表四番町・九段北
以下の記事(表四番町・九段北)と前の記事(麻布竜土町・六本木)については、史料検証が十分でない点もあるので、さらに史料を読み込んだうえで、あらためて記事にします。
とくに乙原遠藤氏(二千石遠藤氏)と和良遠藤氏(一千石遠藤氏)のどちらが母の里を支配した旗本だったかについて、諸史料で違いがあるためです。
【追記:2019 年9月20日】
さらに前回の記事の続き。
むかしのひとは言った。「急いては事をし損じる。」
そうならないために、前回のことに加えてこれまで調べたことを更にメモしておく。
いちばんの問題は、先祖がいつごろ江戸へ行ったかによってかなり事情が変わることだ。祖父の語った伝承では、江戸時代の「中頃」に江戸へ行ったということだったが、その時期に旗本「和良遠藤氏」が母の在所の地域を支配していたことは確認されている。
だがさらによく調べてみると、江戸末期には、在所のあった地域の支配者が「和良遠藤氏」から「乙原遠藤氏」に交替になっていることがわかった。両遠藤氏は元々兄弟の血筋であり、江戸末期まで、乙原遠藤氏は二千石、和良遠藤氏は一千石の知行地をもち、郡上の各地域を支配していたものの、江戸時代の後半のどこかの時点で在所のあった地域の支配者が入れ替わったらしい。
先祖が江戸へ行った時期によっては、彼が仕えた旗本はひょっとすると乙原遠藤氏のほうであったかもしれない。その可能性はゼロではない。
そんなことで、乙原遠藤氏のことも記しておく。
〇乙原遠藤氏
和良遠藤氏の兄の血筋で、初代は遠藤常昭。幕末まで九代続いた。
〇江戸屋敷
江戸屋敷は「表四番町」、今の「九段北」になる。
前回と同じように『江戸切絵図』の〈番町絵図〉で確かめると、八代目の「遠藤岩之助」の屋敷がある。さらに「古地図 MapFan」を使って調べると、そこは現在の靖国通りに面する「法政大学一口坂校舎」の場所と重なる。靖国神社のちょうど西隣にあたる。
〇菩提寺
初代常昭の菩提寺は郡上の八幡町にある「慈恩禅寺」であるが、二代目以降は江戸の「智光院」である。元は西浅草にあり、大正期以後は杉並へ移り現在に至っている。そこは「杉並区松ノ木三丁目」である。
先祖がはたしてどちらの旗本の家臣として仕えたのか、あまり急いで結論を出さないほうがいいかもしれない。もしかすると謎のままになるかもしれないが、これから時間のあるときに調べを続けてみようとおもう。
| 固定リンク
コメント