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2019年4月

2019年4月15日 (月)

祝賀の宴

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          (犬山市の会場にて 2019年4月)

祝婚歌贈りて弥生はじまれり
 
上田日差子(うえだ ひざし)『忘南』

先週、仲間内十数人だけで友人の結婚祝賀会をした。
その結婚の便りの文面は以前の記事()ですこしふれたが、お互いに天命を知る年になっての結婚は、長く待ち望んでいたことだけに、ひとことでは言い表せない感慨を噛みしめているようにみえた。 ふたりが会場に姿を現したとき、その場の皆が受けとった幸せな気分は、会がお開きになるまで変わることはなかった。

幹事役のひとりだったので、準備の日々もまた幸せだった。名古屋へ出かけ、祝いの品について「あくまで実用で」といって店員さんと長い時間相談したこと。近くの花屋さんにふたりのイメージを聞かれ、「心がすいこまれるような春先の青空のような」などといってしまい、ずいぶん困った顔をされてしまったこと・・・

でもまだ幹事の仕事がのこっているので、当分はこの幸せが続くのかな。

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2019年4月10日 (水)

花疲れ?

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花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ 
杉田久女『杉田久女句集』

帯とくや花疲れより人疲れ    鈴木真砂女『紫木蓮』

年度末から先週にかけてあれこれ用事が重なり、花見どころではなかったが、すこし時間ができたのでカメラ片手に犬山城周辺と木曽川沿いを半日歩いてみた。ときどき強い風もあって花吹雪が舞う。

西側から城を見上げると、どうしても笑う「くまモン」を連想するのは、
なぜかしらん?
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やや遅れ気味に山桜が満開となっていた。
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城の東側を流れる郷瀬川沿いを北へ歩くと、やがて木曽川へ出る。
散った花片が落葉などと交じりながら木曽川へ流れ込み、何かしらの未練や残念があるかのように行きつ戻りつを繰り返し、渦巻きながら、やがて本流に運ばれてゆく。大切なものが去りゆくような、たとえば精霊流しのときのような、そんな情景も重なる花筏。
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さらに犬山橋方面へ木曽川沿いに歩く。すると鴨が花筏へ入り込んで夢中で花片を啄んでいる、というより呑み込んでいる(?)。ときおり心配そうな視線が遠くに向くのは、その先に産毛ののこる子が2羽いるからだろうか。それにしてもほんとうに花片を食べているのかどうか、長い間見つめていてもわからないままだった。
人の少ないところを巡ったので花疲れ、人疲れはなかったけれど、
ひょっとしたら、
「鴨疲れ」は、
あったかも。
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ところで二句について。
「花衣」は花見衣(花見の晴れ着)。まだ女性俳人のめずらしかった大正時代の詠。「花衣ぬぐや」が「うまい誘い」になっていて、「何によらず、締めてゆく手付(てつき)では現れぬ艶(えん)が、解いてゆく手付には現れるものだ」(『其句其人』)と安東次男は評釈し、まだ俳句読者の大半が男だった時代でもあり、作者に「挑発的意識があるだろう」とも述べている。
そうかもしれないと思う一方で、宇多喜代子は「まつはる」という表現に、「この紐が女の身にまといつくしがらみのようにも思われる」(『女性俳句の光と影』)と云っている。深く読めば、たしかにこの見方にも頷くところはある。

こうして句をあれこれ評釈するのも面白いが、中途半端を嫌った真砂女のきっぱりとした気性のうかがえる「帯とくや」の句は、明快でわかりやすく、実感がすぐ伝わってくる。久女と真砂女の人生を比べるとき、よく引用されているそれぞれの句を、やはり自分もここで並べてしまうのである。

足袋つぐやノラともならず教師妻  久女
冬菊やノラにならひて捨てし家   真砂女

(参考)
『人悲します恋をして』 鈴木真砂女 角川文庫クラシックス  1998年
『いつまでも、真砂女』 星谷とよみ KSS出版 1998年
『其句其人』 安東次男 ふらんす堂 1999年
『女性俳句の光と影』 宇多喜代子 NHK出版 2008年


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