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2019年8月

2019年8月28日 (水)

来月は小休止

Wara
     鳳凰かと見紛う雲、色づく稲穂 
              《 母の里にて Aug./2019 》


PC の入れ替え作業やブログ記事の整理などのため、来月9月は記事投稿を休みます
(別ブログ「海の陸兵」も)。


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2019年8月14日 (水)

表四番町・九段北

以下の記事(表四番町・九段北)と前の記事(麻布竜土町・六本木)については、史料検証が十分でない点もあるので、さらに史料を読み込んだうえで、あらためて記事にします。
とくに乙原遠藤氏(二千石遠藤氏)と和良遠藤氏(一千石遠藤氏)のどちらが母の里を支配した旗本だったかについて、諸史料で違いがあるためです。
【追記:
2019 年9月20日】

 

さらに前回の記事の続き。
むかしのひとは言った。
「急いては事をし損じる。」
そうならないために、前回のことに加えてこれまで調べたことを更にメモしておく。

いちばんの問題は、先祖がいつごろ江戸へ行ったかによってかなり事情が変わることだ。祖父の語った伝承では、江戸時代の「中頃」に江戸へ行ったということだったが、その時期に旗本「和良遠藤氏」が母の在所の地域を支配していたことは確認されている。
だがさらによく調べてみると、江戸末期には、在所のあった地域の支配者が「和良遠藤氏」から「乙原遠藤氏」に
交替になっていることがわかった。両遠藤氏は元々兄弟の血筋であり、江戸末期まで、乙原遠藤氏は二千石、和良遠藤氏は一千石の知行地をもち、郡上の各地域を支配していたものの、江戸時代の後半のどこかの時点で在所のあった地域の支配者が入れ替わったらしい。
先祖が江戸へ行った時期によっては、彼が仕えた旗本はひょっとすると乙原遠藤氏のほうであったかもしれない。その可能性はゼロではない。
そんなことで、乙原遠藤氏のことも記しておく。

〇乙原遠藤氏
和良遠藤氏の兄の血筋で、初代は遠藤常昭。幕末まで九代続いた。

〇江戸屋敷
江戸屋敷は「表四番町」、今の「九段北」になる。
前回と同じように『江戸切絵図』の〈番町絵図〉で確かめると、八代目の「遠藤岩之助」の屋敷がある。さらに「古地図 MapFan」を使って調べると、そこは現在の靖国通りに面する「法政大学一口坂校舎」の場所と重なる。靖国神社のちょうど西隣にあたる。

〇菩提寺
初代常昭の菩提寺は郡上の八幡町にある「慈恩禅寺」であるが、二代目以降は江戸の「智光院」である。元は西浅草にあり、大正期以後は杉並へ移り現在に至っている。そこは「杉並区松ノ木三丁目」である。

先祖がはたしてどちらの旗本の家臣として仕えたのか、あまり急いで結論を出さないほうがいいかもしれない。もしかすると謎のままになるかもしれないが、これから時間のあるときに調べを続けてみようとおもう。



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2019年8月 5日 (月)

麻布竜土町・六本木

以下の記事(麻布竜土町・六本木)と次の記事(表四番町・九段北)については、史料検証が十分でない点もあるので、さらに史料を読み込んだうえで、あらためて記事にします。
とくに乙原遠藤氏(二千石遠藤氏)と和良遠藤氏(一千石遠藤氏)のどちらが母の里を支配した旗本だったかについて、諸史料で違いがあるためです。
【追記:
2019 年9月20日】

前回の記事の続き。

母方の祖父が父に話した伝承は、あのままにして触れないようにしよう、と記した。けれどもここ数日頭から離れなくて、やはりすこし調べてみようとおもい、岐阜県図書館へ足を運んだ。
まず祖父の村を江戸時代治めていた人物(旗本)について史料で確認することにした。江戸へ旅立った先祖が仕えたのはその旗本に間違いないし、主である旗本の屋敷に近いところに先祖が住んでいたことも確実なことだろう。
これらを調べるのは相当難しいかなとおもったが、実は悲しいくらい呆気なく判明した。忘れないうちにメモしておくことにする。

〇遠藤氏
江戸時代に郡上八幡の城主であった遠藤氏の分家筋が、郡上の村々を旗本知行所として支配していた。そのうち山田(遠藤)常紀の血筋が17世紀以降幕末まで六代にわたって和良村を治め、「和良遠藤氏」といわれていた。石高一千石であった。その遠藤氏に仕えていた家臣の誰かのところへ先祖は養子に入ったのである。

