江戸へ旅立った先祖
紅 葉 し て 百 姓 禰 宜 の 出 立 哉 小林一茶
父が書き遺した原稿用紙のなかに、母の実家についてのものもある。たぶん郡上の舅から折に触れて聞いた話をまとめたのだろうとおもう。そのなかに、「江戸へ旅立った先祖」という題で、母の実家に古くから語り継がれてきた或る話がある。
話は、実家の仏壇にある一柱の位牌と蔵に大切に保管されてきた脇差しにかかわることであった。位牌に記された俗名が、代々家で記録された先祖にはない名であったから、その位牌の由来を子や孫に伝えておく必要があったのだ。
江戸時代、母の実家のある郡上の村は幕府領(旗本領)であった。おそらく江戸時代の中頃の或る日のこと、検地か巡見のときに役人たちが村に来たが、家に立ち寄ったひとりの役人から思わぬ話が舞い込んだのである。
「江戸の我が家に、ぜひ子息を養子として迎えたい。」
百姓ではあったが、村の社( → cf. )の禰宜・神主(もちろん百姓禰宜)も兼ねていた当時の実家は、比較的裕福だったのだろう。その子は、たぶん次男か三男で、まだ十代半ばではあったものの、立ち振る舞いも人柄も良く、とくに算盤に才があり、跡継ぎのなかった役人がずいぶん惚れ込んだらしい。武家の跡継ぎにという養子話は、両親にとり名誉なことでもあったから断る理由もなく、少しく武家の素養も身に付け、数年後に彼は、おそらく中山道(木曾街道)を江戸へ向かうため旅立ったのだ。
もしもここで話が終わっていれば、幸せなことであるがゆえ、かえってその後長く語り継がれることもなかったかもしれない、と祖父が語ったという。
実は悲しいことに、その子は江戸へ行ってからその役人の家の跡継ぎとなったものの、ほどなく急な流行病に罹り亡くなってしまったそうだ。送り出した両親は悲嘆に暮れ、子を遠くの地へ手放すようなことは二度としまいと心に決めたという。
伝えられた話では、脇差しは江戸で亡くなった先祖の形見であり、仏壇にのこる位牌も江戸からもたらされたものだという。小学生のころ、実家へ行ったぼくはその位牌や脇差しを見たことがあるが、それらにまつわる話などは当時わかるはずもなく、父の書いたものを最近読んではじめて納得できたのである。
今やその実家も人の手に渡り、あの脇差しも何もかも家財一切は消え、祖父が父に話した伝承だけが残った。遠祖は平氏で、系図でわかるだけでも十五代続いた母の実家はもう消えてしまった。
それにしても旅立った先祖は、江戸のどのあたりで暮らし、どんなひとだったのだろう。仕えていた旗本は誰だったのかなど、彼のことを詳しく知りたくなるが、その術はもうないかもしれない。ただ唯一手がかりがあるとすれば、実家がなくなるときに菩提寺に預けられたという彼の位牌だけだろう。調べてみたい気もするが、祖父が父に語った伝承そのままに、こうして書きとどめておくだけにしようかともおもう。
そういえば村祭りのとき。
酒が入った祖父は、てらてらとした赤ら顔のまま禰宜の白装束に着替え、夜の祭礼に家から出かけていった。その姿は冒頭の一茶の句そのままであった。
母のことを、そろそろ先祖に報告せねば。
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