中野重治というひと
ま も
待ちてゐるすがた目守りつつ陸橋の
階のこまかきを急ぎてくだる 中野重治
『帝国大学新聞』1924年11月3日号(10月16日詠)
*小説『歌のわかれ』にも掲載
機関車が駅のホームに入って来ると、「しがみついてべそかいとったんや」と大人になっても笑いながら母が語っていた。煙や蒸気を勢いよく吐きながらホームに入ってくる機関車は、黒い大きな牛がいっきに近づいて来るようで、汽車待ちは幼いぼくにとっては怖い体験のひとつだったのだろう。
それでも小学校のなかごろになると、それを操る機関士はあこがれの仕事になっていた。中学の国語では、中野重治の詩『機関車』に心が動き、家に帰って何度も朗読したりした。やがてもう客車を蒸気機関車が引っ張る時代ではなくなりつつあったけれど、機関士になりたいという望みは高校に入るまで消えなかった。
当時もちろん、詩『機関車』で作者が謳おうとしていたものや彼の「決意」などは、分かるはずもなかった。
高校1年だったかの夏の読書感想文で、中野重治の『むらぎも』が課題図書のひとつになっていた(学校独自の選定本だったかもしれない)。購買部に所狭しと並べられているいくつかの課題本のなかから、当然のようにその文庫本を買い求めた。漱石や直哉などよりも、ぼくにとっては大切なひとの書いたもののように感じたからだ。ところが、新人会だとかプロレタリア文学だとか、当時の大学や社会のことなど全く知識のもち合わせがないから、退屈で難しい本だった。それでも、鬱屈した日々をおくっていた当時のぼくには、描かれた主人公の安吉が自分のとても近いところで動いているような感じがして、読み続けることができた。
いつになっても感想文が戻ってこなかったので、国語の担当教師にきくと、「あれ、出しといたよ」といわれた。うれしかったが、その後なんの音沙汰もなかった。続けて『歌のわかれ』、『梨の花』や『村の家』などを読んだのが最後で、高校を出てからは彼の書いたものがぼくの本棚に並ぶことはもうなかった。
ところが先月、図書館で見つけた『評伝中野重治』や彼の『評論集』を借りて読みながら、少年のころから痼りのようになっていたものが消えてゆくような、無くし物が偶然みつかったような気分になったのである。なぜなら、とはいっても難しい文学理論がわかったなどのことではなく、中野というひとは、そうか実はこういうひとだったのだ、と感じられたからである。たとえば、なぜ『機関車』の詩に心が動いたのか、なぜ高校生のぼくが安吉をとても身近に感じたのか、つまり、そのころは本当はよくわかっていなかった中野というひとがどんなひとなのか、あるいはその詩や文章に惹かれたわけが、ほんの少しかもしれないがわかってきたのである。
とりわけ政治的には誰よりも厳しいひとであったかもしれないし、その人柄もほんとうのところはしらない。けれども、「待ちてゐるすがた」のひとを目守りながら、「陸橋の階のこまかきを急ぎてくだる」というような若き22歳の中野重治というひとは、たぶん生涯変わらずそういうひとでありつづけただろうと思ったのである。
そういうひとの詩や歌、小説や評論に、これまで、そして最近も出会うことができたこと、そのことがうれしいのである。
日帰りで彼の故郷には行ける。行ってみようと考えている。
参考
冒頭の歌については、『歌のわかれ』の末尾にも主人公の作としてあげられているが、詳しくは下記の書 112~113頁参照。
『増訂 評伝中野重治』 松下 裕 平凡社ライブラリー 2011年
| 固定リンク
コメント