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2019年8月 5日 (月)

麻布竜土町・六本木

以下の記事(麻布竜土町・六本木)と次の記事(表四番町・九段北)については、史料検証が十分でない点もあるので、さらに史料を読み込んだうえで、あらためて記事にします。
とくに乙原遠藤氏(二千石遠藤氏)と和良遠藤氏(一千石遠藤氏)のどちらが母の里を支配した旗本だったかについて、諸史料で違いがあるためです。
【追記:
2019 年9月20日】

前回の記事の続き。

母方の祖父が父に話した伝承は、あのままにして触れないようにしよう、と記した。けれどもここ数日頭から離れなくて、やはりすこし調べてみようとおもい、岐阜県図書館へ足を運んだ。
まず祖父の村を江戸時代治めていた人物(旗本)について史料で確認することにした。江戸へ旅立った先祖が仕えたのはその旗本に間違いないし、主である旗本の屋敷に近いところに先祖が住んでいたことも確実なことだろう。
これらを調べるのは相当難しいかなとおもったが、実は悲しいくらい呆気なく判明した。忘れないうちにメモしておくことにする。

〇遠藤氏
江戸時代に郡上八幡の城主であった遠藤氏の分家筋が、郡上の村々を旗本知行所として支配していた。そのうち山田(遠藤)常紀の血筋が17世紀以降幕末まで六代にわたって和良村を治め、「和良遠藤氏」といわれていた。石高一千石であった。その遠藤氏に仕えていた家臣の誰かのところへ先祖は養子に入ったのである。

〇江戸屋敷
その江戸の屋敷は「麻布竜(龍)土町」にあり、そこは今の港区六本木七丁目になる
大急ぎで『江戸切絵図』の〈麻布絵図〉を確認した。すると竜土町に「遠藤求馬」の小さな屋敷が確認できた。絵図は幕末の嘉永四年のものであるが、当時の和良遠藤氏は五代目の遠藤常徳であり、「求馬」はその通称名であった。
さらに「古地図 with MapFan」( →cf. 注:Google Chrome対応 )のサイトを使って
遠藤求馬の屋敷の位置を現在の地図とシンクロさせると、屋敷は六本木通りの「みずほ銀行」から「明治屋」を含む地域にあたる。このあたりは組屋敷が集中していたから、おそらく先祖も組屋敷のどこかに居たのだろう。

〇菩提寺
和良遠藤氏代々の菩提寺は「法恩寺」であるが、当初は谷中にあったものの、その後移転して本所に移され今に至っている。そこは「墨田区太平一丁目」である。

江戸へ行った先祖が仕えた旗本の屋敷の場所
も菩提寺もわかったし、遠藤氏の家中の者たちの何人かについても史料はある。もしも位牌の俗名がわかれば養子に入った家臣のことも明らかになるだろう。

ひとまずのところ、江戸へ旅立った先祖の居場所がわかり、すこし気持ちが楽になったのである。
  


  

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