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2018年8月 5日 (日)

鈴木しづ子の心組

Photo_2    犬山橋(ツインブリッジ)と城山(2018年7月)

  旧里に帰りて
精霊にもどり合せつ十とせぶり 内藤丈艸  『そこの花』

精霊を手よりおろして流しけり 鈴木しづ子 (昭和27年6月)


鈴木しづ子を撮った写真は、書籍類に載っている4枚だけらしい。
そのなかに、親族(伯母、妹夫婦)3人と一緒の写真があり、撮影場所は、犬山と鵜沼を結ぶ「犬山橋」下の河川敷である(※381頁)。昭和23年5月、まだ関東にいたしづ子は、母の3回忌法要のために親族らと犬山の妙海寺を訪れていたのである。
ちなみに上の写真は川岸から撮った現在の犬山橋で、写真の下側には一部川底が隆起し草の生えたところがある。しづ子らが写った写真とほぼ同じアングルであるが、当時の写真は河川敷で撮っているので、もう少し下から見上げるような角度になっている。
昭和20年代、この付近の木曽川は、川の中央部まで左岸から広い河川敷が続いていた。貸しボート、ライン下りの遊覧船などの船着場もそこにあった。現在は、橋のすぐ下流に灌漑用水確保のため「ライン大橋」(ダム)がつくられ、水量が増えて河川敷は消えている。当時撮った写真では、犬山橋がまだ鉄道橋と道路橋の併用橋だったため、上の写真の後方に見える本来の犬山橋一つしかなかったのである。

ところであの写真を見たとき、すぐ丈艸の面影が浮かんだ。
写真の背景に山のようなものが写っているが、それは城山である。かつて記事(ここ)にしたように、丈艸がこの城山に登って親指を切り落とし、士分を捨てて出家する口実としたとの伝説が語られた岩山である。また、橋のすぐ東の左岸は、丈艸が故郷を捨てて旅立った内田の渡し場である(記事はここ)。
たぶん彼女は、蕉風を最も忠実に受け継いだといわれる丈艸とその句の幾つかを知っていたことであろう。
処女句集『春雷』の跋の後半で彼女はこう書いている。
  「句は私の生命でございます。
  俳聖芭蕉の詩精神に一歩でもちかづくべく、こののちとも
  より一層の努力をいたす心組にございます。」


掲句。
丈艸としづ子それぞれの母が、同じ犬山に眠っているということを思いながら、ふたつの句を並べてみた。精霊会、魂送りにちなんだ句である。
丈艸は幼い頃に母を亡くし、継母の生んだ弟に家督を譲り遁世して犬山を去った。この句は母の37回目の忌辰(忌日は旧暦8月)に合わせ、犬山へ10年ぶりに帰郷したときの句といわれる(元禄13年)。すでに母の死をきっかけにして、丈艸の運命の歯車は動きだしていたのだ。
他方、しづ子の句は残された大量句のなかにある。〈精霊の大きく揺れてより流る〉〈精霊のそのまま流れそめにけり〉と並んで残されている。精霊は、亡き母、戦死した婚約者、生まれることを彼女が拒んだ子、あるいは不慮の死を遂げた恋人GI、これら亡きひとすべてともいえる。かけがえのないひとを送る情景が、素直なことばの流れとともにしずかに伝わってくる。

丈艸もしづ子も、母亡き後、父は直ぐ後妻を迎えた。ふたりが背負ったこの同じ境遇は、私などにはどうしたってわかるはずもなく、こうしてこれらの句をただ置いて眺めるだけである。けれども、ふたりの句は250年という月日を隔てていながら、ともに「俳聖芭蕉の詩精神に一歩でもちかづくべく」情感ゆたかに響きあいながら並んでいる。

参考 
大量句、参照先の頁数(※)は、川村蘭太の前掲書による。
『稿本丈艸発句集』 市橋鐸 非売品 昭和34年
『蕉門研究資料集成 第五巻 「俳人丈艸」、「丈艸伝記考説」』
       市橋鐸著 佐藤勝明 編・解説 クレス出版 2004年
『丈艸発句漫談』 市橋鐸 非売品 昭和47年
『俳句と歩く』 宇多喜代子 KADOKAWA 平成28年

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