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2018年7月

2018年7月26日 (木)

『女性俳人の系譜』

夏の母熟睡の蹠すさまじき       宇多喜代子 『りらの木』
 
ゆかた著てならびゆく背の母をこゆ    鈴木しづ子 『春雷』
            

酷暑の日々。生きているのが不思議なほど。
肝心の丈艸のことは随分ご無沙汰のままだが、日に日に母を思うことが増えてきたこともあってか、女性俳人の句を見たり、関係する本を手にすることが多くなった。
今回は宇多喜代子さんのことを主に触れるが、この地方(岐阜・犬山)に縁がある鈴木しづ子についても宇多さんとの関係で少し付け加える。

宇多さんの書いたものを最近改めて読んでいる。でも失礼なことに、彼女自身の俳句ひとつひとつにきちんと向き合ったことがない。出会いが句ではなくテレビの番組であったからかもしれない。彼女の師は桂信子、本業は「栄養士」だと話しておられたことがある。
宇多さんを初めて知ったのは、2002年の『NHK人間講座 女性俳人の系譜』のテキストを本屋で手に入れたときだった。母が70を過ぎて俳句に興味をもちはじめ、実家から電話があってテキストを買ってきて欲しいと頼まれたからだ。
自分もその番組を毎回見ていたし、テキストは母からもらって今も大切に書棚に置いている。その後NHKの俳句の番組でお見かけするたびに、その語り口がどことなく自分の母と重なるところもあって親しみを感じていた。
女性俳句の光と影』(上掲のテキストに数編を加筆したもの)、『ひとたばの手紙から(戦火を見つめた俳人たち)などが印象に残っている。昨年『この世佳し- 桂信子の百句』を上梓されている。解説も丁寧で弟子ならではのもの。新書サイズなので出かけるときバッグに入れている。
冒頭の宇多さんの句は好きだ。私のような男(の子)は母親のそうした寝姿や足のうらなどを見たことがない(いや見てはいけないと思っている)ので、むしろ驚きにも似た情動を呼び起こす。

さて、あのテキストは150頁ほどの短いものだったが、女性俳句だけではなく俳句の魅力を今まで以上に感じることのできた冊子だったし、そこで紹介されていた名だたる佳人の句や生き様をとおして、彼女らが背負った時代を見つめ直す機会にもなった。それぞれ境遇はちがうけれども、とくに戦争をはさんで生き抜いた女性たちの句や人生に心が動く。
とくに末尾近くで「鈴木しづ子」が取り上げられており、それがこのテキストを何度も読み返す理由ともなり、彼女の句に引き付けられることにもなった。
鈴木しづ子のことは、戦後中央俳壇では有名になっていたものの、やがて関東から遙か西の各務原で突然消息を絶ってしまった(1952年夏ごろらしい)。その後1980年代後半から次第に彼女のことが地元でも話題に取り上げられ、新聞や雑誌でしばしば紹介されるようになった。ただ残念なことに、岐阜や基地の町各務原での彼女の生活ぶり、駐留米兵との関係だけに目を向け、幾分興味本位になっている人もいたようだ。

彼女の句の背景を深く知りたくなった宇多さんは、「『指環』の写真のするどい視線に追い立てられるように」彼女のことを調べるため、80年代になって何回となく各務原通いを始め、丹念に彼女の足跡を辿った。その結果関係者の証言などから彼女の謎めいた履歴が多少は明らかになったようだが、結局宇多さんは「今後、鈴木しづ子に関して知ったことは一切聞かなかったこと、読まなかったことにしようと決めました」と述べ、彼女もまた「戦争の犠牲者であった」と結んでいる。宇多さんのこの優しい気持ちに私を含め共感できる人は多いと思う。
犬山市にあるしづ子の母綾子の墓について次回ぐらいに記す。


参考
『NHK人間講座 女性俳人の系譜』 宇多喜代子 NHK出版 2002年
『女性俳句の光と影 
明治から平成まで』 宇多喜代子 NHK出版 2008年
『ひとたばの手紙から』 宇多喜代子 角川ソフィア文庫 平成18年
『この世佳し -桂信子の百句』 宇多喜代子 ふらんす堂 2017年
『夏みかん酸つぱしいまさら純潔など 句集「春雷」 「指環」 』
                 鈴木しづ子 河出書房新社 2009年
『KAWADE 道の手帖 鈴木しづ子 生誕90年 伝説の女性俳人を追って』
                       河出書房新社 2009年
『風のささやき しづ子絶唱』 江宮隆之 河出書房新社 2004年
『しづ子』 川村蘭太 新潮社 2011年

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2018年7月 7日 (土)

女人髙野「室生寺」

P5280287_2ここ1週間、西日本を中心に記録的な大雨が降り続いている。
実家の様子も気になったので、きのう掃除がてら行った。母が家に残している小物を見ていたら、花台として使っていた小さな木片を見つけた(左)。写真はその左端にある焼印の部分だけを写したもので、「女人髙野 室生寺」とある。
奈良県宇陀市の室生寺は、今からちょうど20年前に台風7号で大きな被害を受けた。1998(平成10)年秋のことだった。強い風のために高さ60㍍の杉の巨木が五重塔に倒れかかり、檜皮葺の屋根五層とも無残に壊れてしまい、相輪の尖端も折れた。
また春日大社でも、倒れた大杉で東回廊の屋根の一部が破損しており、そのほかの奈良の文化財が各所で甚大な被害を受けた。

室生寺を初めて訪れたのは1980年代に入ってからだと思う。高さ16㍍ほどの小さな五重塔を母がとりわけ気に入っており、季節毎に家族で数回通った。それだけに台風被害のニュースには母も心を痛めていた。
幸いにも塔の本体は損傷を免れていたため、五重塔の修復は短期間で終わり、2000年夏には元の姿に戻った。その修復過程で再確認されたことは、従来言われていたように法隆寺五重塔に次ぐ日本で最も古い8世紀末前後の五重塔だったことだ。もちろん過去に修復は何度も行われているが、基本となる古材は当時のものが残っていたことから確認されたのであろう。
修復が終わった直後に訪れたときだと思うが、木片が勧進のために頒布されており、それが今手許にある花台だった。それは再建に利用できなかった塔の廃材なのか、それとも倒れた杉の木のものかはわからないけれども、母は再建をずいぶん喜び、これを大切に手許に置き使っていたのである。
母はもう訪れることができないが、代わりに梅雨が明けたら唐招提寺へ行く途中にでも久し振りに立ち寄ってみたいと思ったのである。

(修復に関する記録はNHKのアーカイブで今も見ることができる。→ここ

Photo                 室生寺:五重塔(2002年4月の撮影か?)

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