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2018年8月16日 (木)

朝鮮戦争と那加

動乱や踏めばくづるる土の霜

空軍の演習つづく夏葉の樹  再びの防空訓練夏葉濃し   


銀漢や軍備を希ふ言多く    銀漢や戦忌む言胸えぐり

鈴木しづ子が岐阜県に移り住んでいたのは、1950(S25)年~52(S27)年の間といわれる。その時期はまだ占領下の時代であり、しかも朝鮮戦争(動乱)や講和問題、再軍備問題が社会を揺り動かしていたころとちょうど重なる。
上の句は残された大量句から拾ったものだが、那加に住んでいたころのものであろう。しづ子の句といえば、ほとんどが叙情的、感傷的ものが多いなか、これらの句は、基地のある街の様子や社会の軋轢について、新聞記事を切り抜いたかのように詠んでいる。


戦後の各務原那加には米軍が進駐し Camp GIFU といわれた。しかし「租界NAKA」などと揶揄もされ、とくに基地に米兵が増員された1949(S24)年以降は、夜ともなれば米兵相手の女性たちがあふれ、街は異様な状況になっていた。
やがて
朝鮮戦争が始まると、沖縄をはじめ連合国軍が占領・進駐した日本各地の駐留地、飛行場や港は、後方基地として重要な役割をもち、日本もその活動を支えた。

戦地に近い九州北部では、開戦時の1950(S25)年6月29日夜に突如空襲警報が発令されたという。さらに、1952(S27)年7月21日から23日にかけて、関西地区を除き北海道から九州各地で防空演習が実施され、午後9時から30分の燈火管制も敷かれた(強制ではなかったが)。
こうした防空演習が、彼女の住む各務原那加周辺で実際に行われたかどうかは資料的に確認できなかったものの、掲句のなかには「再びの防空訓練」の文字がみえることから、それに近い事実は那加でもあったのではないだろうか。各務原飛行場では「空軍の演習」は当然行われていただろうし、基地に集まった多数の米兵の姿は、この街がそのまま戦地と繋がっていることを示していた。戦時東京で暮らしていたころの体験が再び蘇ってきたのだ。

 爆撃はげし

東京と生死をちかふ盛夏かな  『春雷』

朝鮮戦争が始まると「警察予備隊」が編成された(のちに保安隊をへて今の自衛隊となる)。世に「軍備を希ふ言」がある。だが「戦忌む言」もあり、彼女の胸をえぐる。空襲体験や戦死した許婚の面影を忘れることはない。

次回は、那加にあった大学、その当時の学生を彼女が詠んだ句をみる。

参考
掲句、しづ子の足跡は、川村蘭太の前掲書による。
『新聞集成昭和編年史』 昭和25年版Ⅲ 昭和27年版Ⅳ
『朝鮮戦争全史』 和田春樹 岩波書店 2002年
『那加町史』   昭和39年 非売品
『各務原市史』 史料 近代・現代 各務原市教委 昭和61年
『各務原市民の戦時体験』   各務原市教委 平成8年
『各務原市民の戦時記録』   各務原市教委 平成11年


Densha
   鈴木しづ子は仕事のために那加から岐阜市へ通っていたらしい。
          〈那加を走る岐阜行の名鉄電車(2018年7月)〉
     



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