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2018年8月 3日 (金)

妙海寺 〈犬山市〉

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母 綾子の墓碑(日蓮宗 龍運山「妙海寺」 犬山市 撮影2017年晩夏)
       墓碑銘 「本蓮院妙信日綾大姉」
    「昭和二十六年十一月 鈴木しづ子 建之」とある。
 
             

ははの忌の棘美しき枳穀かな       鈴木しづ子  『指環』
               

    母の墓建てむと
この金や不浄ならざる枯れ簫々     (大量句 昭和26年11月)
   母の墓建つ
手向ければ菊花咲かるることのなし  (  〃   昭和26年12月)
おくつきを去り難く去る霜葉かな

犬山市の城下に幾つもの寺が密集しているところがある。そこには丈艸が使った座禅石なるものが伝えられている西蓮寺もある。その西蓮寺のすぐ北側に、鈴木しづ子が母の墓を建てた妙海寺がある。
本堂の南側に無縁仏群があり、そのなかに他の碑とは異なり、その墓石は色褪せることもなく立ち、遠くからでも一目でそれとわかる。しかし無縁仏としての竿石だけが残っており、もともと墓全体がどのようなものだったかは想像するしかない。なぜ無縁仏群に置かれているかについては親族の意向があった。墓の移動の際、行方知れずとなったしず子が、いつここへ来てもすぐそれとわかるように気遣ったからだという。しかも彼女の戸籍は今も犬山市に残っているらしい(※ 333頁)。

側に寄ると、これは彼女自身の碑であるかのように思えてくる。日付とともに刻された「鈴木しづ子建之」の文字とその大きさがそう語っている。
しかも本名の「鎭子」ではなく、俳人としての「しづ子」が之を建てたのだ、と見る者に訴えているかのようである。
前回触れたように、彼女は戦後1950(S25)年に関東から岐阜・各務原[那加町]に移り住み、翌年母の墓を建て、その1年後に消息を絶った。もちろん伯母が岐阜に住んでいた縁もあっての転居だったのだろうが、それよりむしろ、父祖ゆかりの犬山の菩提寺に母の墓を建てるために移ってきた、そうとしか思えない。年来の願いが叶い、そして去っていった。

冒頭の句について。
母綾子の忌日は昭和21年5月15日。三回忌にあたる昭和23年5月、まだ関東に住んでいたしづ子は妙海寺の法要に出席するため親族とともに犬山市を訪れており、そのころの句と思われる。
2句目の中七「不浄ならざる」は、自分の仕事にたいする矜恃か。

次回からも、鈴木しづ子に関わりのあったこの地域のことを書き綴る。

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妙海寺 無縁仏群(母綾子の墓碑は、すぐそれとわかる)

参考図書(前回挙げたものも含む)
『しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って』 川村蘭太 新潮社 2011年※
『風のささやき -しづ子絶唱』 江宮隆之 河出書房新社 2004年
『俳句と歩く』 宇多喜代子 KADOKAWA 平成28年

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