鯖と雁(参)
犬山成田山より(1/12/2019)
引用する。
「こんなところに立って何を見てゐたのだ」と、僕が問うた。
石原は黙って池の方を指さした。岡田も僕も、灰色に濁った
夕の空氣を透かして、指さす方角を見た。其頃は根津に通ずる
古溝から、今三人の立ってゐる汀まで、一面に葦が茂ってゐた。
其葦の枯葉が池の中心に向って次第に疎になって、只枯蓮の襤
褸のやうな葉、海綿のやうな房が碁布せられ、葉や房の莖は、
種々の高さに折れて、それが鋭角に聳えて、景物に荒涼な趣を
添へてゐる。このbitume色の莖の間を縫って、黑ずんだ上に鈍
い反射を見せてゐる水の面を、十羽ばかりの雁が緩やかに往來
してゐる。中には停止して動かぬのもある。
264~265頁 『雁』 森林太郎 大正4年 籾山書店
物語進行の途中、不意に現れた景物描写。
あらすじを追う読者の心の動きが一瞬止まる箇所かもしれない。葦の枯葉、枯蓮の襤褸(ぼろ)のような葉、それらの莖が折れて鋭角に聳えている荒涼とした池の夕景。そして雁。
この箇所について、実は荷風が冬枯れの不忍池の叙景として是非読んで欲しいと述べ、随筆『上野』のなかでも引用している。
「敗荷」(枯蓮)は荷風の戯号でもある。
ひょっとしたら、この小説の顛末などより、鴎外はこの風景をこそ読者に思い描いて欲しかったのではないか。あるいは若き森林太郎自身が見た忘れがたい池の風景であったやもしれない。
あの日、二枚におろした鯖を食べてから、鴎外のこと、そして母方の遠祖が美濃に、父母ともに尾張に深い縁をもつ荷風のことを考えはじめている。
小西湖上にて
枯蓮にちなむ男の散歩かな 荷風(明治44年詠)
*不忍池を当時の漢詩壇が小西湖と表した。
参考:
『雁』 森林太郎 大正4年 籾山書店
「上野」 永井荷風 『荷風全集』第16巻 岩波書店
「枯葉の記」 『荷風俳句集』 加藤郁乎編 岩波文庫
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