〇江戸屋敷
その江戸の屋敷は「麻布竜(龍)土町」にあり、そこは今の港区六本木七丁目になる
大急ぎで『江戸切絵図』の〈麻布絵図〉を確認した。すると竜土町に「遠藤求馬」の小さな屋敷が確認できた。絵図は幕末の嘉永四年のものであるが、当時の和良遠藤氏は五代目の遠藤常徳であり、「求馬」はその通称名であった。
さらに「古地図 with MapFan」( →cf. 注:Google Chrome対応 )のサイトを使って
遠藤求馬の屋敷の位置を現在の地図とシンクロさせると、屋敷は六本木通りの「みずほ銀行」から「明治屋」を含む地域にあたる。このあたりは組屋敷が集中していたから、おそらく先祖も組屋敷のどこかに居たのだろう。

〇菩提寺
和良遠藤氏代々の菩提寺は「法恩寺」であるが、当初は谷中にあったものの、その後移転して本所に移され今に至っている。そこは「墨田区太平一丁目」である。

江戸へ行った先祖が仕えた旗本の屋敷の場所
も菩提寺もわかったし、遠藤氏の家中の者たちの何人かについても史料はある。もしも位牌の俗名がわかれば養子に入った家臣のことも明らかになるだろう。

ひとまずのところ、江戸へ旅立った先祖の居場所がわかり、すこし気持ちが楽になったのである。
  


  

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2019年8月 1日 (木)

江戸へ旅立った先祖

紅 葉 し て 百 姓 禰 宜 の 出 立 哉   小林一茶

父が書き遺した原稿用紙のなかに、母の実家についてのものもある。
たぶん郡上の舅から折に触れて聞いた話をまとめたのだろうとおもう。そのなかに、「江戸へ旅立った先祖」という題で、母の実家に古くから語り継がれてきた或る話がある。

話は、実家の仏壇にある一柱の位牌と蔵に大切に保管されてきた脇差しにかかわることであった。位牌に記された俗名が、代々家で記録された先祖にはない名であったから、その位牌の由来を子や孫に伝えておく必要があったのだ。

江戸時代、母の実家のある郡上の村は幕府領(旗本領)であった。おそらく江戸時代の中頃の或る日のこと、検地か巡見のときに役人たちが村に来たが、家に立ち寄ったひとりの役人から思わぬ話が舞い込んだのである。

「江戸の我が家に、ぜひ子息を養子として迎えたい。」

百姓ではあったが、村の社( → cf. の禰宜・神主(もちろん百姓禰宜)も兼ねていた当時の実家は、比較的裕福だったのだろう。その子は、たぶん次男か三男で、まだ十代半ばではあったものの、立ち振る舞いも人柄も良く、とくに算盤に才があり、跡継ぎのなかった役人がずいぶん惚れ込んだらしい。武家の跡継ぎにという養子話は、両親にとり名誉なことでもあったから断る理由もなく、少しく武家の素養も身に付け、数年後に彼は、おそらく中山道(木曾街道)を江戸へ向かうため旅立ったのだ。
もしもここで話が終わっていれば、幸せなことであるがゆえ、かえってその後長く語り継がれることもなかったかもしれない、と祖父が語ったという。

実は悲しいことに、その子は江戸へ行ってからその役人の家の跡継ぎとなったものの、ほどなく急な流行病に罹り亡くなってしまったそうだ。送り出した両親は悲嘆に暮れ、子を遠くの地へ手放すようなことは二度としまいと心に決めたという。
伝えられた話では、脇差しは江戸で亡くなった先祖の形見であり、仏壇にのこる位牌も江戸からもたらされたものだという。小学生のころ、実家へ行ったぼくはその位牌や脇差しを見たことがあるが、それらにまつわる話などは当時わかるはずもなく、父の書いたものを最近読んではじめて納得できたのである。

今やその実家も人の手に渡り、あの脇差しも何もかも家財一切は消え、祖父が父に話した伝承だけが残った。遠祖は平氏で、系図でわかるだけでも十五代続いた母の実家はもう消えてしまった。
それにしても旅立った先祖は、江戸のどのあたりで暮らし、どんなひとだったのだろう。仕えていた旗本は誰だったのかなど、彼のことを詳しく知りたくなるが、その術はもうないかもしれない。ただ唯一手がかりがあるとすれば、実家がなくなるときに菩提寺に預けられたという彼の位牌だけだろう。調べてみたい気もするが、祖父が父に語った伝承そのままに、こうして書きとどめておくだけにしようかともおもう。

そういえば村祭りのとき。
酒が入った祖父は、てらてらとした赤ら顔のまま禰宜の白装束に着替え、
夜の祭礼に家から出かけていった。その姿は冒頭の一茶の句そのままであった。
母のことを、そろそろ先祖に報告せねば。

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