桂信子と信州 -1-
宮田村「真慶寺」近傍から南アルプスを望む(2019年1月)
昭和55年4月、桂信子は信濃毎日新聞にひと月前の3月末の宮田村訪問について紀行文を寄せた。その末尾に三句ある。
伊那に入る雪嶺そびえる山の奥
残雪の遠嶺を四方に伊那郡(ごおり)
雄叫びの声囀りにまじりたる
伊那宮田の地に根付いていた遠祖の人々に思いを馳せて詠んだものであろう。戦国の世、無念の死を遂げた先祖もいたにちがいないが、残雪の遠嶺に囲まれたこの地を訪ねると、長閑で平和な村であることに心安まる気がしているようにみえる。
この記事や、同じ年に書かれた「信濃紀行」(「俳句」6月号)にはおよそ次のようなことが記されていた。
昭和55年3月末、桂信子は新宿9時発「あずさ五号」で信州へ向かった。所用で上京した帰りのことであった。「上諏訪」で乗り換え、「駒ヶ根」で泊まったあと遠祖の地である宮田村を訪ねたのである。宮田村は彼女の遠祖の地であり、そこに祖先が築いた城があると小さい頃から父に聞かされていたが、それは幻の城であり、今までほんとうにあるかないのかもわかっていない。
一方、周囲のひとたちが最近しきりに自分の句碑を建てたがっているものの、当時の句碑ブームに違和感をもつ彼女は断り続けた。だがあくまで建碑を強行しようとする声に抗えず、宮田村にある遠祖の城跡がほんとうに残っていたなら、しかも自分の没後ならばという条件で「信濃全山十一月の月照らす」の句を建ててよいということにした。彼女は幻の城跡はないだろうと思っていたが、周囲のひとたちは、「ではそれを探しに行きましょう」と言い出し、ついに信州行きになったという。
実はこの旅行の直前、彼女は朝日新聞に「近況」として宮田村訪問を予告する文を寄せていた。これを見たひと、新聞社や出版社などが事前の協力を申し出たり、現地での調査を助けたりもした。ちょうどそのころ宮田村では『村誌』が編纂されていることもあって、村のひとたちも彼女の調査に一役買うことにつながったのである。
彼女は地元の研究者や郷土史家などど交流し、城址にかかわる幾つかの情報を知ることができた。ただし宮田城の跡らしい場所は以前から調べられてはいたものの、城址の存在を裏付ける決定的な「文献史料」は見つかっていなかった。
「幻の城、宮田城は、ほんとうの決め手のないまま、今も私の胸のうちにある。当分は句碑のたてる場所はきまらないであろうということが私を安心させた」のであった。
だがやがてこの遠祖の地に、彼女の句碑がたてられることになった。
宮田城址といわれる城山(中央)。その東麓(手前)には中央道が走る。
写真左側の住宅地あたりが「釈迦堂跡」で、宮田氏の居館跡と推定され
ている幾つかの候補のひとつである。
参考
『宮田城址 戦国時代の山城』 宮田城址保存会 2008年
*「信濃毎日」の記事は、このパンフレット(11頁)にある記事の
写しを参考にした。
『桂信子文集』(前掲)所収の「信濃紀行」(182~191頁)
『宮田村文化財マップ』 宮田村教育委員会 平成24年発行
『宮田村誌 上』 村田村誌刊行会 昭和57年
『宮田村誌 下』 同 昭和58年
『伊那の古城』 篠田徳登 ほおずき書籍 2010年改訂版
『伊那の文化財』 宮田村教育委員会等発行 1989年・電子版2010年
『桂信子全句集』(前掲)所収の「年譜」欄
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