桂信子の遠祖
年末、友人たちと会うため久し振りに名古屋へ出た。携帯した文庫本(『桂信子』自選三百句[春陽堂])を電車のなかで開き、今の季節に詠まれた句をボーッと眺めていた。
ひとひとりこころにありて除夜を過ぐ 『女身』(昭和30年刊)
忘年や身ほとりのものすべて塵 『樹影』(平成3年刊)
ふたつの句の間には、ほぼ40年ぐらいの時が流れている。『樹影』などの後期の句は、以前はあまり心を寄せることがなかったのに、いまこの句を眺めていると、自分の「身ほとりのもの」をあらためて見直したくなるし、ふだんの自分がいったい何に心を向けているのかについても考えさせられる。
この文庫本の句集は今から10年ほど前に手に入れたものだが、彼女が岐阜や長野に縁のあるひとであることをこのときはじめて知り、とても身近なひとにおもえたのである。
はじめに対談が載っている。
彼女は結婚する前は「丹羽」姓であった。ところが父親のもともとの姓は「宮田」であり、大阪の丹羽家の養子となって、生まれ故郷の岐阜を離れたのである。
その宮田家の先祖について、対談相手の村上護氏が「信濃全山十一月の月照らす」の句を話題にして、「先祖は伊那宮田の城主だったとか」と話を向けたときに彼女が答えている。
「信玄に負けて、そこから逃げるわけです。川中島の戦がすんでから、信玄が駆け付け、八人の領主を呼び出して狐島で惨殺した。これは『甲陽軍鑑』にも出ています。その首塚が伊那の奥の高遠の、そのまた奥の長谷村というところにありまして、"八人塚"といって、今でも長谷村で毎年六月に供養しているので、私も行くのですが、私の先祖は領主が殺されたあと危険を察知して岐阜に逃げるんですね。皆、逃げてしまっていますから、宮田村には全然"宮田"という姓の人は残っていないのです。それからしばらくして岐阜で織田信長に仕えた人があって、本能寺の変で信長と同じ日に亡くなっているんです。宮田彦治郎家利といって『信長公記』に名前が出ています。岐阜に住むようになってから、今で十四代目位です。」
*追記
私のもっているこの版(初版)では「宮田彦治郎」
とあるが「彦次郎」の誤植とおもわれる。
宮田彦次郎は本能寺の変のとき、信長の跡継ぎ信忠とともに二条新御所で討ち死にしている。その末裔が今でも岐阜で暮らしており、さらに宮田家が信州にあったころの遠祖は、今の上伊那郡宮田村を本拠にしていた城主だったというのである。上の対談で彼女が話したことは、『桂信子文集』(ふらんす堂 平成17年)のなかにある「信濃紀行 -わが幻の城始末記」と題された文章などにも記されているが、彼女と宮田村の深い関わりについては「桂信子と信州」であらためて述べる。
しかしそのまえに、彼女の父そして母の実家のあった岐阜のことにふれねばならない。ふるさと岐阜を詠んだ幾つかの句とともに次回みる。
参考
『桂信子 自選三百句』 春陽堂俳句文庫 平成4年
『桂信子文集』 ふらんす堂 2014年
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