中野重治生家跡と墓所
丸岡図書館から中野重治生家跡へ向かう。
往復3㌔ほどなので歩いてみた。「丸岡城」が図書館の隣にある。歩きながら眺めただけだったが、姿はどことなく犬山城天守に似ている。昭和9年に国宝となっていたものの戦後間もない頃の福井大地震で壊れ、昭和30年に再建された。日本最古の天守として国宝登録をめざしている。同じく最古を標榜している犬山と勝負することになるのかどうか。
城について中野は、朝起きて横の川で顔を洗うといやでも真正面に「お天守」がみえたとか、木訥でいい恰好をした、いくさのための実用品だとも書いている。たしかに無骨な姿は他の天守にはない魅力がある。
国道8号を越え、小川に架かる一本田橋を渡ると西に生家跡や「太閤ざんまい」(墓地)が見えてきた。どちらも樹木に覆われているのでそれとすぐわかる。
毎年8月「くちなし忌」がおこなわれる生家跡地は、1980年に坂井市(旧丸岡町)へ寄贈された。
再現した屋敷間取りの台石、妹鈴子の詩碑などがあり、世田谷の書斎もそっくりここに移築されているが、外観しかわからない。今年は台風が多かったせいか枝木や葉っぱが散らばっているものの、整備は行き届いている。
遺言の最初に「中野重治の名を冠する文学賞、記念碑をつくってはならぬ。墓はあるのだから別に作ってはならぬ」とあった。けれども地元では1991年から毎年「中野重治記念文学奨励賞 全国高校生詩のコンクール」が募集されて2005年の終了まで続いたし、丸岡図書館に記念の碑はあり、この生家跡にも井桁状の碑(「中野重治ここに生まれここにそだつ」)、そして「梨の花の故地」と刻された標柱が据えられている。
生家跡から100㍍ほど北に先祖累代の墓所がある。「太閤ざんまい」とわれてきた。なんでも越前の検地のとき、接待した功によって秀吉から褒美で与えられた土地だそうだ。刈り取りのおわった田圃の一画にひときわ目立つ。
季節は過ぎてはいるが、墓回りに曼珠沙華がまだ何本か咲いていた。先祖の幾つかの墓石の並ぶ左端に中野重治の眠る「中野累代墓」がある。「中野家」としなかったのは妻政野(俳優原泉)の意向らしい。それもあって墓の前に立つと、謎の妖婆役がよく似合った原泉の面相がしぜんに浮かんできた。そして常に夫婦の側に影のように付き添っていたといわれる佐多稲子の姿も。
彼は終生ふる里の一本田、そしてそこでの暮らしを忘れることはなかった。この地に眠っていることはしあわせなことである。
それにしても、とりわけこのような時勢である。おりにふれ彼の書き遺したものを再読三読してみたいと思う。
[記]
写真:いずれも2018年10月撮影
参考(主なもののみ):
『文学アルバム中野重治』 中野重治研究会編 能登印刷・編集部 1989年
『中野重治展 ふる里への思い、そして闘い』 福井県ふるさと文学館 2016年