桂信子と岐阜
『月光抄』にふるさとを詠んだものが何句かある。昭和19年。
ふるさとはよし夕月と鮎の香と
母ときてふるさとに吊る秋の蚊帳
『晩春』にも。昭和33年。
ふるさとの座布団厚し坐り切り
澄む水に燕まぶしき長良川
夕映えの一村囲む桑若葉
母生まれし家を自在やつばくらめ
また散文にもしばしばふるさとのことがでてくる。
句集『緑夜』に「川のながれ」と題する文章が収められており、父母のふるさとの長良川や鮎についてすこしふれている(『桂信子全句集』 342頁)。
さらに『桂信子文集』には、かつてまとめられた散文集『草花集』(昭和50年刊)が収められており、そこに「縁-岐阜の思い出-」が載っている。もともとは岐阜の俳誌『青樹』に寄稿したものだが、幼いころ岐阜の父母それぞれの実家に行ったときの回想や長良川と鮎のこと、さらに岐阜の各地に今も住む親戚のことなどが記されており、「私は大阪生まれだが、岐阜をわがふるさとと思いさだめているのである」と結んでいる。遠祖と深い関わりがある伊那の宮田村とともに、岐阜も父母の思い出とつながる忘れがたいところだったのである。
だがふるさと岐阜の、すぐそれとわかる具体的な地名はほとんど書かれていない。もとよりその地名についてこまかく穿鑿することは控えたいが、「わがふるさとと思いさだめている」ところはいったいどこだったのか、地元岐阜生まれの自分としては気になるところではある。
実は「縁-岐阜の思い出-」で、父の実家が「小藪」という地名であったこと、そして母の実家の隣が「円空上人」の生誕地であったことなどがわずかに記されている。そのことからすると、両親の実家はそれぞれ、父が現在の羽島市桑原町、母は羽島市上中町ではないかと推測できる。父がやがて岐阜を離れて大阪の丹羽家に養子に入ったことは前回の記事でもみたが、実は母も岐阜生まれであることがわかり、彼女が岐阜をふるさとだと思いさだめたことがいっそう実感できたのである。そこで年があらたまった先週末、自分の従姉も暮らしている羽島市まで足をのばしてみた。
父親の生まれたところは今の羽島市の南端であり、長良川と木曽川が背割堤に沿って併流する手前の地である。そこは古くから人々が川の流れを変えたりするなど、洪水と格闘してきたところであり、築堤のために村が川を挟んで分断されることをも受け入れた地域であった。またそこから5㌔余り北の母親の実家あたりは、句にもあるように当時桑畑に囲まれた農村であったが、今はそのすぐ北側に新幹線や名神高速がとおり、田畑は残るものの市街地化がすすんでいるようにみえる。
訪ねた日は快晴ではなかったけれども、見通しは悪くなかった。とりわけ桑原町付近の堤防から北東方面には、冠雪の御嶽山が浮島のように目の高さに見え、東には牛が横たわっているかのような恵那山もかすかに望むことができる。また西に目を向けると、山頂を雪雲が足早に駆け抜けている伊吹山の姿があり、眼下の長良川や木曽川は、流れることを忘れてしまったかのように沈思黙考していた。
伊吹山を詠んだ句のひとつ。
母指す伊吹に雪がてのひらほど 昭和32年 『晩春』
これは岐阜の実家から、あるいはたとえば列車から見えた風景だったのかわからないが、自分としては西から見た伊吹山ではなく、芭蕉も気に入っていたという濃尾平野からの風景であってほしいと願うばかりである。(芭蕉と伊吹山のことは以前に丈艸のこととあわせて記事(→✧)にした。)
ふるさとを岐阜と思いさだめた彼女が、母の指さす伊吹山を詠んでいたことは何よりもうれしいことである。
*冬の伊吹山と御嶽山
(羽島市桑原町付近の長良川河畔にて 2019年1月撮影)
参考
『青樹』 青樹社 昭和50年1月号
『桂信子全句集』 ふらんす堂 2007年
『桂信子文集』 ふらんす堂 2014年
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