園女-江戸の芭蕉7
本誓寺から東へ進み、清澄通りを渡って「雄松院」へ向かう。人通りも急に減り、寺には墓参の方がひとりみえただけであった。もとは「霊厳寺」の開山堂である。園女(そのめ)と覚えていたが、門側の標柱には(そのじょ)と振ってある。
門を入って右側に碑が三基あり、中央が園女のもの。しかし本来の墓は関東大震災で壊れたとのことで(→1975年撮影の写真参照)、これは新しい碑である。
園女は伊勢山田の出身。夫は蕉門の医者斯波一有(謂川)。伊勢に来た芭蕉と会っているらしいが、時期は定かではない。夫婦はやがて大坂に移り住み、井原西鶴に歓迎されたという。1694(元禄7)年大坂に来ていた芭蕉を自宅に迎える。だがほどなく芭蕉は病に倒れてしまう。9年後夫も失い、園女は其角を頼って江戸へ移り富岡八幡宮近くに住み、眼科医をしながら句集も編んだ。
大坂で芭蕉が園女宅に招かれた時、歌仙を巻いている。
白菊の目にたてゝ見る塵もなし (笈日記)
しら菊や目に立て見る坋もなし (矢矧堤)
これに応じた園女の脇句は、
紅葉に水を流すあさ月
発句は、9月27日に園女宅を訪れたときの挨拶吟としてよく知られている。菊は長命の力があるものとされているので、園女を塵一つない清麗な白菊に喩えたものと解釈できるし、中七は、園女を「目をこらして、じっと見つめた」と読める。夫も同席している場でのことであるから、あまり深読みしてはならないと思うが、はたして芭蕉の胸の裡や如何。発句に応じた園女の脇句は、秋の朝ならではの清冽さを詠んだものだろうが、紅葉に自分を喩えているとすれば、なにやら意味深長。
雄松院から少し東へ行き、「霊厳寺」に着く。この辺りではかなり広い寺域をもっているところだろう。老中として寛政の改革をおこなった松平定信(白河藩城主)がここに眠っている。白河という町の名は昭和になってからだというが、白河樂翁定信の名が今に伝わっている。
さて、朝から歩き続けているし、暑さも感じてきたので二人とも集中力がなくなってしまった。樂翁の墓を一瞥しただけで、すぐさま「上がり」の場所「採荼庵」へ急いだ。
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