示の「時代小説と深川」が印象に残る。平岩弓枝、藤沢周平、池波正太郎、松本清張、宮部みゆき・・・、今歩いてきた周辺がそのまま小説の舞台なのだと思うと、まだ読んでいない物語に興味が湧いてくる。

児童公園(清澄庭園)の隣に深川図書館があり、少しの時間立ち寄った。実は「郷土資料室」だけはどうしても見たかったけれども、入るには登録手続などが必要と知って、時間もないので断念。もう少し余裕があればよかった。
館内は自分の理想とする図書館のスペースに近いし、階段にはステンドグラスの光が差し込み、落ち着いた雰囲気。ここなら毎日でも通いたくなってしまう。最近新しくつくられる図書館は、どこも明るく開放的で、多目的を誇示するところが多くなっているが、自分にとって理想的な図書館とはほど遠く、がっかりすることが多い。
今の建物は昭和初期のものだが、明治以来、震災や空襲を乗り越えてきた長い歴史をもつ図書館である。利用者も含め、この図書館を大切に支え守ってこられた多くの人々の地道な努力を感じることができる。

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2018年4月16日 (月)

「蓮弁の蛙」再び

深川の芭蕉旧跡を巡ったとき、臨川寺で見た雨受けの「蓮弁の蛙」のことが今も頭から離れない。できあがるまでの過程は、制作者(流鏑馬千紘さん)のブログに公開されている。これ以外にも、千紘さんは蛙をテーマにした作品をつくっておられるようだ。
その設計図をよく見ると、雨水を受ける内側(蛙の反対側)に、「オタマジャクシ」も据えてあった。雨水のなかで泳いでいるオタマを、ベランダにいる人だけが見ることができるらしい。
蓮と蛙のことを考えていたら、心は奈良へと向かっていた。

奈良「唐招提寺」は自分にとって大切な寺院のひとつ。
お寺が参拝客の数を増やすために、過度な工夫をしている様子を見ると、がっかりすることがあるが、唐招提寺だけはどこか超然としたところがあって、いつ訪れても心が安まる。余計な説明板も、派手な幟が乱立しているような猥雑さもない。うまく説明出来ないけれども、寺内を歩くだけで身も心も清々しくなり、生き返ったような気分にさせる。その清浄さを特に感じるのが夏である。
蓮の花だけを見るのであれば、他のお寺に出かけた方がいいのだろうが、唐招提寺の蓮に出会うことは、自分にとって特別幸せなことなのである。
奈良の夏を主題にした下の映像には、唐招提寺と蓮の花、そしてなんと「蓮弁の蛙」も登場する。映像に出てくる幾つもの寺社や風景は、夏の季節なのに、あくまでも爽やかで瑞々しい。

☆奈良で活躍されている映像作家保山耕一さんの作品。
  曲は久石譲の Summer。
 (1:30~唐招提寺、2:28~「蓮弁の蛙」)

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2018年4月10日 (火)

採荼庵-江戸の芭蕉8

清澄通りに出て南へ少し歩く。
満開間近の桜を横目に、仙台堀川の「海辺橋」を渡る。
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この仙台堀川(仙台堀)から、芭蕉は船で隅田川を上り、千住を経て『おくのほそ道』の旅に出発したという。すでに芭蕉庵を引き払い(「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家)、このあたりにあった門人杉山杉風の別宅(実際はもう少し南)に居を移してから、西行忌500年の1689(元禄2年)年春に旅立ち、秋に美濃大垣を結びの地とした。出発したのは旧暦3月の末というから、すでに春も終わるころだったのであろう。
橋の南詰には、「採荼庵」の「作り物」が設えてあり、芭蕉旅立ちの像もあるが、写真を撮る気にはならなかった。説明の碑だけで十分なのにね、と友人が小声で呟いていた。
弥次喜多道中はここで上がりとなった。
1日中あちこち歩き回ったのは、芭蕉に関わる事蹟を見ることが主な目的だったけれども、終わってみれば、むしろ目的以外の場所で楽しめたことが多かった。

地下鉄に乗るために北へ戻ることにした。距離は多くはないが、朝から歩き続け暑さも加わってきて疲れが出てきた。橋を渡ったところに児童公園(清澄庭園)があり、二人とも倒れるようにベンチに腰をおろした。
公園の北側に更地の広場があり、そこに取り残されたように木蓮の木が立っている。「なんであそこに木蓮があるんだろう」、「整地するときに残したかも知れんな」などと互いにことばを交わした。帰るために立ち上がり、初夏のような青空のなかに揺れる木蓮の花を見上げ、シャッターを切った。

帰宅してから、あの木蓮のことが気になり、以前読んだ女性俳人の解説本に真砂女の句があったはずだと思い、探したのである。
なぜか、母によく叱られた幼いころの記憶がつぎつぎに蘇ってくる。


 戒名は真砂女でよろし紫木蓮   鈴木真砂女

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        紫木蓮(清澄庭園:児童公園 2018年3月下旬)

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2018年4月 8日 (日)

園女-江戸の芭蕉7

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本誓寺から東へ進み、清澄通りを渡って「雄松院」へ向かう。人通りも急に減り、寺には墓参の方がひとりみえただけであった。もとは「霊厳寺」の開山堂である。園女(そのめ)と覚えていたが、門側の標柱には(そのじょ)と振ってある。
門を入って右側に碑が三基あり、中央が園女のもの。しかし本来の墓は関東大震災で壊れたとのことで(→1975年撮影の写真参照)、これは新しい碑である。

園女は伊勢山田の出身。夫は蕉門の医者斯波一有(謂川)。伊勢に来た芭蕉と会っているらしいが、時期は定かではない。夫婦はやがて大坂に移り住み、井原西鶴に歓迎されたという。1694(元禄7)年大坂に来ていた芭蕉を自宅に迎える。だがほどなく芭蕉は病に倒れてしまう。9年後夫も失い、園女は其角を頼って江戸へ移り富岡八幡宮近くに住み、眼科医をしながら句集も編んだ。

大坂で芭蕉が園女宅に招かれた時、歌仙を巻いている。

白菊の目にたてゝ見る塵もなし     (笈日記)
                  

 
              しら菊や目に立て見る坋もなし (矢矧堤)

 これに応じた園女の脇句は、

  紅葉に水を流すあさ月

発句は、9月27日に園女宅を訪れたときの挨拶吟としてよく知られている。菊は長命の力があるものとされているので、園女を塵一つない清麗な白菊に喩えたものと解釈できるし、中七は、園女を「目をこらして、じっと見つめた」と読める。夫も同席している場でのことであるから、あまり深読みしてはならないと思うが、はたして芭蕉の胸の裡や如何。発句に応じた園女の脇句は、秋の朝ならではの清冽さを詠んだものだろうが、紅葉に自分を喩えているとすれば、なにやら意味深長。

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雄松院から少し東へ行き、「霊厳寺」に着く。この辺りではかなり広い寺域をもっているところだろう。老中として寛政の改革をおこなった松平定信(白河藩城主)がここに眠っている。白河という町の名は昭和になってからだというが、白河樂翁定信の名が今に伝わっている。
さて、朝から歩き続けているし、暑さも感じてきたので二人とも集中力がなくなってしまった。樂翁の墓を一瞥しただけで、すぐさま「上がり」の場所「採荼庵」へ急いだ。

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